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ミニクイ恋
同窓会に誘う旧友の声に、懐かしさを覚える一方で、彼は昔の、風化していたと呼ぶに足る苦い初恋を―――初体験に纏わる苦い記憶を思い出していた。
「何だよ、来るのか?」
沈黙した受話器の向こうから、彼の押し黙った雰囲気を感じ取ったのか、旧友は昔話も程々に切り上げると結論を聞いた。来るのか、来ないか?と。
予定はないから行くよ、と応えた彼はメモ帳にその約束を書き込むと、旧友に詳細はメールで送って欲しいと携帯電話のアドレスを教えた。
「じゃぁ、またな」
昔を懐かしみフランクな挨拶で旧友に頷いた彼は電話を切った。
◇
別に童貞である事が恥ずかしかった訳じゃない。興味がなかった訳でもない。ただ、周りの友人達がその体験を終えたと――胸を張って云う姿が鬱陶しく、売り言葉に買い言葉と云った勢いで、つい大見得を切って、自分だって済んでいる!と嘯いたのが、この恋の始まりだった。
クラスでも目立たない。あまり女生徒達とも親しくしていないある女子を、彼は選んだ。
大見得を切ったが、何時かはその嘘が露呈する。それに遅かれ早かれ済ませる事だ。女なら誰だって良かった。なら、簡単にやらせて貰えそうな女子を選んだ結果が、彼女だった。
顔立ちこそスッキリしている――色白で丸い顔で、幼い雰囲気のある彼女だったが、外見に気を使わないのか、その長めの髪は無造作に束ねられていた。視力が悪いらしい彼女は、コンタクトなどせず、フレームの太いメガネを掛けている。ポテンシャルは上の中と云える。だが、内面から醸し出す雰囲気が、彼女の評価を悪くさせていた感があった。下の上と云った彼女は、所謂オタクだった。
今でこそその言葉は偏屈な嗜好性と知識を持つ人物の代名詞的なモノとなったが、当時はネクラをオブラートに包んで揶揄する言葉以外の何ものでもなかった。彼女は少女漫画が好きだった。だが、彼はそれを否定しなかった。彼女と仲良くなるきっかけもそれだったからだ。
口説き文句にしてはあまり良いものではなかったが、彼もまたその年代の友人達に比べれば漫画やアニメと云ったモノを見る事が多かったから偏見などは持ち合わせていなかったのも、彼女を安心させた理由だったかも知れない。
そう云って彼女に取り入り、徐々に関係を築いていった彼は紳士的だっただろう。身体だけが――セックスする事だけが目的に付き合おうと、親しくなろうと云う動機だったのだ。その気になれば押し倒し、無理矢理彼女を犯す事も出来たのに、自尊心に似た小さなプライドが彼にそれを許さなかったのは幸いだったのかも知れない。時間をかけ、彼女と親しくなっていった彼は遂に肉体関係を持つ事に成功した。
勿論、彼はその日を境に彼女とは会っていない。受験が重なり、会う事も出来なくなったと云うのが理由だが、彼女からしてみれば遊ばれていたと思われても仕方のない事だったのかもしれない。
◇
約十年ぶりに会う友人達は、一部を除き、誰が誰であるのかわからないほど変貌していた。成長と成熟と云う時間の流れを感じつつ、同窓会は当然のように自己紹介から始まった。
一次会での飲食と談笑も進み、予定した時間を半分ほど消化した頃に、彼女はやって来た。酔っていた所為もあったが、男性達は一様に喚声を上げると、心待ちにしていたと云った様子で彼女を部屋へと迎え入れた。誰だ誰だ?と男性達が囁き合う中、ある女性が『堂(たかどの)?』と女性の正体に気付いた。
「久しぶり、皆、変わったね」
微笑と云う字を、美笑と書き換えたくなるほど、彼女は慎ましやかに笑った。
変わった?貴方が一番変わったわよ、と当時の堂を知る女性達は口を揃えて、彼女の変貌振りに感嘆していた。だが、堂と云う名前を聞いた時、彼は――社(やしろ)は思わず口に含んでいたアルコールを吹き出した。
「汚ッねぇなー」と言いながらお絞りでテーブルを拭く友人の気遣いの言葉と、非難する視線を無視し、社は遅れてやって来た堂を観察していた。
