五月亭の意外な配慮

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五月亭の意外な配慮

「やあ、お待たせ―。待った? ちょっと保育園迎え行ってたから遅くなっちゃった」 「待った、待ったよ」  こちらのグラスにまだたっぷりアイスティーが入っているのを確認した小春は私の肩を叩いて向かいの椅子へと腰を下ろした。胸には三歳の皐月(さつき)ちゃんという愛娘を抱いて。 「お客様。子供用の椅子をご用意致しますので少々お待ちください」 「ありがとうね」  小春は軽く会釈をして、「いつも悪いね」と優しそうなウェイトレスに声を掛けていた。 「なんか店に入って来た時、あんた、変にニヤニヤしてたけど大丈夫?」 「ホントに? いやあ、思い出し笑いしちゃってたかも」  完全に思い出に耽っていた私は周りの目を気にすることなくニヤついていたようだった。不覚にもそれを小春に見られるなんて少し恥ずかしくなる。 「それより、さっきの優しそうなウェイトレスさんって知り合い?」 「まあね。高校ん時の同級生。あたいらと同い年よ」 「へえ、そうなんだ。なんか感じの良さそうな人ね」 「そうなのよ。彼の旦那がこの店をオープンしてね。バイトの子雇って頑張っているみたいなんだ」  小春は自分の店のようにこの店が出来るまでの経緯を事細かく説明してくれた。まんまと私はこの客引き女に引っ掛かったのか。少し悔しい想いが混み上がってきたが、店内も過ごし易いし、女子が一人でも(くつろ)げそうな空間だったので気持ち的には二重丸だ。何故だか月乃ちゃんもアルバイトしているようだし、それなら今後も来てやってもいいかと。 「本当はさ、このお店に月渚の描いた絵をいくつか欲しかったんだけどね。この前、違うお客さんが絵を描いて置いていってくれたのよ」 「私に絵って、何? あんまり絵には自信ないけど」  意味が分からない小春の言葉に、「いいからついて来て」と私の手を引き席を無理矢理立たされた。トイレのある方へ引っ張ろうとしている。 「ママ、サッツーもトイレ」  皐月ちゃんも丁度トイレの気分だったようで、三人で仲良くトイレへ向かうと、そこにはショッピングモールや高速道路のサービスエリアにあるような立派な多目的トイレが併設されていた。 「珍しいわね。この喫茶店」 「そうでしょ、そうでしょ。トイレが充実していて子連れのママにも人気なのよ」 「へえ」  これを私に見せたかったのか。私がこういう配慮のいいお店を好むのを知っている小春は必ず私を少し驚かせるお店を紹介してくれる。今日もこのトイレを見せられた瞬間、彼女に一杯食われた気分になってしまった。 「見せたかったのは、これだけじゃないの。この絵を見て見て」  小春がそう指を差した絵はどれも懐かしい昔から見た事のあるような絵だった。絵というよりは、むしろ非常口やトイレのマークに近いピクトグラムという手法を用いたものに相当するだろう。  洗面台には手を洗う人の絵や、トイレには座り方から水を流す方法まで絵で表現されていた。ゴミ箱から介助用ベッドまですべてにだ。更にオムツ用ゴミ箱まで用意されているのは至れり尽くせりで文句のつけようがない。  そこに小さくお花のスタンプが押され【お日様とお月様の会】のシンボルマークも添えられていた。これはきっと一磨の母親が描いたものに違いない。 「このお花のスタンプ、懐かしいよね。ジャガーだっけ? シュガーだっけ?」 「小春、覚えてないの?」 「何だったっけ? 教えてよ」 「そんなの自分で調べなさい!」  小春は中学の時に描いた花の名前までは、さすがに覚えていないようだった。  私はそれよりこっちのシンボルマークが懐かしいと思い、また月食の時に出会った花月を思い出してしまった。 「何気ない所に色々と絵が添えてあって、非常に分かり易いのよ。外国人にも人気らしいよ」 「あ、ホントに」 「それに、こういうの、オリンピックやパラリンピックとかでも使われるんだって。あたい、知らなかったなあ」 「ふーん」  さすが一磨の母親らしく気付く所も私とは段違いだ。どうやらこの絵たちを小春は私に描かせようと企んでいたようだけれども、一磨の母親が先行してしまっては私の出る幕はなさそうだ。そもそも私にこのような絵を教えてくれたのが一磨の母親なのだから。むしろ私にとってもこの絵の方がしっくりくる。  月乃ちゃんはきっとこの絵のご縁でお母さんからアルバイトを許可されたんだと、なんとなく一磨の母親の意図が読み取れてしまった。 「そう言えば、私の他に中学ん時、花ちゃんも同じように描いてたよね?」 「え、それ誰? そんな子いたっけ? あたいは覚えてないな」 「花ちゃんだよ、花ちゃん」 「はなちゃん? そんな奴、知らないなあ」  うっかり小春の知らない余計な一言を喋ってしまった。