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錯視と策士
【 現場検証。主観的認知。客観的事実。刑事と掲示。 】
クロロホルム。塩素を含む炭素化合物。鼻を突くような刺激臭を持ち、常温で液体。主に溶媒として使われるが、二時間サスペンスでは当然のように麻酔薬として登場する。しかし、クロロホルムは劇物である。窒息を狙う為だけに使用するには危険な代物である。
*
人形を買って欲しいと思った事はない。それでも、人形で遊びたいと無意識の内に葛藤していた節はあった。しかし、そんな欲求を思い出す事もなく犯人は大学生になった。化け学を専攻するつもりはなかったが、研究室の配属や学部の選択を然して真剣に考えていなかった犯人は定員調整の話しを避ける為に適当な研究室を選ぶ事となった。
大学は思っていた以上にセキュリティの甘い所であった事にまず犯人は驚いた。連日深夜まで研究する学生がいる為に殆どの施設には施錠が施されていないのだ。一部の施設――NMRなどの高価な機械のある施設、廃棄物処理施設、資料庫など除けば全てが開放されている。
研究室に置いてある薬品の類も同じで、その量を詳細に管理してない事はざらだった。年末や長期休暇前に行なわれる大掃除で発見――発掘される劣化した薬品も多い事からもそれは明らかだ。劇薬の注文も、量が減ったから、と云う安易な理由で教授を経由して発注される。
一般的にも劇薬として知られている――例えば塩酸やクロロホルムに代表される塩素化合物、硫酸などの硫化化合物は薬品を溶かす溶媒として使用する事が多い為に大量に、十数リットル単位で保管されている。
研究課題として可溶性のある結合枝を持ち、尚且つ強固な環構造を持つモノマーを造り、それを精製する事が目的に与えられた犯人はクロロホルムを溶媒に使っていた。鼻を突くような刺激臭に辟易しながらも、蒸留精製していた犯人は深夜の大学の研究室の中で、暇を潰す為にネットサーフィンをしていた。当時はWinMXからWinnyへとファイル共有ソフトが移行する過渡期でもあり、違法性のある多くのファイルが流失し、ネット上で公開される事も多かった。特にアダルト関連、秘蔵ファイルなどが様々な掲示板に溢れていた。勿論、違法性がある以上、そのファイルを閲覧するとウイルス――スパイウェアを勝手にインストールされ、実行されると云う弊害も起こしていたものの、ファイルを手に入れる場所、ファイル容量やウイルスチェックなど注意すればそなりに面白いファイルが手に入ったものだ。
犯人も例に漏れず、ただ解凍するだけで見られる無料動画を公開しているアダルトサイトを中心に訪問していた。ここはフィッシング、ワンクリック、その他正規のスポンサーからの広告料で運営されているので、カウントさえ伸びれば良いので、集客の為に敢えて無料動画を公開すると云うのも珍しくなかった。
犯人はその中で『小○生麻酔レイプ!?』と如何にも眉唾な題名のファイルをダウンロードし、それを解凍し、rm動画を再生させた。コーデックが予めインストールしていたお陰で動画は滞りなく再生された。
*
和室である事を忘れそうなファンタジーな雰囲気を醸し出すオブジェクト。何々調なのかわからないものの天蓋付きのベッドはクラシックな映画に出てきそうな造りだ。レースやフリルを何層にも纏ったベッドは柔らかそうだが、鬼蛇希史は硬い枕が好きなタイプなので、そこでは安眠出来そうにない。
「臭いな。」
鬼蛇希史の愚痴を聞いた斉藤顕児は咎める。
「香水と白粉の匂いだそうです。」監視官から聞いた情報を記載したメモを開き説明する斉藤は続けた。「でも、幸いにも変死体の匂いを直に嗅がなくて済む分気持ちは楽じゃないですか?」
「私は香水の匂いの方が苦手でね。まだ、腐臭の方がましだよ。」