「何?」と云う視線を返す彼女に気付いた社は慌てて視線を逸らした。
気まずかった。
嫌な思い出が蘇る。
堂は、社の初体験の相手だった。
「・・・・・・・・・二次会には行くか?」
旧友の誘いの言葉に社はハッとした。
「え?は、いや・・・・。どうしようか――な」
歯切れ悪く応える社の視界の隅で笑っている堂の姿が映っていた。彼女が来なければ行くかもしれない。いや、彼女は一次会に遅れて来たのだ。多分、二次会には参加するのだろう。彼女と顔を合わせるのは正直避けたい。気まずい、憂鬱だ。そんな言葉が社の頭の端に浮かんで来た。
「あぁ―――・・・いや、明日の午後から学会に向けての会議があるんだ、教授と」
口から出た出任せに旧友は肩をすぼめた。
「お、何だよ、つれないなぁ」旧友は社の肩に腕を回し、無精髭の生えた頬を摺り寄せてくる。「でも、将来の教授様は忙しいんだろうな」
「俺はまだ院生だよ。確かに先生方の推薦もあるからそのまま研究室に入ろうとは思うけど」
社は将来をあまり真剣に考えていなかった。だが、研究は面白いと云う感覚から院に進学し、そしてそのまま研究室に居座ろうとしている。特別、勉強が出来るわけじゃない。だが、勉強は嫌いじゃない。だから、断る理由もなかったのだ。
「・・・うん、まぁ」
適当に相槌を返した社はグラスに残ったアルコールを煽った。
一次会の終了時間も近づき、幹事からラストオーダーの宣言がなされ、参加者達がメニューに視線を落とす中、社は適当に甘い酒でも頼んでおいて、と旧友に告げるとトイレに向かった。アルコールであまり酔えない社は身体の感覚が鈍るばかりで、他の友人達のように昂揚感を味わえない。頭だけはどうしても冴えたままなのだ。恐らくこの疲労感が酔っている証拠なのだろうが、あまり心地の良いものではない。気だるそうに長い溜め息を零し、肩を落としながら、ふらつく足でトイレへと向かった社は、そこで最も避けたい人物――堂と出くわしてしまった。どうやら彼女は化粧直しに席を外していたようだ。
「トイレ?」
言葉に詰まる社とは対照的に堂は飄々と挨拶を投げ掛けてきた。戸惑う彼に近づいてくる堂からは、甘い香りがした。お酒の匂いなのか、香水の匂いなのか。だが、甘ったるいその香りはどこか懐かしかった。
「あ、うん」
正直彼女の顔を直視できなかった社は、漏れそうなんだ、と苦笑しながら下腹部に手を宛がいそれをアピールした。みたいね、と微笑み返した彼女の横を抜け、トイレへと逃げ込んだ社。個室の扉を閉め、便座を上げた社は嗚咽と共に胃袋の中身を吐き出した。
何だろう。気持ち悪い。こんな不愉快な気持ちを味わったのは、あの初体験以来だな、と社は青春時代の、文字通り酸っぱい情景を思い出し、涙目になっていた。
その後何度か咽の奥に指を突っ込み、胃の中を空にさせた社は口を濯ぎ、トイレを出た。
だが、そこには堂が待っていた。
大丈夫?と言いたげな表情で社を覗き込む彼女をあしらい、大丈夫だと頷いた社。
「本当に?」
「あぁ―――大丈夫、吐いたから」
片手を上げて、堂の視線を遮った社は早々にこの場から立ち去り、旧友達の談笑が響く部屋へと戻りたかった。気まずい、兎に角気まずい。
「待ってよ」
堂は社の掲げた手を掴んだ。
「何だよ?」
振り払った社の前に出た堂は言った。
「私の事、避けてる?」覚えていないの?と云った表情で眉間に皺を刻んだ堂は続ける。「それともやっぱりアレ?気まずい?」
「・・・・・・気まずいよ」
社は堂の視線から兎に角逃げようと努めた。
「何で?」
戸惑う社を咎めるような調子で追求してくる堂。彼女の隠しきれない憤りが感じられる。何をそんなに怒っているのだろうか。いや、怒るのは当然だろうか。忘れるには苦い思い出だし、汚い恋だったのを社は自覚している。だからこそ触れて欲しくない。風化した思い出なのだと、割切って欲しい。
「・・・・・・・・身勝手な話か」
