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 キン、というバットにボールが当たる音や、部員たちのかけ声がグラウンドに響く。ピッチャーが冗談の延長で、内野手にサインらしき合図を送っていて、他の内野手もそれに応えている。今日は朝から薄曇りだったけど、夕方の今はかすかに陽が差していた。一階の美術室からはグラウンドが見える。でも今日は外に出てクロッキーをしていた。  帽子をあげて腕で汗をぬぐう仕草、地面を蹴ってジャンプ、ボールがグローブに吸い込まれる。白いユニフォームの半袖がはためく。脚と、腕の筋肉のしなやかな伸び。スケッチブックの用紙いっぱいに、ひとつひとつの動きを鉛筆が追っていく。  コロコロ、と座りこんでいる足元に白い球が転がってきた。ああ、タイムリミット、と近づいてくるスパイクの足音に観念した。ザリザリという足音は、わたしの一メートル斜めまえくらいで静かに止まった。そのひとはボールを拾わずに、黒色の帽子をとって頭を下げた。  約二週間、学年が違うとはいえわたしはよく逃げ切ったんじゃないだろうか。そもそも追われてなんかいなかったけど。あの日、朝比奈くんに預けたままだった傘は翌日、家の玄関の前に返されていた。  わたしが隠れるように行動していただけだったけど、でも一、二度目撃した移動教室に向かう彼や、下校するときの彼は、だれかを探しているみたいに、どこか不安げだった。  そして、あの夢をみた日を境に雨が降ってもオルは姿を見せなかった。なんとなく、なんとなくだけどもう会えない気がしていた。 「今日は野球場での練習じゃないんやね」 「施設点検があるとかで、明後日までは使えないんです」  わたしの問いかけに朝比奈くんは少し驚いたようだったけど、戸惑うでもなく答えてくれた。専用グラウンドではないけど、うちの野球部がおもに練習するのは、ここから徒歩5分のあの野球場だった。わたしの家の窓から朝比奈くんと目が合ってからは、なるべく気づかれないように行動していたつもりだった。お葬式のときは、わたしは朝比奈くんを朝比奈くんとは知らなかったし、彼もわたしを認識していないと思っていた。でも彼はどうしてかわたしを知っていたし、目立たないようにしたところで意味はなかったようだ…………あれ?   そういえば、なんでわたしが()()()織を描いてるって知ってはったんやろう? わたしが美術部に入ったのは高校生になってからだし、朝比奈くんは学年がひとつ下なのに、どういうことだろう?  それに、この間初めて口を利いたときにずっとわたしを見ていたと言っていた。それって、いつから?  ひとりで静かに混乱していたら、「オレは卑怯でした」と朝比奈くんがぽつりと言った。 「オレは、理緒さんがオレのことに気づいてることも、野球部の練習を見て篠山を絵に描いてることも知ってました。あいつの……、篠山の事故はオレのせいです。でもそれをいつまでも言い出せなくて、せめて代わりに花を……って」  朝比奈くんは片手に帽子を握りしめてうつむいていた。カン、と乾いた音が響いて「おーっ、いったいった」と笑み混じりにはしゃぐ野球部員たちの声が届いた。 「朝比奈くん……」 「……はい」 「わたしのこと、いつから知ってはったん?」 「えっ?」 「この間は頭が混乱していてそこまで思い至らなかったけど、朝比奈くんがわたしを知ったのって、織のお葬式? そうやったとしても、なんでわたしが織の絵を描いてることを知ってる()()なん? わたしが絵を描き出したのは、高校に入ってからやけど」 「…………っ!」  朝比奈くんは急に身を硬くして青ざめた。いやそれは、とか、なんで今に限って、とか口の中でもごもご言っている。  …………怪しい。  わたしが不審がっていると、「おーい朝比奈ぁ。なにしてるん? (はよ)う戻ってこい」とグランドから彼を呼び戻す声がした。肩越しにそれにふり返った朝比奈くんは、視線を行ったり来たりさせた。 「朝比奈くん?」 「あ、……うっ……」  さっきまでの落ち着きはどこへやら、朝比奈くんはこめかみから汗を吹き出し、今にも気絶そうだ。でも突然、なにかを決意したように、キュッと眉をよせて大きく息を吸い、 「…………っ、ごめんなさい!! ずっとあなたが好きでしたっ!!」  と、大声で叫んだ。 *  そのあとの騒ぎを思い返して、わたしは美術室の机に突っ伏していた。となりでは、朝比奈くんが帽子をまだもったまま文字通り右往左往している。 「……絶対うわさになるよね、これ……」と、わたしの吐いた息は重い。 「こ、こんなことを言うつもりでは……」と、朝比奈くんは落ち込みが激しい。  