天手月渚、二十六歳

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天手月渚、二十六歳

「待って、(はな)ちゃん! お願いだから消えないで……お願いだから、花ちゃんの手を……お願い、もう一度だけ花ちゃんの姿を……私たちに見せてよ!」    月に頼む私がいた。もうだいぶ昔の記憶だけれども今も鮮明に覚えている。  花月(かづき)に会いたい。そんな時、こんな夢をよく見るのだ。 ◆◆  病院の早出勤務が終わり少しだけ早く帰れた私は、まだ帰宅ラッシュになる前の電車に腰を下ろし疲れを取るように目を閉じた。数駅先までの短い時間だけれども眠れるようになったのは病院勤務という職業柄かもしれない。  そんな私は(うつむ)いたまま眠っていると、いつの間にか電車の揺れに合わせて段々と顎が上がる癖がある。そのまま頭頂部が車窓にぶつかってしまう変な癖だ。いつの間にか上を向いてしまうから目立って仕方がない。  ドン! 痛っ。  またやってしまった。  その度、頭に手をやり癖毛を直すように撫で、また目を閉じる。  私のこんな癖に気付く乗客など誰一人もいない。みんな他人の行動に興味などなく、ただスマホを弄って過ごしているだけなのだから。  微睡(まどろみ)の中、遠くの方で胸元に手をやり勾玉の付いたネックレスを触る少女が虚ろな顔をして立っていた。その少女は男の子の傍に立ち、何を話し掛けるわけでもなく、ただじっとそこに佇んでいる。  それを見ている自分の姿も見えたけれども、私の身体(からだ)は何故だか自由に動かなかった。途轍もなく硬い。まるで石のように、ただの無機質な置物のようだった。  そしてその直後に耳元で少女の声がした。 「あなたは何を想ってるの?」  遠くにいるはずの少女の声が耳元で木霊(こだま)する。誰に()いているのか分からないその声に体が急に軽くなり、私は耳を塞ぎ座り込んでしまった。  その直後に座り込んだのはもう一人の自分だと気付く。昔も経験した事のあるこの声に今は夢であると知りながらも、誰だったか思い出そうとして迷っている自分の姿が映っていた。既に知っているはずの私なのに。 「月渚(るな)ちゃん。起きて」  この声は……私を呼んだのは花ちゃんなの?  ドン! 痛っ。  夢の中の私が花月の名前を思い出したと同時に、また電車の車窓に頭をぶつけてしまった。そうして寝ぼけ眼を人差し指で擦り、その車窓から到着駅を覗き込む。プラットホームに滑り込む電車に多くの人影が見える中、その少女が何処かに隠れていないかと探して。  十二年前に消えたはずの花月の声が聴こえたような気がして、私は急ぎ足で電車から飛び降り改札口の方へと駆け出した。  いつもの駅の出口を通り過ぎ、目の前に広がる大通りから夕空を眺めると、遠く西山の稜線に黒い影が伸びる茜色の夕日が見えた。そのあまりにも眩し過ぎる輝きに私は目を塞ぎ、手で日差しを遮るようにして俯いたままいつものスーパーへと駆け込んだ。  店に入った私は外気の唸るような蒸し暑さにうんざりという顔をして、涼しい野菜売り場コーナーまで徐に歩き出す。そこでヒヤッとした肌寒さを実感し、さっきの出来事は夢なのだと改めて自分に言い聞かせた。  社会人になって数年が経ち一人暮らしの生活にも慣れてきた頃、仕事帰りのこのスーパーが私にとって一時の癒しの空間になっている。  まだ五月の下旬だというのに外の暑さは夏の到来を思わせるほどだった。だけれどもこの暑さはどこか懐かしい感じさえもする。この季節に肌をジリジリと焼かれる感覚は、まさに忘れかけそうになっていた記憶を身体の焼ける痛みで思い出させられるほどだった。  呆けた思い出でも感情でもなく、また決してそれはゴールデンウィーク明けの疲れから来ているものでもない。暑い暑い十二年前の記憶から目を覚ませと誰かが私の肌を抓っているようだった。  本当の一磨(かずま)と出会ったあの季節。  央樹(おうき)と過ごした二人だけの秘密の時間。  そして皆既月食がもたらした一人の少女【花月】との出会い。  それを思い出そうと鞄に付けた赤や黄色の三日月キーホルダーを眺めてみるものの、もう昔ほどの強烈なイメージは何も残っていなかった。時というのは恐ろしいもので、熱されたイメージを時間と共に、静かに冷たく癒してくれる。その時の状況を一十一句言葉にしても例え同じ場所へ行って同じ風景を見ても、もう同じ景色は戻って来ないのだから。  あの時の体験は何だったのか? 今となっては忘れられたようなものだった。  ただ、三日月キーホルダーに紛れてお気に入りのゴム製バナナもぶら下がっている。それは単なるストラップではなく、私にとって大切な飾り物だった。そのムニュムニュとした柔らかい触感を指で弄り癒されながら、自分の心を落ち着かせるためにワザと付けている。これを付けていると花月の手の柔らかさを思い出し気持ちが落ち着くから。  強烈な昔のイメージは思い出せないものの、強烈な想いは冷めないまま心を揺らしている。