前編

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前編

 女は息を切らしながら走る。  低いヒールが叩き出す足音が、陽の落ちた街路に響き渡り、後ろへ後ろへと消えていく。  女は「斉藤」という表札の掲げられた家の前で急ブレーキをかけると、 一直線に門扉を通り抜け、玄関の扉を乱暴に開け放った。  「はあ……はあ……、ごめん、お母さん、今帰り」  今年で32歳になる女の身体には過酷過ぎる全力疾走。息も絶え絶えな女の前に、「お母さん」と呼ばれた老婆がのっそり現れると、指で「4」の数字を作りながら女に語りかけた。  「40分、40分の遅刻だよ」  「ごめん、タイムカード押そうとしたら、急なミーティングにつき合わされちゃって」  呼吸が整ってくるにつれ、家の奥からは懐かしい煮物の匂いが漂ってくる。 女は玄関の床にバックを投げ出し、ため息と共に低い天井を仰いだ。 「ああ、かなちゃん、もうご飯済ませちゃった?」  「こんな時間まで飲まず食わずじゃ可哀想だからね。ほら、あんたも上がって食べていきな。どうせこんな時間からじゃ、ロクなもんしか作れないだろ」 「……ほんと、ごめん」
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