手紙

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手紙

気持ちのいい風が、窓から入って来る。 胸の奥をくすぐる柔らかい、夜の風。 ペンを握ったまま、考えていた顔を上げ、窓を見る。 月が昇った丘の上は、薄青い夜の光に照らし出され、 今だ見た事も無い、海の底を想像させた。 きっとこれからも見る事は無い、 一人で海の底を覗いたとしても、寂しさを募らせるだけだろう…… 「わんッ」 視線を落とすと、白と黒の長い毛の犬がこちらを見上げていた。 『一人じゃない』 賢そうな黒い目がそう言っているようで、 笑い声が漏れた。 その声に犬が片耳をひょいと上げる。 もう一度、目の前の紙を見た。 手紙を書こうとしている所だった、 まだ白紙のまま。 夜が明ける前に書き上げよう。 ペン先へとインクを吸い上げらさせ、 柔らかい色の紙へと向う。 「あ」 腕が揺れ、 危うく紙を一枚無駄にするところだった。 原因は、太ももへと揃えて置かれた前足、 白と黒の毛。 小さな頭が後ろに引かれ、 注意をする間もなく犬が膝へと飛び上がって来た。 両ひざに乗せるには少々大きい。 しかしそんな事は、気にされた事が無ければ、 こちらも気にした事が無い。 ふさふさの背を抱き込むようにして、 机と自分の間に犬の場所を作る。 犬の頭に顎を寄せてみると、 形の良い頭蓋骨が愛想よく頭突きを返してきた。 「本当に、もう書かないと」 「わふ」 そうは言ったものの、中々書き出させずにいた。 少し胃が痛い。 まったく。 手を伸ばして脇へと置いてあったカップを取る。 明るい夜の部屋の中でも分かる、不思議な紫。 星が出る前の空を注ぎ込んだ色。 今だ温かいのは、 おまじない程度の魔法を仕掛けてあるから。 犬の頭の上にカップを乗せ、 お茶の香りを吸い込む。 ふわり  ふわり  ふわり 優しく甘い香り、緊張を溶かして、 気を安らげてくれる。 魔法のお茶。 体に香りが沁み込むほどに愛飲している、 これからも頼るだろう相棒のお茶。 一口飲んで、二口呑んで、そこで犬が振り返る。 『手紙は?』 「うん」 カップを置き、もう一度ペンを握る。 色々な事を思い出し、なんだか……。 さぁ。手紙を書こう。 夜風が窓から舞い込み、口笛を吹く。 月が夜を動かし始める。 星が町を眺めてる。 ペンが動き出した。 手紙が生まれるまであと少し。 犬は飽きはじめて、どうやって膝の上に収まったまま眠れるか、考えている。
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