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朝の日常
今日も朝から学校だ。いつもいつも変わらない通学に飽き飽きしながらも毎日同じように門柱に描かれた【影入】の表札前に立ち、チャイムを鳴らす私がいる。
「はーい」
一磨の母親の元気な声が外まで響き渡る。ほぼほぼインターホンは必要ないかのような大声に私も大声で挨拶をした。
「おっはようございまーす。一磨君いますか?」
その声に一磨の妹である月乃ちゃんがヒョコっと玄関に顔を出してきた。まだ四歳ながら、お母さんに似て元気いっぱいな女の子だ。一磨を手玉に取ったように扱う月乃ちゃんは他のどんな人たちよりも一磨の相手をするのが上手かった。月乃ちゃんが生まれた時から傍にいる病気のお兄ちゃんは、彼女にとって当たり前の存在になっているのだろう。
たまに月乃ちゃんも機嫌が悪い時に罵声を飛ばしている時もあるけれど、一磨はそんな妹に対しても優しかった。まるで妹のファン第一号のように見守る彼は、誰よりも月乃ちゃんを大切に想っているようだった。
「おは! ルー姉ちゃん。カズ兄はまだだよ。ちょっと待っててね」
「はいよ」
可愛らしい月乃ちゃんに手を振りながら、一磨が出てくるのを今か今かと待ちわびていた。
しばらくして慌てて出てきた一磨の母親は忘れ物がないか玄関先で確認するように指折りをする。そして一磨の背中を押して私の元までやって来ると、いつものセリフが。
「月渚ちゃん。おはよう。いつもいつも悪いわね」
「いえいえ。お構いなく」
必ず一磨の母親は謝ってくるので、その度に「お構いなく」と言っている。本当ならば「もう私のお迎えなんて要らないでしょ?」と言いたいところではあるけども、小学生の頃から続けているため止め時が分からない。
今更「止めた」とも言えず、面倒だけれども仕方がないので中学生活までは続けるつもりでいるのだ。彼には彼の世界観があって、私には私の世界がある。それさえ邪魔されなければ一磨と登校するのも悪くはない。
「カズ兄。いってらっちゃーい」
家の奥から月乃ちゃんの大きな声が聴こえてきた。それに合わせて一磨は振り返らず大きく手を振り学校へと歩き出す。
「おはよう。一磨」
「……」
横並びに歩く私に相変わらず無視かよ。いつもの事で慣れてはいるけれど、ほんの少しだけイラっとさせた。月乃ちゃんには何かのアクションを起こす癖に、私に対する態度は非常に冷たい。イラっとした私は段々と声が大きくなった。挙句の果てには一磨の前に仁王立ちし声を荒げて。
「一磨。朝のア・イ・サ・ツ!」
「おはよう」
彼の声は非常に小さかった。だけれども、きちっと挨拶ができたので思わず両手の親指とその他の指を合わせて丸を作って見せた。自分からあまり喋らない彼は、こちらから催促しないと応えてくれないけれども、それはそれで仕方がない。そういう頭の病気なのだから。
先天的な彼の病気は、一言で説明するには非常に難しい。他人のマネができなかったり、少し先を予測して行動できなかったり、社交性がなかったりとコミュニケーション能力が欠落しているのだ。見た目は普通なのに頭の回路だけがズレているため、他人から分かり難いのが特徴なのだが。中学生の私はこの病気の正式名称をはっきりと覚えていない。
あちらこちらに気を取られる彼は、よそ見をしている隙に何処かへ消えてしまう事がしばしばある。特に空き地の雑草が花を咲かせると途端に花の方へ誘われるように歩いて行ってしまうのだ。歩くのも遅いくせに、寄り道までされてしまっては遅刻してしまうので、そういう時は思わずお尻を叩き、前へ前へと押しやるのだ。
「もうちょっとだけ早く歩いてよ。いつもいつも遅いんだから」
非常に面倒だと思いながらも背中を押して歩いている。そんな彼は、今日もいつものお花の所で立ち止まってしまった。
「一磨。また、この花が見たいの?」
黙って見つめる彼に、こちらも両手の指を立てて数字を数え始める。白くて花弁の奥には青と黄色の色彩があるアヤメのようなその花を私も見つめて。
「じゃあ、十秒だけね。十、九、八……」
ゆっくりと数えながら指を折っていく仕草を彼の目の前で見えるようにやってみた。最後に両手がグーの手になったら終わりだと分かるように。
「ゼロ! はい、お終い。グーだからお終いね!」
彼も私の合図に反応して、そっと白い花を一輪摘んで手渡してくれた。近くで見ても、やっぱりアヤメに似ている。だけれども色がまったく違うので、何の花だか知らなかった。
「なになに? 数えたお礼にくれるの?」
「うん」と言うように一磨は頷いた。
「いいよ、いいよ」
お花を貰った経験がない私は思わず頬を赤らめて照れてしまい、その握られた一輪の白い花を元のところへ戻してしまった。一磨がこんな優しい一面を私に見せてくれるのは初めてで、驚きというのか感動のような想いが心の中を駆け巡って行くのを感じるほどだった。
影入一磨は一見すると少し大人っぽい少年だった。生まれつき髪が僅かに茶色く、背が高校生並みに高い。無口で年齢不詳に見える彼は制服を着ているお陰で中学生だと分かるほどだった。父親は一磨よりも背が高くて温厚な人。母親は外国の血を引いたクォーターだから、その遺伝子を十二分に引き継いでいるのだろうか。何もしないでいる時は普通にカッコいいし、初対面の人からは変わった人に見られなかった。だから黙って並んで歩く分には、まったく私も抵抗ないのだ。
そんな私たちの間に、たまに乱入してくるのが佐野央樹だ。
「おはよう!」
元気な声で突然一磨の目の前に立って挨拶をした央樹は一磨をビクッと驚かせた。驚いた瞬間、両肩が上がる彼の仕草が面白い。更に一磨は嬉しくなると肩をずっと上げて揺らすので、それも分かり易くて可愛いらしかった。
「おはよ」
一磨は満面の笑みで央樹に返事をした。私との対応にギャップがあり過ぎる。一磨は私より央樹の方が好きなようだ。女が男に負けるのは悔しいけれども、一磨は別段私たちを性別で判断していないようで幼馴染の一員くらいにしか思っていないのだろう。私も同様なので二人に嫉妬など決してしないのだが。
いつも無視される私はいったい何がいけないというのだろうか。
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