朝比奈くんの盛大な公開告白は、グラウンドに響き渡った。一瞬で静まり返ったその場は、あとがもう悲惨だった。野球部員たちはもちろん、他の数人の運動部員もまじってお祭りみたいになった。棒立ちになっていたわたしは、なんとか我に返って、朝比奈くんを美術室に引っぱっていった。その最中も、外野の煩さに気が遠くなった。もうアカン、一生の不覚。と、スケッチブックも机に放りだして、教室のカーテンも窓もドアも閉めて、かれこれ20分くらい経った。朝比奈くんは泣きそうだった。いや、泣きたいのはわたしだよ……。 「し、篠山さん、すみませ――――」 「もう謝らんといて」  謝ろうとする彼を、()ねつけた。とたんに身体を縮めるようにした朝比奈くんは、青菜に塩って感じだった。今週、国語の教科書で読んだ部分に載ってたよねとどうでもいいことを考える。  わたしが突っ伏している間、毒を食らわば皿まで……といった心境だったのかはともかく、彼はしゃべり倒した。朝比奈くんによれば、わたしを初めて見たのは彼が中学二年生になったばかりの移動教室の途中のことで、その数日後に織と昇降口で話しているところをまた見かけたそうだ。 織とわたしが二人で一つの傘に入って帰っていくのに、とても衝撃を受けて、彼がわたしに一目ぼれ的なことをしたらしいと悟ったとのこと。わたしとの接点をなんとかもちたくて、織に協力してもらおうと必死だったこと。わたしが通う高校に、織と合格した矢先、織が事故で亡くなくなったこと。だから――これはこの間も聞いたけど――、彼のできる範囲でわたしを観察……いや、見ていたらしいこと。 「……なんでわたしが織を描いてるなんて思ったん」  まだ机に突っ伏したまま、わたしはつぶやいた。 「……高校に入ってから、理……、篠山さんが野球部をスケッチしてはるのを何回も見てきたし、今年、願書を出しに来たときもグラウンドにいる篠山さんを偶然……。あと、去年の文化祭の絵も見てきっとそうなんやろうなと思ったんです。あの絵は、篠山ですよね……?」 「えっ!? 去年の文化祭って、斎南(うち)の文化祭!? 来たん!?」 「は、はい……」  わたしはガバッと身体を起こして、朝比奈くんの返事を聞いてまた机へ伏せた。彼が言ったのは、去年十月の文化祭で展示したあの絵のことだ。野球のユニフォームを着た男の子の絵。まさか文化祭に来てたなんて……。 「軽いストーカーよね」 「ヤバい自覚はあります……」  いま、頭のなかが大渋滞を起こしてしんどい。織のアホ……と独りごちた。協力を頼まれてたって、なんで教えてくれへんかったん。そんなんでツインソウルとか、どれだけバカバカしいん。朝比奈は勝手にわたしをストーキングしてるし、なんなん、どいつもこいつも。 「うああぁっ!! もうアホらしいっ!!」 「りっ理緒さん!?」  わたしは机をバァンと叩いて、ついでに放っていたスケッチブックもベシッと床に投げつけた。興奮して息があがる。 「――――朝比奈くんは勘違いしたはるわ」 「えっ……」  彼は小さめの目を見開いた。 「勘違いしてる。わたしは織の絵なんか描いてないし、事故は朝比奈くんが起こしたわけじゃない」 「えっ? いや、でも」 「文化祭のあの絵が織やなんて、だれかに聞いた?」 「いや、誰からも……」 「じゃあ、わたしが描いてないっていったら描いてない」 「いや、でもっ!」 「でも何?」 「あのユニフォーム着たのは、だれがモデルやったんです? あれは、あいつですよね!? 学校のグラウンドでも野球場でも野球部を描いて、あの絵が織じゃないなんて、じゃあなんであの絵を描いたんですか?」  朝比奈くんは必死だった。 「……なんで朝比奈くんがそんな必死なん」 「それは……! それは、理緒さんはいつも誰かを探してるみたいに、さみしそうやったから……! これが篠山やったら、少しは理緒さんの気持ちが楽になってるんかもって、オレが思いたかったんです。理緒さんはもう謝るなって言ったけど、オレはやっぱり、自分のせいやって、許せなくて……」 「だから! それ!」  朝比奈くんにビシッと指を突きつけた。 「この間も思ったけど、今まで黙ってきたくせに勝手に決着つけようとして、わたしは、許すも許さんもない。わたしは、まだ織を――――」  ぽろ、と涙が零れでた。朝比奈くんは仰天したらしく、呆然とわたしを凝視したまままったく動かなくなった。 「まだ織を、喪(な)くしてない…………」  すぐ会えるよと、あの日、織が言ったから。
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