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一月が経った。
村はいつもの日常に戻っている。
すなわち、山間に住む百姓の娘を紳士は訪れず、ましてや流星が注ぐ丘でプロポーズなどする前のことである。
両親は何か危なそうな雰囲気を感じ取ったのか、夫人が来たことは誰にも話すなと言った。
あんなにしつこかった紳士が訪ねてくることももうない。夫人が何か言い含めているのかもしれないが、ノナはそれを知らない。
首都に住む紳士が山間の村娘に求婚した、なんておとぎ話のような出来事があったとはもうとても思えない。
当人のノナですら夢であったのではとすら思う。
だが、あの夫人の訪問からちょうど三週間後、一枚の手紙と招待状がノナの下に届いた。
「私との約束、忘れていないかしら?
念のためにお手紙と招待状を送ります。
ぜひいらしてね」
おそろしいことにあれは夢ではなかったらしい。
星模様の透かしが入った手紙と金文字の招待状には妙に現実感がない。
そんなわけで、首都に住む叔父を訪ねるついでに、夫人のもとへ行くことになった。
その日、ノナはリラ夫婦の車で一番近くの駅まで送ってもらった。
「ひどいことをされそうになったらすぐ逃げるのよ」
別れ際、リラはそう言った。夫人が来たこと、そして謎の文言を残していったこと、リラにだけは伝えていたのだ。
「心配しないで」
本心だった。あの夫人はなんだか食えない人だったけれど、たぶんあからさまにひどいことはしてこないだろうと確信していた。
だって、裕福で上品で明らかに上流階級育ちな彼女にとって私の価値はそこまでの価値はない。
そんなものである。
力の限り、今生の別れかのようにブンブンと手を振るリラは車窓から消えた。
汽車はあっという間に故郷を後にし、はるか遠い首都まで走り出したのである。
終点ですよ、と乗員に声をかけられて、ノナは目が覚めた。窓からの心地よい風と機関のちょうどいい振動のせいでいつのまにか眠っていたらしい。
汽車の煙がけぶってよく見えないが、外は夕焼けらしい。朝っぱらに家を出たというのに、やはり都会は遠い。
ノナは鞄を開けて必要なもの、切符に財布、それから叔父への手紙、そして招待状があることを確認してから汽車を降りた。
人混みをかき分けて駅舎の外に出ると、
「柊木ノナ様」
と書かれたプラカードを掲げた青年がいた。
「奥様からお迎えにあがるように、と」
黒のスーツのようなお仕着せを着た彼は、どうやらかの夫婦のやとわれ人らしい。
「どうぞ」と目の前に鎮座するピカピカの車の扉を開けられても、ノナはどうして良いか分からなかった。
「お乗りください」と背中に手を添えられてから、やっと乗り込めた。鞄もお持ちします、と言われたが、それはお断りした。何かを抱きしめていないと不安になってしまいそうだった。
お仕着せの青年も運転席に乗り込み、振動もつっかりもなく静かに車を発進させた。
「すぐに着きますので」
背もたれにも寄りかからず鞄をぎゅっと抱きしめていたからだろうか。移動中、運転手は一言も喋らなかった。
思ったよりも大変ことになってしまった。あの夫人にも「お断り」と言えばよかったかもしれない。
そういえば、どうして断らなかったのだろう。あの紳士からのプロポーズは簡単に足蹴にできたのに。
窓の外には、石と煉瓦で出来た建物が立ち並び、相変わらず空気は少し煙く、黄色い。
車の中はちょっぴり革の匂いがした。
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