美術の授業と昼休み

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美術の授業と昼休み

 英語の授業が終わり短い休み時間に入ったので、先ほど借りたばかりの重厚な本を開いて読み始めた。  隣には一磨が座っている。四時限目は美術の時間なので、彼はまだ光組に戻らないようだ。大人しく座っている一磨は私の邪魔をする気は無さそうだけれども、この重厚な本がどうしても気になるらしく、ずっとこちらを見ている。そんな一磨の視線を無視しつつ、本を眺めていた。  ページを捲ると古い本独特の埃臭い香ばしい匂いが香る【月食の奇跡】。  そんな題名の恋愛小説なのだから月食にラブラブな出会いがあったのだろうと推測されたけれども、一応期待を込めて目次を飛ばすように最初の文章を探した。  はじめの一文には「月夜に映える天使のような少女に感謝を込めて」と、ただそれだけ書かれてあった。  ファンタジー小説か何かの類なのだろうと、これまた推測される始まり方だった。恋愛に飢えている私だけれども実際には何ひとつ経験がないので、せめて小説の中だけでも楽しませてもらおうとワクワクしながら次のページへと捲っていった。  ◆◆  楽しさも束の間、あっという間に休み時間は終わり四時限目の美術が始まった。  いよいよ創立二十五周年の看板造りスタートだ。既に看板は学校が用意してくれていたようで、白地の大きな紙が貼られた黒板くらいの大きな物を私たちの前に、先生は置いていった。「あとは生徒で自由に扱ってくれ」と言わんばかりに無造作な状態で。  それを見てクラスの美術好きな女子や男子が集まり、どうインパクトのある絵を描こうか考え始めた。私も興味があったので重厚な本を机の上に置いて看板の前まで行って話し合いに参加する。 「ここには二十五周年って分かるように大きな文字を入れた方がいいだろう」  男子の学級委員長が当たり前なことを言っていた。  その後が問題なんだろ? どんな飾りや絵を加えるかで看板のイメージが変わるのだからと私は思っていた。 「できるだけ可愛らしくしたいな」  女子から多く、この言葉が出てきた。私も同意見なので頷きながら賛成する。 「夜露死苦(よろしく)なんて、どう?」  よくクラスでふざけている男子が馬鹿な事を言い出した。 「いつの時代だよ。それフル!」  馬鹿にしたように、その男子に向かって女子たちが叫ぶ。 「二十五年前のアピールだよ。漢字と絵文字で表すと時代を感じるだろ?」  央樹が口を挟むように割り込んできた。女子たちはそれを聞いて「なるほどそれも一理ある」と頷き、央樹の意見に賛成した。 「でも、可愛くないから却下」  私は女子たちに賛成された央樹の意見を否定するつもりはないけれど、私の美学に反する物は嫌だったので「却下する」と言い放った。  女子達も可愛くないという理由に賛成してくれたので、結局、夜露死苦(よろしく)は駄目だと言う意見でまとまった。  いくら話しても、それから話が煮詰まらない。みんなそれぞれ描きたい物が違うようで、意見がまとまらないのだ。 「まとまらないので、一人ひとつだけ空いてるスペースに好きな物を描いてください」  男子の学級委員長がそう言ってみんなが自由に描くことを了承した。 「ただし、ルールは守るように。みんなが描けるように独り占めは無しよ」  小春は馬鹿な男子に睨みを利かせて一言添えてくれた。小春らしい一言にクラスの誰もが納得したようだった。  そうと決まれば話が早い。みんな言いたい放題、やりたい放題に友達同士意見を言い始め、何を描くか画用紙を開けて落書きし始めた。  男子たちは自分のスペースはここだとアピールするように、鉛筆で看板に囲いを描いて場所取り合戦を始め出す。  私は何を描こうかな?  ふと奥の窓際の席に座っている一磨を見ると、また外を眺めていた。一磨は絵の事を考えて空を眺めているのだろうか? 例えそうじゃなくても彼は絵が上手だから。きっと独創的な絵を描いてくれるのではないだろうか。  そしてまた馬鹿騒ぎしている央樹たちを見て、彼らも何を描くのだろうかと思ったけれど、あまりにも愚かな陣取り合戦に夢中な彼らに考えるだけ馬鹿馬鹿しいとさえ思ってしまった。  そんな彼らを横目に冷ややかな目で笑いながら自分の席へと戻ると、ふと机の上に置いておいたはずの重厚な本が見当たらないのに気付いた。隣を見ると一磨が大事そうにその本をペラペラ捲りながら、ぼんやりと外を眺めている。ガムか何かを食べているかのように口の中をクチャクチャと鳴らして。 「一磨。勝手に本持って行かないでよ。ごめんなさいは?」 「ごめんなさい」  素直に謝る一磨は偉いと思い許してあげようとしたが、どうしても彼の口の中が気になって仕方がなかった。