鼻先を擦る鬼蛇は監視官が検分する間を抜けながら和室の周囲を確認した。木造平屋である家屋の一室。絨毯で床を隠され、壁にはカーテンのような物で覆い、調度品も輸入品の物を使っている。クラシックな外見ではあるものの骨董品ではない。あくまでレプリカであるそれらには被害者の物と思われる衣服が綺麗に仕舞われていた。
「ファンシーでメルヘンだな。」
中身を確認する為に開け放たれたままの引き出しを覗いた鬼蛇は辟易する。
「あまり良い趣味であるとは言えません。」
同調する斉藤も鬼蛇に続き引き出しの中身に嫌悪する。被害者――既に仏となった人物には申し訳ないが、世辞も褒められない趣味に斉藤は嫌悪こそしたが、それを露骨に言い表すには気が引けているようだ。最後の自尊心と云うか、哀れみの所為だろうか。しかし、被害者のその趣味を家族がしているかもしれないと想像すると胸糞が悪くなる。
「そうでしょうか?」
斉藤と鬼蛇の会話に入り込んできたのは新人の山之辺裕香だ。タイトなスーツを少し着崩しているが、その口調は対照的に硬い。フレームのないメガネを直す彼女は、ジェンダーですよ、と二人の感想を指摘する。
「女性であるならば誰しもが変身願望は持ち合わせています。幼児性は処女性にも繋がり、若さ、純真さ、そう云った女性としての高貴さ、セックスアピールにも繋がります。異常である――と私は思いません。」引き出しを閉じる山之辺。睨み付けるように二人を見返した彼女は、それに、と付け加える。「それに被害者は安易に――コスプレ感覚でロリータファッションをしていた訳ではなさそうです。」
「動機云々じゃなくて不相応な格好に私は辟易している。」
山之辺の正論に食って掛かる鬼蛇を斉藤が、パワーハラスメントですよ、と小声で注意する。
「セクハラであります。」
斉藤の注意に山之辺が修正を加える。
「主観的だな。」
鬼蛇はそう一蹴すると、それで動機ってのは?と飄々を尋ねる。掴み所がないと云うよりは節操のない人だな、と苦笑しながらもロリータファッション――コスプレ全般に疎い斉藤は山之辺の感想は何か続いて尋ねる。
「コスプレってのも変身願望なんだろ?」
私情を挟んだくせに都合よく話題変えする上司に少し腹を立てながらも報告をする山之辺。
「コスプレ――コスチュームプレイは一般的ではありませんが、情報としては遍く誰しもが知っていますが、ロリータファッションをする者の大半は俄かであると考えられます。」
「根拠がないな。」
ふざけていたかと思っていた鬼蛇が論拠の希薄さに疑問を投じる。
「根拠と云うよりは流通と服飾の機能性の為にそう考えるの妥当だと云う事です。」
わからないな、と斉藤が首を傾げる。
「わからないな、解説をしてくれるのかい?」
はい、と頷いた山之辺はトルソーに被せられているロリータドレスに近づいて行く。少し胸の開いた上着に、腰を細く見せる造り。フリルが其処彼処から溢れているドレスのスカート部分は大きく広がっている。その裾を掴み上げた山之辺は何の躊躇もなくそれを捲り上げた。何故かバツの悪さを覚えた斉藤は視線を僅かに逸らせる。
「ペチコートとスカートの重ね履きによるボリュームアップです。」
「それが何だ?」
鬼蛇が先を促す。
「バブルが崩壊しても、日本経済は薄利多売な傾向が主流と言って良いでしょう。一部では高級嗜好もありますが、サラリーマンの基本的給与や失業率、フリーターの数を鑑みれば如何に安い商品を提供するのが流通の基本です。コスプレに見られるファッションも――ユニクロなどの成功を見れば分かると思いますが、安くてもある程度の強度を持つ消耗品が好まれています。この場合――ゴシックロリータのそれも然りですが、通常このスカートのボリュームアップはワイヤーによって行なうのが普通です。」
「ブラジャーとかの?」
鬼蛇が胸元に手を宛がい山之辺を茶化す。案の定彼女は、セクハラです!と声を上げたが、斉藤の制止もあり直ぐに話題に戻った。
「ま、同じような物ですけど、これは重ね履きをしています。」
