子ども老人

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子ども老人

青い匂いがゆっくりと肺の中に染みこんでくる。懐かしい匂いだ。大きく息を吸い込むと、顔に冷たい感触を覚えた。 うっすら目を開けると、視界いっぱいに無数の星が見えた。大きさも強さもばらばらなきらめきが見えた。 あの日のライブを思い出して、もう手の届かない懐かしさに鼻の奥がつんとした。でもそれ以上に深く心地よい眠りがぼくを引きずり、静かに目を閉じた。 おかしい。はたと気づいて、目をこじ開けた。 さっき見たと思った星空はなく、世界はうすぼんやりとミルクがかった灰色に染まっていて、自分が今どこにいるのか、すぐにはわからなかった。 どうやらうつぶせになって寝ていたらしい。 わずかに体を起こすと、ぼくを受け止めていた草のしとねから、むわっと草いきれが立ち昇った。それを胸いっぱいに吸い込むと、薄荷のように体の隅々に染み通っていく気がした。 それは、もうずっと微熱を持ち続けてきた体や頭や、そして心や、ぼくを構成するすべての日々を優しくクールダウンさせてくれるようで、気持ちよかった。 そのまま仰向けに転がった。 視界は見通しもきかなければ、空も風もない。 ただむせるほどの青い匂いの中で、時間さえも動かないようだった。 ゆっくり息を吐き出した。ずっと固く強張っていた細胞の一つ一つが急に訪れた自由に戸惑いながらも解かれていくような解放感が全身に満ちていく。 小さな頃、空き家の隣の野原に仰向けになっていた記憶がよみがえった。 両腕を頭の上に思い切り伸ばした。 「ここが天国……んなわけないか。行けるとしてもせいぜい地獄か」 ひとりごちて、しばらく目を瞑った。 きっと、大騒ぎになっている。 なにせ、秋に発売するアルバムのレコーディングがスタートしたばかりだったし、関連する撮影も取材も、もちろんツアーライブも決まっていて、ドラマの撮影も終わっていなかった。舞台の話もきていたし、少なくともスケジュールは半年先まで埋まっていたはずだ。 「泣いてるかな」 すぐ泣きそうな顔をする新人マネージャーの顔が浮かんだ。それから、そのマネージャーの尻を叩くチーフマネージャーの厳しい顔も。いつだって会うたびに「元気か」と開口一番に大声で笑いながら聞いてくる事務所の社長。たまに事務所で一緒になる芸能界での先輩や後輩。たくさんの顔が眼裏に浮かんではあぶくのように消えた。 深く息を吐いた。 それから、ごめん、と、ありがとう、と。 そう伝えたかった役者仲間の優弥。単なるバンドのボーカルでしかなかった自分を、役者の道に引っ張り込んでくれた。一緒に飲めばたいてい音楽論はもちろんん、演劇論や演技論にまで発展して、夜通し語り明かしても飽きなかった親友。 そしてもう1人。もう10年以上もともに音楽をやってきたバンド仲間のタク。ぼくが音楽で生きることを意識するようになった、まるで家族のように近い存在の同志。 でも全部がもう遠かった。もう、何も煩わされることもない。がんばり続ける必要はない。 誰も、ここにいるぼくに、関係することはできない。
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