央樹のように学校へお菓子を持って来ていたのなら、先生に見つかる前に何とかしなければ。 「いったいあんた、何をクチャクチャ食べてんの? ガムなんて、まさか学校に持って来てないわよね?」  私に本を返した一磨は暇そうに、また外を眺めていた。私の声が聴こえていないのか、完全なる無視と完全なる自分の世界に入ろうとしている。  私は、こういう時の彼との意思の取り方を知っている。最初に()ず目を自分の方へ向かせて同じ目線の高さにし、更に目が逸れないように頬を両手で押さえ付けるのだ。 「一磨。目を逸らさない。何を食べてますか?」  彼は自分に話しかけられている事を今知ったかのような驚いた顔をして、口から何かを取り出し掌の上に乗せて見せてくれた。  ガムのようでガムではない何かが、(よだれ)に混じって手の上に横たわっている。 「何これ? 汚いなあ」  それを聞いて彼はまたその汚物を口の中へ入れようとした。 「待って。入れないで」  汚いと感じながらも彼の手からその汚物を取り上げてみた。  そして触った瞬間にベタベタした生温かい汚物が何か分かり、私は発狂してしまったのだった。 「一磨! なんで? なんで、本を破ってガムみたいに食べてんの?」  これは紛れもなく【月食の奇跡】のあるページだ。何処のページを破ったかは分からないけれども、少し見える印字と紙の感触で、その本であるというのは明白だった。よくよく見ると、周りにもガム状になった紙が散乱している。  私はその状況を見て紙を拾いながら、汚いという感情と本を破られた怒りが混じり合い、頭の中が爆発しそうになっていた。気持ちをどうにかして落ち着かさなければと思ったものの……  パチーン。  感情の制御よりも早く、私は一磨の頬を平手で叩いてしまっていた。大切に読もうと思っていた矢先に破られてしまい、自分で気持ちを抑えきれなくなってしまったのだ。叩いてしまった右の掌がとてもジンジンとして痛むが、それに増して胸の中もズキズキ痛んだ。 「図書室の本だよ。破ってガムのようになったページ、どうしてくれんの!」  一磨にこんな話をしても通じないのは百も承知のはずなのに詰問(きつもん)してしまう自分がいた。これに対する返答を一磨から()けるわけでもないのに、私の感情の歯止めが利かない。  いつの間にかクラスの友達が私を制止させるように、私の腕を抑えていた。  一磨を抑える者は誰一人としていないが、一磨は動かず固まったまま鼻の先を親指と人差し指で何度も摘まんだりしている。彼が困った時によくする仕草だ。 「暴力は駄目だよ。月渚」  小春が私を落ち着かせるように低い声でゆっくりと喋ってきた。 「……ごめん」  私はそんなに暴力的な女子ではないと自負していたはずなのに。一磨に手を挙げてしまった自分にも腹が立って仕方がない。なんと愚かな事をしてしまったのだろうか。反省しても、し尽せないくらい胸が痛くなってきた。  一磨に謝ろうと思ったけれど、私を避けるように目を合わせてくれない。  イライラする感情は一磨に向けるのを止めて、制止している女子たちと周りにいる男子共にその感情をぶつけた。 「いつもいつも、私が一磨の面倒を見てるんだからさあ。私が席を離れた時くらい、誰かが一磨の面倒をみてよね。友達でしょ?」 「そんなの知らねえ。それに一磨は友達なのか?」  あまり一磨とは口を利かない男子生徒が言い返してきた。  クラスの男子も女子も一磨とは距離を置いて接しているため、友達という感覚がないらしい。 「同じクラスの仲間なんだから、私や央樹以外も一磨に関心持ってよね。せめて悪い事をしそうになったら止めてあげてよ。一磨は良いも悪いも分からないんだから」 「何それ。意味分かんねえ」 「意味なんてない! 一磨はみんなと違うの。一磨の病気を個性だと思って手助けしてあげてよ」  怒りを抑えるようにクラス全員に訴えかけた。一磨のヘルパーみたいに、みんなから彼を任されるのは私もごめんだ。  みんなが一磨に関心を持って関わってくれさえすれば、彼だってこんな本を破って食べる行為なんてしなかっただろうに。冷たい目で一磨を見るクラスメイトを私は心の中でずっと許せなかった。 「天手さん。放課後、先生の所へいらっしゃい」  運が悪く先生にも見られていたようだ。手を挙げたのは私だから何も言い訳できないけれども事情だけは説明できるようにしておこう。  グッと我慢していた瞼に何故だか涙が溢れてきた。想いが一磨にも届かない、友達にも届かない、何とも言えない悔しさが涙となって零れ落ちていったのだ。更に先生に説教される怖さもあったのかもしれない。それは凄く嫌だけれども、怒られて当然の事をしてしまったのだから、今日の出来事は反省するしかないのに。  ◆◆  憂鬱な気分で昼食の時間になってしまった。小春が傍にやって来て私を励ましてくれたものの、さほど心に響かなかった。  私は別に一磨に好意があるわけではないけれど、一磨を(さげす)むような眼差しで見ているクラスメイトたちはもっと好きになれなかった。  彼がいったいこのクラスで何をしたのだと言うんだ。何もしていないのに頭の病気だと言うだけで、みんなが離れていくのはおかしいではないか。  私は一磨に手を挙げてしまった一番悪い人だけれども、決して一磨の心までは傷つけていない。ただやってはいけない事を注意しただけだ。  みんなの一磨に対する陰口よりも私のビンタは数百倍ましだろう。  言葉が分からないから陰口を叩いても平気だと思っているクラスメイトは多いが、一磨は言葉よりもきっと、その場の嫌な空気をヒシヒシと感じているに違いない。何も言わないから良いのではなく、何も言えない辛さが溜まっているのを感じてあげてほしいものだ。  そんな事を考えている時に教室のスピーカーから放送部のお昼トピックスが流れ始めた。  今日のオープニング曲は宇宙を感じさせるSFの音楽からだった。重低音と迫力のあるオーケストラサウンドに少しばかり胸が軽くなる。私が何かを探している時、頭の中ではいつもSFのような音楽が流れているので、それと同じ感覚が蘇ってきて気持ちが少し楽になった。 「今日のトピックスは皆既月食!」  パチパチパチパチと周りから拍手の音が聴こえた。 「今日の夜中に二十五年ぶりの素晴らしいスーパーブルーブラッドムーンと呼ばれる皆既月食が月美山で見られます。日本どこでも月食は見られますが、月美山周辺は夜中でも梅雨入りなのに、雲ひとつない天気になると予想されています」  周りから歓声が沸き起こる。私も一緒になってついつい歓声を上げてしまった。  今夜は月が大きく見える上に皆既月食が見られるなんて、重く沈んでいた心が一変し軽くなったような気がした。  私の心はなんて薄っぺらで軽いものなのだろうか。こんな性格だから怒られても反省していないと周りからよく言われるし、いつまでも引きずった気持ちにならないのだろう。それが長所なのか短所なのか私には分からないのだけれども、とりあえず気分が元に戻ってきたのは嬉しい限りだ。  そう言えば【月食の奇跡】の本も二十五年前の大きな皆既月食について触れているが、その時と同じような月食が見られると思う、何かこの本との運命を感じてしまった。今日この本を借りられた事に感謝の気持ちで一杯になる。  ただ夜中まで起きていられるかは別の問題なのだけれども、睡魔にできるだけ負けないように頑張って起きていようと思った。  お昼を食べ終えるなり、この本のあらすじを理解するべく斜め読みで本を読んでみた。月食までに何があって何が起こったのか知りたかったからだ。できれば私も月食の奇跡を分けて頂きたく、どうすれば恋愛できるのかを知りたかった。 「月渚。お前って【月食の奇跡】なんて信じてんの? オ・ト・メ」 「はあ? あんた、この本、知ってんの?」 「ああ、噂だけな。なんか奇跡の恋愛小説だって話だぜ」  静かに本を読んでいると、その傍で軽く馬鹿にするような言い方で央樹が私に声を掛けてきた。そんな奴相手に対してまともに返事しててもしょうがないので、適当に言い返して放っておくのが妥当かもしれない。何かないかと考えていると、ふといいセリフが頭の中を()ぎったので、央樹を見ながら目を細め真摯な感じで応えてみた。 「央樹のようにモテないんで【月食の奇跡】にでも願おうと思うの。バカ央樹君より頭が良くて、スポーツもできて、背が高くてカッコいい人が現れますようにって。うふふ」 「馬鹿じゃねえ」  央樹のセリフを笑い飛ばすように言い返してやった。まったく心にもない願い事を言葉にするのは気恥ずかしいけれども、確かにそんな人が現れてくれたら嬉しいのにとさえ思ってしまった。例えば、病気のない一磨のような男性が現れたら面白いだろうに。  何故かそれを聞いた央樹が不愉快そうな顔をしていたので、少し可笑(おか)しくなり更に笑いが止まらなくなった。  それからの私は央樹や周りの声には耳を傾けず、本に集中して昼休みの間読み続けた。  ちなみに一磨は支援学級の方で昼食を摂るため、彼にも読書を邪魔される心配は微塵もない。  央樹や一磨の他に邪魔してくるとしたら小春くらいだけれども、彼女は私が【お月様フェチ】だと知っているので、今日はあまり話し掛けて来なかった。何故なら、私に皆既月食の話をさせたら、楽しい昼休みがあっと言う間に終わってしまうのが目に見えていたから。
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