「それが重要な点か?」
「高級嗜好と取る事も出来ますが、その場合は材質に最初それは向かいます。ですが、このドレスは材質自体は高級ではないにも関わらず、その造りは精密で古典的です。」
「だが、中身は違う。」先ほど山之辺が閉じた引き出しを軽く小突いあ鬼蛇。「外見はクラシックかもしれないが、その中身――下着はキャラクター物のプリントパンツだ。お粗末と云うかガキ臭い物・・・・・君のそれに疑問をぶつけるには充分じゃないか。」
口篭る山之辺は眉間に皺を刻んだ。「・・・・・・・・・確かにそうですが。」
どうやら反論の言葉を捜しているようだが直ぐには出てこないようだ。経験値で上回る鬼蛇の観察眼が的を射ているらしい。取り敢えず斉藤は二人の議論に口を挟まず聞き入っていたが、改めて人物像を確認する必要があるかもしれないと思った。
「兎に角、整理してみましょう。」
メモ帳を再び開いた斉藤に山之辺が救いを求めるような視線を向ける。鬼蛇とのパートナーシップでは一日の長がある斉藤は仲裁の話題を提供する。
「被害者は変死体で発見されました。死因は検死ですが、心筋梗塞によるショック死だとされています。被害者の名前はタシロユウカで、家族構成は不明。近所の話に寄れば遺族はいないらしいと噂されていますが、詳細はこちらも不明です。ただ、婚姻記録はないそうです。近所との付き合いもなく、殆ど目撃情報もありません。裕福であったのかも定かではありませんが、通販を届ける業者や出前を運ぶ人が良く訪れていたそうです。恐らく、ここら辺の私物もそうでしょう。大っぴらな所で売っている物でもありませんし、ひとり身である彼女が買うには不自然な物ですから。」
「そう云えば資産関係は?」
鬼蛇は報告を受けていない。
「まだ、調査中です。心筋梗塞で死んだ現場にいた人物が持ち去った可能性があると高田さんは言っていました。」
「通帳や・・・判子。年金や保険の葉書などはなかったのですか?」
「それも調査中。」
斉藤は肩を竦める。
「ただ、近隣住民の話しによると夜な夜な奇声が聞こえていたそうです。」
小さく吹き出した鬼蛇を振り返る山之辺。小さく両手を上げて牽制した鬼蛇が口にする。
「いよいよ本当らしいな。」
その視線は山之辺に向かっている。セクハラですよ、と咎める斉藤は補足する。
「元々信じがたい事実でしたが、状況はそれを指し示していました。ただ習慣化しているか否かの違いです。」
「それは重要です。」
山之辺が少し語調を強める。女性としては辟易する事実なのだろう。
「売春ね。こんな格好をして、体を売るって云う事実はどうなんだろうか?」
意味がわかりません、と斉藤はメモ帳を捲る。
「しかし、調度品や出前などを考えれが仕事としてやっていた可能性は高いでしょう。」
「レイプだと云う可能性は?」
そう尋ねる山之辺だったが、彼女の表情はそれを確信している様子はない。可能性としてはゼロではないが、道義的に有り得ないとするのが妥当だ。
「抵抗した痕がなかったのは確認した筈だ。つまり、合意の下・・・・ま、麻酔を嗅がされていた可能性もあるだろうが、解剖待ちだな。だが、腹上死――心筋梗塞で死んだのが妥当だろう?」
「しかし・・・・・私は信じられません。」
「初老を優に超えた老婆が売春する記録は過去にもあった筈だ。あれは60くらいだったか?」
「ですが、彼女は腐敗している点も鑑みてもそれ以上です。」
山之辺を握り拳を作っている。彼女が進んでこの件に参加している理由はわからないが、女性として複雑な心境である事は窺える。
「信じられない?祖母がそんな事をしているなんて・・・と、同一視しているのか?人格に障害があったと割切った方が楽だぞ。」
首を傾げる鬼蛇は山之辺を一瞥する。彼女は辛辣そうな表情だが、内心は窺えない。
「差別的発言です。」
山之辺が小さく反論する
「可能性の議論に何ら罪はない。それに被害者を思うならばあらゆる事象を考える事だな。間違っていても、消去法で事実に辿り着く事だってあり得るんだ。」