社の呟きに目敏く堂が反応する。
「何?」と追求する堂に、社はいっその事全てを吐露してしまおうか。と思った。この罪悪感に一生苛まれるくらいなら、彼女に最低と言われるのがわかっていても告白する方が良い。その方が気が楽だ。
だが、それこそ身勝手な話かもしれない。
社は改めた。
最低な初体験の相手で良い。それで良いではないか!と、社は思う。
「・・・・・今日、同窓会に来たのは社君に会う為だったんだよ?」
タイミング悪く堂の方が告白を始めてしまう。
何で?と聞き返す社は淡い期待を覚えている自分に気付いた。
「何で?」
「あの時の事を聞きたかったから・・・・」
逃げられない。
社は断罪される自分を想像した。
最低だと罵られるのは構わない。
自分でも最低だと思う。
「遅刻したのだって、本当は決心が中々つかなかったからで・・・・本当は―――ううん。何でもない」
一瞬だけ沈んだ表情を覗かせた堂は首を振った。視線を上げた彼女を漸く見返す事が出来た社は、聞かない方が良いよ、と思わず口にしてしまう。
「良いの?聞かない方が―――まだマシだったって思うかも」
この期に及んで?まだ逃げるのか?言い訳をしている。
わかっている。
社は小さく首を振った。
「良いよ。このまま煮え切らない方が―――・・・ずっと気持ち悪い」
堂は睨みつけた。その真摯な瞳はまるで突きつけられたナイフか拳銃のように社を拘束した。引き寄せられた――のかもしれない、その強い眼差しを受けた社は、本当に逃げられないと諦めると、外で話すよと言って彼女を隣の駐車場へと誘った。
一気飲みコールが叫ばれている同窓会会場の脇を抜け、階段を下り、店員にひと言断りを入れてから店外へと出た社と堂。冷たい夜風が頬を撫でた。アルコールで酔った身体――火照っている筈の身体が大きく震えた。寒くはない。武者震いとか、そんな何かに対する防衛機制のような反射が訴えているのだろうか。
覚悟を決めろ、と。
「ここで良い?」
調理場に面しているのか、換気扇の口からは香ばしい匂いと、メニューを確認する店員達の声がする。罪を告白するには些か情緒がなかったが、落ち着いた場所で、向かい合って深刻な顔を突きつけるよりは幾分かマシだろう。
「私は良いよ、別に、どこでも」
堂の返事を確認した社は一度大きく深呼吸すると、最低な話だ、と口火を切った。
数分とない社の告白を終始無言のまま、無表情のまま、聞いていた。そして最後に、最低、と小さく呟いた。
「私みたいのだったら、やらせてくれると思ったんだ」
「そう」
「拝み倒せると思ったんだ」
「うん」
「身体だけが目的だったんだ?」
「そう」
「嫌いだったんだ?」
その質問に社は首を振った。
「―――――じゃぁ、何でセックスしてから全然会ってくれなかったの?」
堂は少しだけ上ずった声だった。
「友達に、堂みたいな不細工な女と付き合ってるなんて言われたくなかったから」
違う。
これは建前だ。
「最低」と呟いた堂を見る事が出来なかった社は、違う、と首を振った。
まだ逃げるのか?
また逃げるのか?
そして後悔するのか?
「少なくともそう言う事で―――・・・・・男友達からは同情されると思ったんだ。女なんて同じだろ?でも、気持ち良かっただろ?って。勿論、女子には罵詈雑言を言われただろうけど・・・・」
最低、と吐き捨てる堂。彼女の言葉が社の胸に突き刺さる。だが、彼女の言葉はどこか濡れていた。悲しげに聞こえた。いや、泣いているのは同じだろう、と社は苦笑した。
「それで?気持ち良かった?私の身体は」
胸を叩く仕草がほんの少しだけ視界の端に映った。直視できない。社は更に視線を下げて、顔を伏せる。
「気持ち良かった。だけど、こんなものか、とも思った。痛そうに、辛そうにしている堂さんを見て、俺は何をやっているんだろう――・・・って思った」
「私は好きだから誘ったのよ?」
堂は殆ど泣いていた。
「俺も好きだったから」
だけど、逃げた。
何から?