そんな時、自己防衛するために触る唯一の玩具を常日頃から持ち歩いている私だった。  冷房の効いたスーパーで自分が今ここにいる幸せを噛み締めながら、私は明るい店内を見渡し気持ちを切り替えようと深呼吸をした。  このスーパーは店内が明るいパステルカラーの配色でまとめられている美しい壁紙で、天井は無意味なほど高かった。そして何より歩くスペースが広い。棚と棚の間が広く取られた通路は大きな買い物カゴを押して歩いても対向してくる人と気兼ねなく通り過ぎる事ができストレスを感じなかった。車椅子での利用客にも非常に便利そうな造りになっている。  そんな事を考えて買い物をしていた時、遠くの方で車椅子のお客が棚の上の方にある商品を取ろうと必死になって手を伸ばしているのが見えた。どうやら手が届かず困っているようだ。  傍にはここのスーパーのパートさんもウロウロしているのに気付いていないのか、関わらないように軽く無視をしているのか、まったくと言っていいほど反応がない。  それに気が付いたレジ打ちのお姉さんがレジを打つのを止めて、彼の元へと駆け寄り手に商品を持って「これですか?」と確かめるように手渡していた。  ああ、なんて気が利く女性だろうか。  もしも彼女があと一秒気付くのが遅ければ、この私が駆け寄る所だったのに。なんとなく手柄を取られた気分で胸の奥が少し痛くなった。無視をしていた店員が悪いのか、傍観していて動かなかった私が悪いのか、幼い頃の道徳の時間を思い出してしまうほどだった。レジ打ちのお姉さんのようにフットワークが軽ければ良かったものの、面倒くささが先行してしまい怠惰な自分がそこにいたのを反省する。  そんな私は気分を変えようとスーパーを見踏みするようにして歩いて周り、いつもの無糖ヨーグルトとメープルシロップ、そして青汁の粉末を手に取りカゴの中へと入れていった。  小さな頃から実家で食べているヨーグルトに、この三つの食材が欠かせないのだ。いつ食べてもこの食べ方が最高に美味しく身体も健康になるような気がして止められない。  白いヨーグルトに紅茶色のメープルシロップを皿の淵に掛けて、上から抹茶色の青汁粉末を振り掛けると、写真映えとまではいかないものの色が鮮やかで美しい。それを壊すように掻き混ぜて食べるのが至福の時間なのだ。まったく苦味がないこの食べ方は、なんとなく抹茶ラテを食べている気分にもなった。ただ、この美味しさを友達に伝えても分かってもらえないため、最近は一人で夕飯と共に堪能しているのが常なのだが。  更に今日は色鮮やかなイチゴも購入して更なる美味しさの探究と写真映えにチャレンジしてみようと、ひとりニヤニヤしてレジへと向かった。  そしてレジへ並ぶと先程の車椅子の彼を助けたお姉さんがレジ打ちをしていた。その彼女は私の中学時代からの友達であり同じクラスだった頃の学級委員長だ。 「よう、学級委員長。今日も元気に働いてるかね?」  順番が来た私は久しぶりに会ったかのように大きな声で話し掛けた。彼女が忙しそうにして笑顔がなくなっていたから、それを取り戻させるために馬鹿でかい声で冗談交じりに声を掛ける。 「毎日毎日、よくここのスーパーに顔出すわね。月渚」  呆れ顔で彼女は私の顔を見るなり一旦休憩するような態度で雑な扱いをし始める。先程の車椅子の彼に接客していた態度とは大違い。 「まあね。一人暮らしを始めたからさ。ここが一番、便利なのよ」 「それより会う度、会う度、学級委員長は止めてよね」 「ごめん、ごめん。小春(こはる)ちゃん」 「それでよろしい!」  やっと笑ってくれた小春は、さっさとバーコードを当ててレジ打ちを済ましていった。私を早くここから追い出したいのか、急かすようにお釣りを渡してくる。混雑してきたスーパーに「お喋り好きな常連客は邪魔です」とでも言いたいようだ。 「ごめんね、月渚。あと一時間で終わるからさ。この近くにある【五月亭(さつきてい)】で待っててよ」 「うん、いいよ。待たせるんだから、小春の驕りね」 「ヤダよ。月渚の方が稼ぎいいんだから。パートのあたいに(たか)らないで!」  私はベーッと右手で下瞼を下げる。そして「また後で」と手を振りレジを後にした。  小春はストレスが溜まってくると、よく私をお茶へ誘ってくる。性格に裏表がなく熱意がある小春は中学時代から学級委員長に相応しい気品と貫禄を兼ね揃えていた。いろんな人の困り事に気付き話し掛け、率先してクラスの問題を解決していく小春は、その頃から黒ぶちメガネと制服の似合う少女だった。実直なまでの性格さが、そのまま滲み出ていたのを今でも覚えている。ただ実直さ故に小春の苦手な話題になると顔に出やすいのが玉に瑕だったのだが。  そんな小春も短大を卒業するなり、即結婚して赤ちゃんまでと波瀾万丈な生き方をして、今はスーパーのお姉さんをしている。小春を見ていると人の人生などこの先どうなるか分からないものだと思ってしまうほどだった。
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