少年と金魚

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少年と金魚

 ある少年について語ろう。  そんな在り来たりな書き出しを便箋に綴った私は一度ペンを置いた。  「私は―――こんな身勝手な事をする動機を知らない」  古くなったチェアに体重を預けると、今にも壊れそうなスプリングの悲鳴が聞こえる。ギシギシと軋むチェアの上で、天井を仰いだ私は溜め息を零す。言葉にする事の出来ない衝動と云えば、下品ながらも的を射ているのだろうか。少なくともこの行為を続けたところで得られるものなんてない。ましてや誰かに感謝される事もない。  「それでも、私は語ろう―――かつて少年だった物について・・・・」  両腕を高く伸ばした私は、まるで救いを求めるかのように再び天井を仰ぐと、机に向き直る。腕を捲くり、意を決した私はペンを握った。 ◇  天使の頭上に輝くリングは、何れ首を吊る為に準備された物。きっと、それは死へ向かう為の儀式。天井を支える梁から伸びたロープにぶら下がっている大きな人形。その足元から零れ落ちた排泄物。僅かに咽返る異臭の中、僕は笑っていたんだと思う。 ◇  右の乳首は削ぎ落とされ、左の乳首には十字架のついたピアスが刺さっている。焼け爛れた皮膚は赤く、真皮が剥き出しの状態に等しい。抉れた腹部や、割礼によって裂かれた小さなペニスには傷が見える。僅かに脱腸するアナルは括約筋の締りが悪い。腸液と思われる体液が少年の太腿を伝っている。  母親に虐待されていた少年は、隣人の通報によって保護された。夜な夜な聞こえる奇声――少年のものではなく、母親による聖書の朗読だったらしい事が後の事情聴取によって明らかにされている――を聞いた隣人が、不謹慎である事を承知で垣根の向こうの少年宅を覗いた結果、この虐待事件は警察の知る所となった。  経過に何があったのか、その詳細が不明のまま、書類送検された少年の母は刑務所へと送られ、当の少年は養護施設へと預けられる事となり、虐待の詳細を調べる為に、またその傷を心身共に癒す為に行なわれた検査で、少年の機能障害が見つかった。  虐待によって過剰のストレスを味わった子供が分裂病を起こしたり、ネグレクトで成長不全を起こしたりと云うのは珍しい症例ではなかった。少年も例外なくそこに含まれ、海馬の萎縮と、性機能と成長障害が見つかった。  アパシーと云う無感動状態であった少年は側頭葉の癲癇、前頭葉の機能不全、海馬の萎縮に伴う記憶障害――また、分裂病(限りなく解離性同一性障害に近い)など多くの障害を併発しており、更に詳細な検査が求められた。  そこで少年の状態を見た医師は、以下のような感想を述べている。  「全くどんな虐待をしたのか、想像もできません。良く生きていた――と云うよりは、何故殺さなかったのか?と疑ってしまいます。少年の身体に傷のない所などありません。ですが、どれも少年を死に至らしめなかった。・・・・・果てしなく死とは遠かった。けれど、それ以上に生きている事さえも信じられない傷が、少年を埋め尽くしていたんです。想像できますか?いえ、想像なんて出来ない。人間の仕業じゃない・・・・・―――これは紛れもなく悪魔の所業ですよ」  少年の傷を完治させるのは不可能だと当時の担当医は発言している。しかし、現在の外科手術を持ってしても完治させる事が出来たかも疑わしい少年の傷は、外見的なモノだけでなく内面的なモノへ移行し始めて行った。  一方で事情聴取された少年の母の為人について簡単ながらも補足しておこう。  敬虔と云うには狂気を帯びた信念を抱え、日々の生活を営む少年の母はレイプ被害に遭っていたらしく、その際に妊娠したのが少年らしい。確実な証拠はない。母親はジャンキーで信頼に於ける証言があまり多く得られなかったので仕方がない。当時の事件を地方紙の隅に見る事は出来るが、少女が路地裏で乱暴された程度の記録しかない。警察の資料にあった犯人(前歴があった為に直ぐに捕まった)のDNA検査を州政府に許可を貰い行なったが、少年が彼の子供である確率は低いそうだ。  