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 息を引きとる直前、もうほとんど意識がない状態だったけど、病院に駆けつけたわたしに織はそう言った。現実じゃなくて、夢のなかにいるみたいな景色だった。お母さんも、お父さんも顔色が悪くて、なんだか遠くて。織は何度呼んでもそれ以上はもう応えてくれなくて、あまりにも悲しいのに、どうしてだか胸があたたかかった。心が引き裂かれるみたいに泣いたのに、お別れとは思えなかった。  だから、高校生になった織がいないなら、それを創り出せばいいと事故から間もないときに考えついた。それが絵だった。でもぜんぜん簡単じゃなかった。スケッチを練習したら、きっと織を描けるようになると信じていたのに。 「あれは、織じゃないよ……」 「――――――」 「わたしは、描けなかった…………」 *  わたしは涙をぬぐって、閉めていたカーテンと教室の窓とドアを開けた。風がサアッと入ってきて、雲のあいだから差した夕陽に、練習に戻ったらしい野球部員たちが照らされていた。   「スケッチってね、被写体――モデルをじっくり観察して描くんよ。わたしが今描いてるのは――、してるのはクロッキー。クロッキーは短時間で細かいところにこだわらずにサッと描くものなんよ。わたしは両方やって初めてその違いに気づいた」  人物の骨格や動きをとらえて上達を図るために、顧問の先生からクロッキーもやりなさいと言われた。一ヶ月間集中してクロッキーに取り組んだあと、人物デッサンに戻った。そこで、わたしは打ちのめされた。  ――――――織のデッサンなんか、できない。  中学校の行事での写真や、家族旅行での織を写したものはあった。でも、それは成長した織ではなく過去の織だ。顎の線、髪型、背丈、骨格、筋肉のつきかた、そんなものをどうやって細かく観察して描けばいいの? 未来の弟を、わたしは知らない。でも絶対にできると思って、野球のユニフォームを着た男の子を描いた。男の子の、後ろ姿を。 「あの絵って、グローブをもって、だれかと肩を叩きあってる後ろ姿やったやろう? なんとなく織に似せたけど、未来の織なんてどうやっても描けへんかった……」 「……オレは、てっきりあいつかと……」  うしろに立つ朝比奈くんをふりかえった。 「家族の横顔の輪郭なんて覚えてる? 写真って、いつも前を向いてることない?」  そう、写真は参考にならなかった。顔の正面が描けないなら後ろ姿にして、そこから覗く横顔だけでも織の輪郭に似せようとした。でもわからなかった。それまでまともに弟を描いたことなどないわたしに、まったくの素人にそんなことはできるわけがなかった。そして描けば描くほど、他人と織のちがいが明らかになるだけだった。 「でも、じゃあ……。まだ野球部員を描いてるのは、なんでなんですか?」  朝比奈くんが泣きそうな顔をしていた。わたしもきっと、あまりにも悲しくて、壊れ物みたいな記憶にふれるのが怖かった。大切にしていたはずのものは、きっとずっと置き去りになっていた。 「…………逢えるかもしれへんから。ボールを拾って投げるひとが、織かもしれへんから――――――」  ふたりが信じていたら逢える。その織の言葉を今度はわたしが信じていたい。離れていても、わたしが願えば、織も願ってくれる。織とわたしが、同じ気持ちでいるなら。  またグランドのほうへ向いて、まっすぐ見たその先に、雲の間から差した夕陽がふわっとさえぎられた。白いユニフォーム、ううん、ネコ……? 「………オル………?」 「――――理緒さん」  手のなかでぐしゃぐしゃになっていった帽子を被って、朝比奈くんがわたしの隣に立って、わたしが床に投げたスケッチブックを渡してくれた。帽子を被ると、朝比奈くんは凛々しく見えて、なんだか少し切なくなった。 「今度の日曜日は試合やけど、試合が終わったら菊をもっていきます」  日曜日は織の月命日だ。 「……ありがとう、(ちか)くん。晴れるといいね」  真剣にわたしを見つめる彼の目を見返して、わたしは微笑んだ。  *  その後――――――。  日曜日の試合にわたしが来たことに動転した朝比奈くんが、ミスを連発し、七回表でコールド負けになったり。  わたしが織と同じく動物好きなことを織から聞いていた朝比奈くんが、動物が苦手なのを克服するというよくわからない情熱を抱いていたことを知って、わたしがドン引きしたり。そのことで落ち込んだ朝比奈くんが、ネコを飼うとさらに訳のわからない宣言をしたり。  そして、あの白猫は――――、オルは――――――。  きっと、また逢えるよね。そうだよね、織――――。
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