この世にいない月食の時に出会った女子の名前を口ずさんでしまうなんて、今日の私はどうかしている。ついつい絵を見ていたら懐かしく思えて記憶のチャックが外れてしまったようだ。  季節外れの蒸し暑さや【赤い月】のニュース、そして花月に似た月乃ちゃんとの出会いに、あの頃の記憶が様々な想いと一緒に繋がっていったのかもしれない。 「あ、なんでもない。勘違いしてた」  訂正する私を無視するように、小春は娘の相手をしていた。花月の話など気にしていないようで何も無かったかのように娘のトイレに付き合っている。  トイレに座っている皐月ちゃんは少し落ち着きが無さそうな感じではあるけれど、物事を凄く理解していてお喋りさんだ。将来は小春と違い、やんちゃな娘になりそうな予感がする。子供はそれくらいが丁度いいのかもしれないが。 「ところで皐月ちゃんは五月生まれよね」 「そうよ。あんた出産祝いくれたじゃない」  名前からも察する事ができる誕生月に「疑問すら感じないでしょう」という顔でこちらを見てきた。私は別にそれについて疑問はないけれども、小春の名前について昔から疑問を感じていた。 「小春は春に生まれたの?」 「ううん。あたいは十月生まれだから、秋よ」 「そ、それ! どうして秋なのに小春なの?」  いつも小春に会う度に疑問に感じていた有耶無耶が、ようやく()けた。皐月ちゃんは素直に五月生まれなのに、その母親が季節外れなんて少し可笑(おか)しくて仕方がない。小春が自分で名前を付けたわけではないので彼女に非はないけれども昔から不思議で気になっていた。 「博識な月渚でも知らないんだね。十月って【小春】なんだよ」 「え? 十月は【神無月(かんなづき)】でしょ?」 「陰暦の異称よ」 「陰暦の異称?」  少し驚いた私は確か月の表現には色々呼び名があったのを思い出した。陰暦には異称が数多く存在し、使い分けをしていたという。その中に十月の【小春】というのもあったようだ。 「久しぶりに目から鱗だわ」  中学時代から【お月様フェチ】だった私が月の形を見ては「今日は〇〇ね」と自慢気に話していたのを恥ずかしく思い出された。  陰暦についても勉強をしていたはずなのに、もうすっかり忘れてしまっているのが情けない。記憶というのは、やはり忘れるためにあるのだろうか?  ◆◆  席へ戻った小春はコーヒーとミルクとクッキーを注文していた。クッキーは子供用に砂糖を使わず、キシリトールを使って作られているらしい。虫歯が天敵の子供に優しいお菓子の登場は子育てママにとって大助かりのようだった。 「少し値は張るけど美味しいよ」  クッキーが来るなり、皐月ちゃんは大喜びで食べ始めた。そして小春もひとつ摘まんで美味しそうに口の中へ運ぶ。そうして私にもひとつあげるようにと小春は皐月ちゃんに話し掛けるが無視されていた。多分、横に座っているお母さんの言葉が聴こえていないか、お菓子に夢中でそれどころではないのだろう。 「皐月ちゃん。お姉ちゃんにもクッキー下さいな」  目が合うように姿勢を下げて皐月ちゃんの方へ手を伸ばしてみた。 「はい、どうじょ」 「ありがとう」  そのまま私も口を大きく開けて丸ごとクッキーを頬張ると何とも言えない甘さとサクサク感、それに焼きたての香ばしさが非常に鼻にもお口にも美味しかった。 「美味しいね」  皐月ちゃんと目を合わせて二人でニッコリと微笑む。それを見ていた小春も嬉しそうに微笑んでいた。 「それで、今日のご相談は何かしら?」  あまり遅くなっては皐月ちゃんの夕食にも迷惑が掛かると思い、本題に入らせてもらった。明日もお互い仕事なので、あまり長居はしたくない。 「それがね、娘の相談なんだけどさ。非常に落ち着きないし、人の話を聞いてない時が多いのよ」  今日は子育て相談の話か。以前は旦那の愚痴を聴いたような気がするし、小春は育児や家庭にだいぶストレスが溜まっているようだ。結婚していない私に相談されても、あまり深いアドバイスなんて出来ないのに、私に相談してくるなんてどうかしている。以前のように愚痴を聴くだけなら赤べこのように頷くばかりでいいのだけれど、今日は何かアドバイスでもしなければ話が終わりそうにない。 「子供相談なら、市役所に子育て支援課とかあるでしょ?」 「まあね。今度行ってみるつもり」  そう言うと、ただただ三歳の子供に振り回されている小春は思うように子育てができない不安を打ち明けてくれた。そして最後に思いもよらない言葉を添えて。 「皐月も一磨君のようになるのかな?」 「え?」
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