五月亭での出会い

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五月亭での出会い

 その親子に手を振って別れた私は小春が指定した新しい喫茶店【五月亭】へと足を運んだ。以前から気になっていたお店だったけれど、入るのは初めてで少し胸の奥で緊張していた。店の扉を開けるその手に初めて読む本の一ページを捲るような、そんな期待が込み上げてくる。  ついこの前オープンしたこの店は木造平屋建てで天井が高く、太い梁が何本も見える造りになっていた。漆喰の壁に木の温もりと香りに癒しの空間が広がっている。天井でゆっくりと回るシーリングファンもとても趣があり、アンティーク調の造りがこの店とマッチしていた。店内に漂う仄かなコーヒーの香りもいい。焙煎したコーヒーをひとつひとつ丁寧にドロップしている店員さんの姿が絵になっていた。  期待以上の店の雰囲気に、うっとりとしてしまう。 「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」 「ううん。後から友達が……」 「そうですか。当店は全席禁煙ですので、ご自由にどうぞ」  元気で優しそうなウェイトレスが空いている席にそっと手を差し伸べ案内してくれた。「ご自由に」とは言いながらも、この夕方は結構お客さんがいっぱいで静かそうな窓際の席は既に学生さんたちで埋めつくされている。  とりあえず大型テレビが据え付けてある壁際近くに座った私は、ここなら何時間でも退屈しないやと軽く伸びをしてみせた。夜はスポーツ観戦や映画鑑賞もできそうなそのテレビは、その番組予定表を黒板に描いている。メニューに並んで描かれたテレビ番組予定は、一瞬そう言うメニューでもあるのかと誤解してしまいそうになってしまうほどだった。 「ご注文は如何なさいますか?」 「あ、ちょっと友達が来るまで、待ってくれません?」 「はい。では後ほど伺いますね」  屈託のない笑顔でウェイトレスの彼女は立ち去ろうとした。私はその笑顔に申し訳なさを感じてしまい、思わず彼女を呼び止める。 「あ、やっぱり、アイスティーをストレートで」 「畏まりました。アイスティー、ストレートですね」  注文をしないのは悪いと思い慌てて頼んだ私は、いつも喫茶店で飲むアイスティーを注文した。昔からコーヒーの匂いは好きだけれども飲むのは苦手で、必ず喫茶店に入るとアイスティーを頼んでしまうのだ。ソーダーがあるとどちらにしようか非常に悩んでしまうのだけれども、ここの店にはあいにくそれがなかったので悩む余地はなく、思わずそれについてホッとしていた。  夕方六時を過ぎてテレビではニュースの時間が始まった。職場でたまに昼のニュースを見るくらいの私は夕方のこの時間にテレビを見る機会など滅多になかった。実家にいた学生時代は、母親がテレビを付けっ放しにしていたのでなんとなく見ていたのだが、一人暮らしを始めてからというもの、もっぱらスマホで情報を入手しているだけだった。余計なニュースに関心は無いため、知りたい情報だけ入るように設定をし、それを適当に眺めているのが日課だったのだ。  そんな時、突然緊急ニュースがテレビから流れ込んで来た。 「これは革命です! 東南アジアにある東アジア・ヨーロッパ共和連合の植民地化にあった小国が崩壊し、民主主義国家が誕生しました」  東アジア・ヨーロッパ共和連合の母体である共産主義国家がだいぶ前に崩壊し、そこに長年支配されていた小国が内戦を繰り返しながらも民主化の政党に破れたというニュースだった。  十二年前は血で血を削る民主化デモの争いで多くの人命を失ったものの、今回は欧米の介入があったと見えて、最後には通常選挙で血を流さずに国民の意向を叶えたようだった。そんな十二年来の革命に世界の誰もが驚愕し、称賛の声を上げていた。 「やっと夢が叶ったんだね」  思わず私はテレビに向かって呟いてしまった。私にとって十二年前に起こった民主化デモが印象的で、なんとなくこの国を覚えていたからだ。  ただ世界の片隅にある日本では誰も驚いていないように思えて仕方なかった。マスコミだけが鼻の穴を大きくして、興奮した鼻息を漏らしているようにしか見えない。そもそも東南アジアの小国が何処にあるのかさえ知らない日本人が興奮するはずないのだ。  だけれども日本の政治家は新たな民主主義国家の誕生に協力する意向をいち早く表明していた。諸外国に乗り遅れないためなのか、ジャパンマネーを流通させるためなのかは知らないけれど、頑張ってほしいものだと他人事のように思ってしまう。  実際には話がグローバル過ぎて私もよく理解できていないのだが。興味のベクトルが向かなければ、誰しもそんな程度だろう。喫茶店にいる誰もが無関心なように。 「今回の革命は一重に【赤い月】の崇拝者たちの御尽力でしょう!」  十二年前から聞き覚えのある言葉が今日も耳に飛び込んできた。【赤い月】という不思議な言葉が世間を沸かせる昨今、外国で何かある毎に、その言葉を耳にした。  