夜空の星を私にくれたら

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 ノナがお偉いさんのプロポーズを断ったらしい。  この噂はあっという間に広まった。 何しろ車に乗った紳士などよく目立つものだし、丘の上の光景は村の誰もが見ていたからだ。 さて、そんな次の日、ノナは何事も意に介さず、いつものように二階の自室のテーブルで縫いものをしていた。 木でできた素朴な家には電球が一つしかなく薄暗い。けれども、この時間は日がよく入ってくるからそれで充分だ。 「ねえ、どうして断っちゃったのよ。もったいない」  と、声がした。いつの間にか幼馴染のリラが正面の椅子に座っていた。  ノナは布地を膝に置き、代わりに頬杖をついた。 「地位も名誉もある人が、こんな田舎娘をほしがるなんておかしいわ。それでちょっと調べてみたら、あの人すでに結婚しているんですって。私はお妾さんってこと。そんなの嫌に決まっているじゃない」  向かいに座るリラは身を乗り出す。 「そんなのどうでもいいじゃない。そうまでしてほしいと言ってくれる人なんて、なかなか現れないわよ。それに要求にも応えてくれたわけだし」 ノナはあの紳士にある要求を突き付けた。 「この星空を私にくれたら、あなたのものになってあげてもいい」  そうして流星群のプロポーズと相成ったのだ。 「あれは断る口実として言っただけよ。本当にしてくるとは思わなかった」 「あら、じゃあ初めから断るつもりだったの? でも、実際にしてくれたってことは、ノナのこと結構愛してくれてるんじゃない?」 「見てくれだけでしょ」  鼻をつんとあげ、そばかすだらけの頬をちょっぴり赤くして相変わらず興味津々のリラと違い、ノナはめんどくさそうに答えてみせた。  そもそもなぜ、はるか遠い首都に住む紳士が、山あいに住むノナを見初めたのか。  叔父に写真のモデルを頼まれたからだ。  首都に住むノナの叔父は大学に勤める天文学者で、このたび本を出版するという。  だが、お堅い星に関する書物なんて売れるわけがない。けれども、天の神秘や不思議さを専門家だけでなく多くの人に知ってほしい。  売れるために重要なのは表紙だ。  そうだ、美しい星空の写真を使おう。だが、それだけではありきたり、人の目には止まらない。  そこで、ノナである。  栗色の髪に少し散ったそばかすどれもありふれた造形だが、一つ一つのパーツのバランスは良く、「よく見れば整っている」と言われるような顔立ちだ。  そんなありふれた可愛らしさを持つ少女が、星空を不思議そうに眺める。 完璧だ。  かくして叔父はノナにモデルを依頼し、そしてノナはごく軽い気持ちで引き受けた。  そんなことをしても、天文学の本など売れやしないと確信していたからだ。  そして、予想通り売れなかった。  そんなものである。  ノナは村から見える星空を愛していたが、その分他人がそんなものに興味を持たないことをよく知っていた。  流れ星とは恋の女神が流した涙である、と固く信じられていた時代だ。「流星とは単なる塵が燃え尽きる現象である」と堅苦しく書かれた本が売れるわけないのだ。 「仕方ないわ」山積みの返品本を見て気落ちした叔父にノナは言った。「でも、悪い本じゃない。少なくとも私には面白かった」  嘘ではない。女神の涙なんて子供騙しのお伽話なんかよりも、遠い宇宙の小さな砂粒が燃えているという事実の方が、ノナの胸を熱くした。  それだけならば、星が結んだ叔父と姪の美しい友情話で終わる。  だが、ここで一つの偶然が起きた。  街一番の大きな本屋の片隅で、埃をかぶっていた一冊が、とある貿易会社の社長の目に留まったのだ。社長は表紙の美しさに惹かれてプレゼント用に購入し、彼の古い友人の息子であるかの紳士に手渡した。  そして、その紳士はあろうことか表紙の少女に一目惚れして、著書を問い詰め、ついにこの村までやって来たのだ。 「見てくれだけ」とは、そういうことなのだ。  それを知っていてもリラは引かない。 「いいじゃない、見た目だけでもあんなに愛してくれる人はそうそういないわよ」 「そうかしら? たとえばあなたの旦那さんなんて…」  と、話が自分自身のことに移ると、リラはすぐに遮った。 「その話はいいの!」  こう見えて照れ屋なのだ。 「とにかく! 私が言いたいのは、人との出会いなんて運なんだから、あとになって後悔しても遅いのよってこと」  それだけ言い残すとバタバタとリラは出て行ってしまった。  一人残されたノナは相変わらず頬杖をついたまま考える。本当にリラの言うとおりかしら? 断ったことを後悔する日なんて来るかしら?  いや、ない。  ノナは紳士からのプロポーズの言葉を一言一句覚えている。 「恋の女神の涙を、残らず君にあげる」  それまでは「もしかして」なんて少しは思っていたものの、この言葉を聞いた瞬間、ノナはお断りをすることを固く決心した。  あの紳士はあの本を少しも読んでいなかったのだ。  そんなものである。  けれど、それは退屈な人だ、と思ってしまったのだ。  別に愛人扱いだとか、見てくれだけだとか、そんなことはただの言い訳なのである。  大恋愛がしたいだとかそういうわけではない。せめて、一緒にいて楽しい人と一緒になりたいだけなのだ。  実を言うと、忠告してくれるのはリラだけではない。 「あんた、いいの? こんないい話二度とないわよ?」 「下手に断って偏屈だと思われるのも、大変だぞ」  両親である。 「考える時間がほしい」だの「まだ決心できなくて」とのらりくらりとかわしているが、それもいつまで続けられるだろう。 「どうすれば納得するんだか。兄貴に会わせたのがいけなかったのかね」  今日の朝方、両親がそんな風に話しているのを聞いてしまったのである。  もういっそ、家を出てしまおうかしら?  そんなことはできるならもうしている。後ろ盾も確たる目標もない田舎の小娘が、何も考えずにぽんと家を出てどうなると言うのだろう。  確かにあのプロポーズは家を出る絶好の機会だった。けれど、わがままなことに「きっかけがあの人なのは嫌」なのである。  結局私の気持ちなどその程度なのだ。  ノナの思考はいつもそこで終わる。  だが、今日は違った。  邪魔が入った。  車のエンジン音である。  ああ、またか、とノナは思った。どうせあの紳士がやって来たのだ。 何度も何度もしつこく言い寄ってくるから無理難題を突き付けたというのに、それはただの恋を夢見ると女の子と受け取られてしまった。  どうせまた心変わりでもしないかとやって来たに違いない。  もううんざりだ。ノナはそのままテーブルに突っ伏した。今日はもう縫物をする気もおきない。 「ごめんくださーい。柊木ノナさんのおうちってこちら?」  あれ、女性の声?   突っ伏したまま窓の方へ顔を向けると、柔らかなレモンイエローのドレスの裾が見えた。そして白いレースの日傘も。  このあたりの人間はノナの家も含めてみんな百姓だ。日焼けなんて気にしていられない。  どういう風の吹き回しだか、またしてもノナを探す都会人がやって来たらしい。  首都の新手の流行なのかしら、山の中の田舎娘の家を訪ねるのが。それとも、急にあの本が売れ始めたの?  だが、その考えはどちらも違った。  階下からやけに陽気な声が聞こえてきた。 「わたくし、ルル・ジーナという者です。更科卿の妻でございます」  さらなるめんどうごとが起こるらしい。
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