不登校児

1/1
90人が本棚に入れています
本棚に追加
/37ページ

不登校児

朝が来た。昨晩の生来とのやり取りを思い出しながらも、あの妙な気持ちを隅っこに押しやるべく、ヒルサイド産婦人科を足早に通りすぎた。空気は春めいて心地よく、徒歩で通勤できる幸せを噛みしめた。菅野はテレビでしか通勤ラッシュというのを見たことがないが、自分があの中でぎゅうぎゅうになる姿は想像しただけでくたびれてしまう。 生徒達より、1時間程前に出勤し、本日の流れを確認する。ぞくぞくと他の教師も出勤し、堀口先生の姿もあった。堀口は菅野を見ると軽く会釈し、その姿に「やっぱり、堀口先生を可愛いと思う気持ちの方がノーマルだな。」と自分自身を納得させた。 定刻になり、朝の会を開くため賢治は三年一組の教室へと入った。生徒達はおしゃべりしている者、自習する者、まだ、眠いのか寝てる者もいた。 「はい。おはようございます。」 菅野は大きな声で生徒達の意識をこちらに向けた。「よし、みんな、元気そうだな」と一人一人の顔を見た後、生来の席に目をやるが、席は主なき状態で空席となっていた。「また、昼休みに電話してみよう。」と菅野は思った。 昼休みになり、生徒達の声で教室や廊下はガヤガヤと賑わっていた。学院にはカフェテリアがあるので、大半の生徒ははそこへ向かった。菅野は教壇の上を片付け、ちょうど、職員室に向かおうとしていたその時、 「生来が来た!」 の声を耳にした。菅野は声の方に目を向けると、数人の女子に背中を押され、腕を引っ張られ、まだ、教室に居た菅野の前に連行される生来の姿。 昨晩、初対面が暗闇の中だったが、今は外からさす太陽の光が生来を照らし、はっきりとその容姿が見てとれた。真っ白な肌と栗色のウェーブの髪。あの時は目の色までは分からなかったが、日本人にしては色素の薄いブラウン。菅野はまたしても、目を奪われてしまった。そんな自分に気づかれぬように、「ここは、大人らしい振る舞いで応対しようじゃないか。」と思ったのだが。 「おっお!せ、生来!昨日の夜も会ったな!ミーコ、元気か?」 どうも、菅野はこの美しい生徒を前にすると、恥ずかしくなってしまうようだ。美しいもの、洗練されたものなど無縁な人生だと思ってたし、都会的なものや、異国な感じも苦手だ。自分の容姿からしたって、一見、海の男。ゴツゴツした体格と浅黒い肌。実に男らしいと言えばそうかもしれないが、洗練とはほど遠く、無骨という言葉が合うのではないかと自分では、そう思っていた。 女子達は生来の登校がよほど嬉しいのだろう。この超絶イケメンを新担任に見せつけたい様子で、ニコニコしながら、菅野の前に生来を押し出していた。 「なんだ~。先生と生来って、もう、知り合いなの?」 女子達の一人、二宮透子が驚いた口調で言った。昨晩の件をどのように伝えればいいのか困ってしまう菅野ではあったが、 「もう、知り合いだよな?生来?」 と先程の、恥じらいを隠しつつも、ゆとりの笑みで返した。 「まぁ、そういうことだ。とりあえず、俺、腹減ったから、カフェテリアでも行くわ。」 と生来は涼しげな表情で、その場を離れると、女子達はかいがいしく王子の世話をやく女官のように、一同、生来を追いかけカフェテリアに行ってしまった。あんまり、生来が、そっけないので、昨日の夜がなんだか、夢のように思えた菅野であった。 カフェテリアでは、生来は毎度のこと、聖学院スペシャルカレーうどんを食べていた。このうどんを食べたいがために、学校に来ている節もある。 「菅野先生って、よく見ると、カッコいいよね。」 「男のスーツってさ、カッコよさ倍にするよね。」 「ってか、どこで、大、菅野先生と知り合ったの?!」 と、うどんを食べている生来のテーブルで同席している女子軍団の中の一人、二宮が身を乗り出して、なれそめを聞いてきた。 「えっ、知り合いなの?!生来?」 と近くに居た男子達も興味津々であった。 うどんのスープを最後まで美味しそうに飲み干し、生来が 「ごちそうさまでした!」 と手を合わせちょこんと頭を下げた後に、一言 「俺ん家の数軒先に住んでるんだよ。」 「へぇ~」 と一同。 「家に遊びに行ってみた~い。」 と口々に女子達。 そう、聖学院は私立なので、教師が離任して、他校に移動になることがめったにない。それ故、もう、何年も同じメンツの教師しかいない。そのためか、二十七才で、割かしカッコいい部類の菅野は女子の格好の的なのだ。 二宮の隣でニコニコしながら、ランチのフルーツサンドを頬張りながら、本間真理が口を開いた。 「菅野先生って、生来のお兄ちゃんに似てるよね?私、初めて見た時にそう思ったんだよね。」 みんな、生来の兄が海で亡くなったことは知っているので、その話に触れていいものか困ってしまった。 生来が五年生の時に亡くなった兄。あれから、八年が過ぎ、生来はもう、兄の年を越した。生来はその場の気まずい空気に居ずらさを感じたため、立ち上がり 「目は菅野の方がタレ目だな。」 とぼそっと言うと、次の授業を受けるべく、その場を去った。 夕暮れ時、オレンジ色が学院を染める。部活動や委員会で残っている生徒、下校していく生徒。菅野は職員室からその姿を見ていた。ふと「生来は帰ったのかな。」と思った。学院に来たり、来なかったりの生徒は担任としても、心配である。生来が何故、そうなのか?の理由も知りたいと思った。 震災前に岩手で教師をしていた時に不登校の男子生徒がいた。父子家庭で母親は出て行ったっきり。菅野はどうにかその生徒に寄り添いたいと尽力をつくした過去があった。 休みの日に車でドライブに連れて行ったこともあった。菅野の実家で一緒に晩御飯を食べたり、祭りにも行った。それらが効したのか、徐々にその生徒は心を開き、学校へ来始めたのだった。 生徒の父親は漁港に勤め、朝は早く仕事に出掛るため、残された生徒はたまに、寝坊をすることもあったが、菅野が職員室から電話をすれば、慌てながら、支度をし、学校へはなんとか遅れながらも、来ていた。 しかし、三月十一日のあの日。 男子生徒は教室に現れることはなかった。 菅野は、いつもの、寝坊と思い、朝から電話を何度もかけてはいたのだが、一向に出ない。後に、父親に聞いたが、生徒は夜から高熱で寝込んでいたらしいのだった。 あの日、午後二時四十六分。三陸地方を大津波が襲った。生徒は波にのまれた。菅野は、あの日、電話にでなかった男子生徒の異変に気がついてれば、助けられた命だったと悔やんでも悔やみきれなかった。自分が教師を続ける意味すらみえず、辞職を決めた。 そんな生活が一年すぎ、生徒の父親と工事現場近くの弁当屋で偶然に会った。菅野が教職を退いたことを風の便りに聞いていたと言っていた。小さな田舎だ。人の噂は早い。父親は息子の供養のためにも菅野に教員に戻るようにすすめた。 沢山の犠牲を目の当たりにして、幸せになる権利は自分にはもうないかもしれない。けれど、与えられた命で生きぬく権利はまだ、この手にあるような気がした。菅野は夕暮れに染まる生徒達を見て、あの日のことを思い出していた。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!