誰の子供であったのか?と云う疑問も然る事ながら、彼女は自分の妊娠について処女受胎だと嘯いていたらしい。事件を忘れる事でそのストレスから脳を守ると云う極めて本能的な行動であったが、どうやら彼女は当時からジャンキーであったらしく、周囲の者はどうせどこの馬の骨とも知らない輩の子供だろうと相手にしなかったそうだ。  そんな中、彼女に興味を持ったのが―――いや、同情したのが同郷の教会で神父を務める男性だった。彼女を引き取り、生活の援助をした経過や動機は不明。だが、彼のDNAが少年のそれと似ていた事を追記して置く。  それから間もなくして生まれた少年を連れて、母親は同郷を離れている。各地を点々としながら、自らの身体を売り、少年の身体を売り、生計を立てていたと思われる彼女は何時からか虐待を始めるようになる。  だが、彼女の辿った道をなぞり、得られた証言から察するに、彼女は一度教会で少年との関係について懺悔していたらしい。何時、誰が、その痛哭を受けたのかは定かではない。だが、マニュアルと聖書、そして同義的で同情的な倫理観しか持たない神父が何を言ったのか、それを推測する事は可能だ。  「悔い改めなさい。御神は何時も貴方を見ています」  彼女がその発言をどう捉えたのか不明だ。だが、罪に対して罰を受けなければいけない、と思ったのは間違いないだろう。  結果、母は悔い改める事にした。  罪と罰をどのように処理するのか?それは分からない。だが、母親はそれを悪魔と云う便宜的で便利な代名詞を言い訳に、拠り所にして、少年の中の罪を祓おうとしたのだろう――と専門家は述べている。  そして後に事件が発覚し、今日に至り、少年は今カウンセリングを受けている。一方で、母親に50年の懲役が下った。地方のテレビ局では大々的に報道された事件も、全国で見ればよくある事件として処理されたこの一件は、まだ終っていなかった。  少年が保護されて数ヶ月。突如として少年が施設から失踪した。監視カメラの死角を突いたその逃走劇に関係者達は驚きを隠せなかった。何故ならば少年はカウンセリングと共に行なった知能テストで極めて低い結果を出していたからだ。年相応――いや、それ以下と云っても差し支えのない少年がどのように綿密な計画を立てたのか、誰も想像出来なかった。勿論、専門家である警察はこれを殺人未遂事件として立件し、早急に少年を指名手配すると同時に担当の看護士(逃走時、少年に暴行されている)を、幼児暴行の容疑で捕まえた。  施設を出た人物が自ら弁護士となって立件したその暴行事件に、少年が関わっていたかどうか定かではない。だが、数え切れない余罪がある事は明らかである。また、施設内で同様の事件が、複数の看護士で行なわれていた事も判明しているので、少年がその被害者となっていた事は間違いないだろう。  勿論、当の少年は未だ捕まっていない。 ◇  施設を抜けた僕を拾ったのは、豚のように肥えた脂肪を着込んだ醜い雌だった。売春を斡旋する事で糧を得ているらしい彼女はまず僕のアナルが緩いかどうかを確認した。彼女が咥える煙草と同じように細く長いバイブから、順に太くなっていくそれを挿入し、何かの具合を確認する。母と同じような事をする彼女も何が楽しいのか、それを繰り返し、一頻り楽しむと―――試用を終えると、満足そうに言った。  「高く買ってくれそうだね」  そう呟く彼女はどこかに電話を掛けた。裸に剥かれたまま部屋の中で呆然と佇む事数分。僕の前にひとりの青白い男性が現れた。病的と云うよりは狂気を帯びたその外見はどこか母に似ている。  「アンタの待ち望んだ子よ」  彼女が僕の背中を蹴り、男性の前に跪かせる。息を荒くし、僕を見下すその男性は徐にズボンを下げた。目の前で揺れる萎えたペニスを、僕の頬に打ち付ける。  「ほら、舐めなさいよ」  そう言ってヒールの足を僕のアナルに突き刺した女性の命令に従い、男性のペニスを手で支え、舌を這わせる。ムクムクといきり立つペニスの先から程なくして体液が零れ始める。  