この【赤い月】と言われる何かが人なのか、グループなのか、はたまた宗教団体なのか分からない組織であり、常に歴史の裏舞台でひっそりと動いているようだ。けれども、その正体は今も謎のまま。たまにニュースで取り上げられる機会もあり、この組織について抽象的な発言も多く耳にするが、よく理解されないまま言葉だけが先行していた。  人々は【赤い月】を神の系譜とか、悪魔の再来とか、月食の奇跡とか呼んでいるけれども、本当の所は何と抽象するべきなのか分からないままだった。人によっては神も悪魔も奇跡も気持ちとしては同等の価値なのだろうが。  たまに出版された書籍や雑誌にそう書かれているのでマスコミが同じように物言うのも無理もないけれど、もっと他に言い方があるのではなかろうかと。 「Reading the Future, Reading the Moon(未来を見据えて、月を読め)」という言葉が彼ら【赤い月】の意思表示らしい。テレビでもこの文句をよく耳にする。  そんな私もあちらこちらに留学していた経験があり、この言葉だけは海外でよく耳にしていた。外国は日本と違い学生の政治への関心も高く、何かあればすぐにデモへと発展していく。だからその熱意が時として政府軍と衝突をしてしまい、命を落とす学生もいるくらいだ。それは、今の日本では見られない不思議な光景としか表現できないのだけれど。  建て前と本音が違う日本人は【おもてなし】という、人に優しそうな感情を武器に争いを好まない性格の人が多い。去勢された集団のように、言いたい言葉はSNSでそっと呟くくらいだ。  同調圧力が非常に強い日本だからこそなのだが、それは個性的な子供を陰気にバッシングしていく。「みんなと違う事がそんなにいけないの?」と叫びたくなるほど周りは冷たいのだ。  さっきスーパーで会ったおばさんのように、嫌悪感を露わにして来る輩が多い。そんな表っ面だけ良い日本人に、私はたまに嫌気がさす。本当に優しいと感じられる人たちは二十六年生きて来て、ほんの僅かしか出会えていないから。  マスコミを賑やかす【赤い月】というものの正体は分からないけれども、私も十二年くらい前、赤い満月の夜に出会った一人の少女【花月】と一喜一憂した思い出があるのを思い出していた。もう記憶は薄れてきたものの、その頃の感情は熱を冷ますことなく今も心に色濃く残っている。十二年前に肌で感じた思い出は薄れてしまっているのに、その女子との思い出は熱が冷めないというのは、どこか矛盾しているように思えるけれど、それはそうでもない。ただ、身体で体験した物事を身体が忘れただけであって、心に染みついた彼女との思い出は色濃く消えないままなのだ。今思えば、おそらくそれが私なりの革命だったのかもしれないと。 「お久しぶりです」  突然、後ろから私の肩を叩く小春ではない女性の声が聴こえてきた。誰だろうかと振り向いてみると、そこには十二年前に消えたはずの花月が立っているではないか?!  思わず目を丸くして驚いてしまった私は皆既月食の時に出会った記憶と、さっきの電車の中で起こされた記憶が重なって蘇ってきた。嬉し過ぎて椅子を引っくり返しそうになりながら立ち上がり、すぐにまた花月が消えるのではないかと思った私は、急いで彼女の手を両手で握り絞めた。 「うわあ、花ちゃん。久しぶりー! どうして、ここにいんの?」 「え、花ちゃんて? うちは違いますけど」  驚いた顔をする彼女は私の言葉を否定するように笑顔で手を握り返してきた。 「ルー姉ちゃん。うちは、月乃(つきの)です。カズ兄の妹ですよ」  花月と似たような顔をしている一磨の妹、月乃ちゃんに勘違いして話し掛けてしまった私は、凄く気恥ずかしくなってしまった。なので、急いで話を逸らすように、どうして月乃ちゃんがここにいるのか尋ねてみた。 「お母さんの勧めで、ここでアルバイトさせてもらってるんですよ」  その言葉に一磨の母親を思い出した。高校生になった月乃ちゃんにアルバイトを勧めるなんて、とっても彼女らしい。 「もう月乃ちゃんもそんな年頃か。早いねえ」 「高校一年ですもん」  屈託のない笑顔が花月とそっくりだ。月乃ちゃんを見ているだけで胸の奥が騒めいてしまう。 「大きくなったね。どおりで私も年取る訳だ」 「幼稚園以来ですもんね。でも、ルー姉ちゃんも相変わらず元気で可愛いらしい! やっぱ憧れのお姉さんだ」 「うふふ。お世辞でも嬉しいわ。ありがとう」  喜びの再会も束の間、近くの席からウェイトレスを呼ぶ声が聴こえてきた。  手を振って別れた月乃ちゃんは急いでそっちの席にいたお客さんの接待を卒なく熟していく。その後ろ姿を見つめながら、幼い頃の月乃ちゃんを思い出していた。十二年前は四歳の幼稚園児で、何処へ行くにもお母さんと一緒について歩いていた。そんな月乃ちゃんがいつの間にか大人の女性になっていたなんて、時の早さを感じてしまう。  そして十二年前の花月との思い出も蘇ってきた。それを頭の中で思い描いているだけで小春を待つ退屈な時間がとても楽しい時へと変わっていった。
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