眉尻を上げて挑発するような口調で山之辺を諭す鬼蛇。二人の間に再び斉藤が割って入る。
「鬼蛇さんも口が過ぎます。確かに男としては祖母と同じくらいの年齢の女性と性行為をしようとは思いませんが・・・・鬼蛇さん自身も言った過去の事件では複数の買い手がいたでしょ?個々人の嗜好はわかりませんから。それに山之辺さんの気持ちもわかります。」
山之辺に視線を向ける斉藤。
「先ほど言ってましたが、女性であるならば誰しも――と弁護する側から発言したように女性としては心憎い事件かも知れません。ですが、外見ではなく内面の幼児性――その、あのキャラクター物の下着を鑑みれば嗜好性と云うよりは人格面の問題を考慮するのが現実的です。その場合、売春と云う行為自体も疑問が生まれます。」
そうか、と山之辺も閃く。
「精神に疾患があれば合意は成立しないと云う事ですね。」
レイプではないが、身体を売った訳でもない可能性が出てきた事に少し嬉しそうな表情になる山之辺。してやったり、と鬼蛇に視線を送る彼女に斉藤は言った。
「鬼蛇さんもその可能性を示唆してるんだ。口が悪いけど、個人の尊厳を無視するような人じゃないんだからさ。」
苦笑し、肩を竦める斉藤に向かって鬼蛇は、そんなつもりはない、と吐き捨てる。
「何れにしろ大差はないだろう山之辺。自ら進んで、或いは人格に問題があって――そのどちらにしても女性として受け入れて良いものじゃない。そうだろ?」
閉口する山之辺。
「・・・・・・・・・・・すみません。」
「謝る必要はない。私も口が過ぎたのは事実だからな。」
頭に手を当てる鬼蛇。そこへ慌てた様子で検死官が入ってくる。
「どうしました?」
斉藤が近づいてく。
「被害者の手記と思われるノートが見つかりましたので。」
そう語る検死官の手には古ぼけたノートが握られている。じゆうちょう、と平仮名で書かれた真っ白なページを持つそのノートを受け取った斉藤は中身を確認しながら鬼蛇に差し出す。
「・・・・・・・・・・・・人格障害の可能性は高いですね。」
山之辺を近づいてノートを確認する。
「筆跡がバラバラですね。」
多重人格――解離性同一性障害と云う言葉が彼女の脳裏に浮かんだ。安っぽいサスペンスのようだ。鬼蛇はノートの日付を確認する。恐ろしく古い。それだけでも被害者が相当の高齢であった事がわかる。
「しかし何だろうな、このお兄ちゃんが来るってのは?」
ノートの至る所に見られる”お兄ちゃん”と云う表現。まるで憎々しく思いながら書いたかのようにその単語だけ異様に筆圧が強く、文面の中でも強調して見える。
「トラウマの原因と云う事でしょうか?」
先ほどの人格障害を前提にした疑問をぶつける山之辺に斉藤は別の可能性を提示する。
「兄妹でしょうか?」
わからない、と肩を竦めた鬼蛇だったが、その前後の文面を見ると買い手或いは肉体関係者である事が感じ取れる。
「さぁ――あまり読みたくはないが、読まなきゃいけないんだろうな。」ノートを閉じた鬼蛇はそれを届けてくれた検死官に聞いた。「多分、こんなのが沢山あるんだろ?」
はい、と頷いた検死官はこちらへと三人を誘導した。
この時はまだ何もわかっていなかった。”お兄ちゃん”と呼ばれている人物の事も、またタシロユウカをこのようにした人物の正体も。そして過去に起きた陰惨な幼児連続暴行事件の真相と関係がある事も何一つわかっていなかった。
だが、そう云った事実よりもこれが計画的演出で、エンターテイメントとして真犯人によって提供されていたとは鬼蛇をはじめ誰一人気付いていなかった。ゲームより卑劣で、小説よりも奇抜な、だが、悪魔の遊びであるこの事件はまだ始まったばかりである。
One Scene
Cut 03
ロリータコンプレックス
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