イグゥ、と引き攣った声を上げた男性は僕の頭を抱え込むと、僕の口内にそのいきり立ったペニスを突っ込んだ。それに合わせて女性が可笑しそうにヒールの足を出し入れさせる。グチュグチュと、ジュボジュボと云う艶かしい音が響く部屋の中で、僕は金魚を見つけた。丸い水槽の中でひとり泳ぎまわる金魚は、どこか僕に似ていた。 ◇  歪んだ水槽に映る少年の顔は横に引き伸ばされている。金魚も同じように歪んだ世界を覗いているのだろうか?と思いながら少年は後ろから貫かれていた。その僅か下で揺れる少年の小さなペニスからは精液とは違う白濁とした液が垂れている。慢性的な痒みを覚える少年は、自分が性病に冒されている事を知っていた。それでも買い手がいる以上は暇を与える事は出来ないと一蹴する館主の女性に口答えをする意欲を失ってどれほど経過しただろうか。  何時間と続く男性の単調な陵辱に耐えながら、少年はこれからどうしようか?と考えていた。施設を逃げ出したものの、食うに困ってこのような手段を取らざるを得なかったとは云え、好い加減飽きてきた。いや、体の方が拒絶し始めている。別の生き方で日銭を稼がなければいけない。だが、少年にはそのような知恵がなかった。  唯一の友達と云っても過言ではない水槽の中の金魚に相談しても、マトモな返答は当然返って来ない。だけど、君しか相談する相手はいないんだ、と笑う少年は、自分の後ろから注がれた熱い物に気付く。途中で数えるのを止めてしまったが、男性がイクのはこれで何回目だったろうか。  「殺してしまおう」  少年は括約筋の消えたアナルから零れる精液を拭き取りながら、男性の背中を見遣った。誰の声?と思ったが、男性の声はそんなに低くない。じゃぁ、誰だろうか?周囲を見渡したが誰もいない。部屋を遮る壁は薄いので、隣で誰かが言った、テレビから漏れ聞こえたものかの知れない。  「殺してしまおう」  目の前の金魚が水面に口を出し、パクパクと空気を貪っている。溶けている酸素の量が少ないのだろうか。少年は小休止をする男性をちらりと確認すると、水槽を覗き込む。  「殺してしまおう」  金魚が言っている。少年は危うく尻餅を付きそうになる。驚いた、と云うよりはその言葉の衝撃に押されたと云う方が妥当だろうか。まるで背中を誰かに押され、転びそうになるあの感覚に似ている。誰かに押されたのに、何かに誘われて地面に近づいてしまう。そんな感覚に似ている。  「殺してしまおう」  少年は男性に振り返った。  「殺してしまおう」  男性が少年に振り返った。  「殺してしまおう」  金魚が物欲しそうな口をパクパクと動かしている。  「殺してしまおう」  少年は立ち上がり、男性の背中に抱きついた。後ろから腕を回し、首を絞める。男性が醜くイグゥと呟くのと同じ声が咽から搾り出される。ヒューヒューと隙間風のような音に続き、口から泡があふれ出し、膨れ上がった舌が顔を出す。両腕で少年を捕まえようとする男性。徐々に視線が上向いていく。天井には相変わらずお香の煙が漂っている。  「殺してしまおう」  少年は金魚に代わって呟いた。 ◇  私はペンを置いた。かつて少年だった物について私が知る情報は少ない。単語だけを、まるで年表でも書くように綴ればほんの十数分足らずで少年だった物の人生は形に出来る。あまりにも素っ気無い。あまりにも短い人生の中で、少年だった物が何を感じ、得たのか、また失ったのか?それは想像も出来ない。だが、私は語る事を――いや、主張する事をやめる事は出来ないのだろう。  大きな溜め息を零す。私はチェアの背中に体重を預けると、天井を仰ぎ見た。剥き出しの梁からぶら下がった大きな人形は既に硬直を始めている。腐臭が死臭へと変わるのは時間の問題だろうか。再び溜め息を吐いた私は立ち上がった。  「かつて少年だった物は、金魚として泳ぐ事を諦めていない」  便箋の最後にそう走り書きした私はこの小さな書斎を後にした。 (完)
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