自分の恋心からだ。
友達にバカにされるのが嫌だったから。
違う。
堂に申し訳ないと思ったからだ。
最低な動機で彼女を誘った。
身体が目的で優しくした。
だけど、押し倒す勇気はなかった。
自尊心が許さなかった。
過程で、それを育んだ。
気付かなかった。
その過程の方が全然楽しかった事に。
好きになったんだ、本当に。
彼女に肉体関係を求められた時、最初の目的を――・・・動機を思い出した。
最低だった。
悩んだ。
だけど、やってしまった。
「――――好きだったからだ。だけど、堂さんに失礼だと思った。だから、逃げたんだ」
こんなにも感情的な言葉が滑らかに出るなんて知らなかった。開き直っているのだろうか。いや、多分諦めているのだろう、と社は小さく笑った。それだけが精一杯の表情だったからだ。
「それ」
堂は社の胸ポケットに刺さっているサングラスを指差した。
え?と驚いた社は、一瞬彼女が何を求めているのか、言っているのかわからなかった。
「貸して」と云うや否や徐に手を伸ばした堂はサングラスを奪い取った。「コンタクトに変えたの」
堂はまるで聞かなかったかのように話題を変えてきた。
「みたいだね。因みにそれは伊達だよ」
調子を合わせようとする社は、真意の知れない堂に少し恐々としていた。何が彼女を怒らせるのか、爆発させるのかわからない。その懐からナイフが飛び出してきて、自分の胸を刺したとしてもきっと彼女を責める事は出来ないだろう。そんな下らない妄想と覚悟が今の社にはあった。もう完全に彼は開き直っていた。
「友達にね。整形したんじゃないの?とかさっき言われた。でも、何て事ないんだけどね。化粧を勉強して、髪を少し染めて―――・・・・・痩せたくらいなんだよ?失礼じゃないそれって」
そうだね、と失笑を零した社は顔を上げた。
「私ね、結構・・・・今は男の人にもてるんだ。合コンとかにも誘われるし、告白されたりもするんだよ」
そうんなんだ、と社は俯いた。
「でも、私はこんな格好は嫌い。疲れるし、足は痛いし、化粧も面倒くさいし」
ポケットの中から堂は髪留め用のゴム――毛糸のようにモコモコとした太目のゴムを取り出した。ひとつを口に咥え、ひとつを指先に絡める。肩に掛かる髪を左右に分けた堂はその根元をゴムで縛り、束ね始める。
「私は何にも変わってない。昔と同じ」
メガネを掛け、無造作に髪を束ねる姿はどこか昔の堂の姿に似ている。いや、本人なのだから当然だ。だが、どこか懐かしい雰囲気がある。
「知ってたんだよ」
「何を?」
「社君が自分は経験済みだって嘯いていた事」堂は縁石の上に腰を下ろした堂は足を揃え、伸びでもするかのように小さく唸った。「う~・・・っとね。私は、人と接するのが苦手で、それに少し怖くて・・・・。だから何時も周りに聞き耳を立ててたの。でも、別にそれでも良かったの―――かな。こんな私でも、そんなふうに見てくれる男子がいたんだって。少し嬉しかった」
「―――そう、なんだ」
社は言葉に詰まった。正直、初体験の時の自分は気持ちだけが焦っていた。求めていた、と云うよりは貪ろうとしていた。余裕もなければ、技術もなかった。最低だった。色んな意味で。
「好きだったから誘ったのよ。それがしたいって云うなら、させてあげても良いかなって」はにかんだ堂は足を揺らして、気まずさと沈黙を誤魔化しながら、言葉を選びながら続ける。「でも、社君は逃げちゃった。何で?って思った。やっぱり、それが目的だからだったからかな?って。ううん、当時の私はお世辞にも可愛くなかった。きっと、遊ばれてたんだ――とか、色々、思った」
堂は振り返った。
社は視線を逸らさなかった。
「好きである事を認めるより、堂さんに認めて貰えないと思ったんだ。だから、怖かった。そんな自尊心が俺にはあったんだと思う」
「最低なプライドね」一蹴する堂だったが、彼女は先程と違って憤りを見せている様子はなかった。「今の私を見る人は、見てくれる人は沢山居る。だけど、昔の私を見てくれた人は誰も居なかった。社君以外はね」
堂は笑った。
何故か社も笑ってしまった。
「信じないかもしれないけど、ずっと好きだったから、罪悪感を覚えてた。勿論、後悔もしてた」
好きなの?本当に?と云った言葉を敢えて口にせず、目を細めて社を睨み付ける堂はサングラスを外した。
「返す。思い出も一緒に」
折り畳んだサングラスを受け取った社は笑った。
「文学的な言い方だね」
社は溜め息を零すと、肩の力を抜いた。
罪悪感にさようなら。
後悔にさようなら。
思い出にさようなら、と云ったところだろうか、と社は心の中で呟いた。
意外なほど彼女は大人になっていた。昔の苦い思い出をこんなにも簡単に一笑出来るほど彼女は変わったんだ。いや、変わってないんだろうか。自分も、彼女も。
「じゃぁ、誘ってくれる?」
サングラスを渡す為に伸ばした腕をそのままに、そう言って社を促した堂。そこには昔の彼女が居た。昔から何も変わっていない。変われなかったんだ。その代わりに、その為に罪悪感を育んできたなんて、未練たらしいな、と社は思いながら彼女の手を掴んだ。
「下の上。そっちの方が俺は好きだよ」
社は堂を立ち上がらせる。先程より夜風は冷たくなかった。だけど、彼女の手は華奢で、少し冷たかった。
「――――――キスなんてあの時以来」
そう呟いた堂は社の唇に触れた。あの懐かしくも、甘ったるい香りがした。
(完)
Cast
堂さん 下の上→上の中。割りと美人らしい
社くん 女々しい。未練たらしい。
その他旧友
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