理由(わけ)

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理由(わけ)

土曜日の朝、菅野が引っ越して来てから、初めての掃除当番が回ってきた。ゴミ収集車が走り去ったのを確認してから、当番用の箒とばけつセットを持ってゴミ置き場へ向かった。すずめがチュンチュン鳴いている。海からの風が心地よい。新緑の五月はもうそこだ。菅野は、ゴミ置き場の辺りを掃いていた。 「おはようございます。菅野先生ですか?」 菅野は声の方に頭を上げた。上品な佇まいのマダムが柔らかな笑みをたたえ、菅野をみていた。 「はい。そうですが。」 と掃除中だった手を止め、背筋を伸ばして、答えた。マダムは小さく会釈をし 「初めまして。生来大の母でございます。」 と言った。菅野は生来の名前を予期せず聞き、慌てて会釈をした。 「初めまして。大さんの担任の菅野賢治です。この間、美味しいお肉のお料理ごちそうさまでした。」 なかなか、馴染みのない料理だったので、スペアリブの料理名がでてこない。 「こちらこそ、大がお世話になっております。」 生来の母は少しためらいながらも話を続けた。 「大、近頃、学校を休むことなく通えています。あまり、家庭で話す子ではないのですが、雰囲気が柔らかくなったと申しますか。表情が豊かになったと申しますか。息子は中学から不登校気味でしたので、私も心配しまして、本で勉強したり、カウンセラーの方にお話を聞いて頂いたりしていて。」 大の母はいろんな思いが巡っているのか、少し涙目になっていた。菅野も胸が痛くなった。 「いきなりお会いして、べらべらとすみません。その、家庭の責任だと思うんです。大がこうなってしまったのは。不登校にはいろいろ原因があるらしいのですが、大事なのは家庭でも、学校でも、子どもが安心できる居場所があることらしいのです。それが、大にとっては菅野先生の存在がその場所になっているのではないかと思っておりますの。」 一生懸命、伝えようとする大の母の姿から、長いこと辛い時期があったことが伺いしれた。菅野は何があったのか知りたかった。ただ、今、ここで聞くことははばかれた。 「生来さんは、優しい子です。僕にできることあれば、やっていきたいと思います。」 と伝えた。 「ありがとうございます。」 と大の母は深々と頭を下げた。 掃除を終え、家に戻り、洗濯機を回す。縁側に座り、コーヒーを飲む。菅野は今朝のことを思い出していた。「あの雲をも掴むようにひょうひょうとした生来に何があったのだろう。」海は穏やかだった、遠くで波が立ってた。 休みはあっという間に過ぎる。平日はコンビニ弁当ばかりなので、休日は自転車で隣り町のスーパーに行く。帰って、昼飯を食べ、掃除や、仕事、少しうたたねをして目がさめたら外は夕暮れだった。りんりんりん、黒電話サウンドの携帯の着信音が鳴る。実家からだ。 「はい。もしもし。」 菅野の両親と姉夫婦と甥っ子、姪っこは岩手で同居している。姉夫婦のあらたな家が完成したのがつい最近だ。 それまでは、仮設で別々の棟で暮らしていた。四角い箱のような物置の様な建物。津波に流され、住む家を失った者達にとって、プライバシーが確保されているそこは、個々の生活が段ボールで仕切られた体育館より遥かに良かった。 震災後、徐々に仮設が建てられた。流された家が多く、仮設は近所の公園内にも建てられていた。一年、二年経ち、徐々に新居を建て、仮設からでていく世帯が増えた。 菅野は両親と仮設で暮らすことはなく、工事現場が提供している二階建てのアパートのような仮設に住み暮らしていた。ようやく、姉夫婦が家を建てたので、両親はそこへ移ったのだった。 「もしもし。賢治、元気にしてるの?さっぱり、あんた、電話さ、しないから。」 少し話さないでいると母のなまりが気になった。 「大丈夫だよ。元気にしてるよ。正月にはそっちに帰るから。」 その頃には帰省して、お墓参りをしたいと思っていた。結局、波に流されて見つからなかったあの男子生徒の供養もしたかった。 ブーブー  家の呼び鈴が鳴った。 「あれ、誰かきた。」 菅野は 「は~い!」 と返事をして、電話口の母に早口で伝えた。 「ちょっと、誰か来たみたいだから。また、連絡する。」 と電話を切ろうとした。 「賢治、彼女か~」 母の電話を切り、玄関にでる。引き戸を開けると、そこには何やら美味しい香りをさせた生来。 「今日はカレー持ってきた。」 赤いホーロ鍋を無造作に差し出してきた。 「はい。」 「いつも、悪いな。そういえば、今朝、お母さんに会ったぞ。」 菅野は鍋を受け取りながら言った。何も言わずに、視線をはずしている生来をみて、少し心配になった菅野は 「良かったら、カレー、一緒に食べようぜ」 と誘ってみたのだった。 二人でカレーを食べ、テレビを観て、なんてことない話をして、のんびり過ごしていると徐々に、生来は菅野の部屋でリラックスしてきた。生活に必要最低限な物しかない、さっぱりとした部屋。どこか懐かしい様な純和風の部屋。縁側から漂う海の香り。 「なんか、この家落ち着く。俺、毎日、ここで飯食いたいわ。やすらぐ。」 長い足をぱたぱたさせて、生来は楽しそうに言い、菅野は自分に心を開きつつある、そんな無邪気な生来の姿を見て心から嬉しかった。 「俺の兄貴ってさ、中学二年で亡くなったんだ。海で巣潜りしてて。多分、海の魔力に捕まったんだと思う。よく、話してくれたから、海の中にいると、地球と一つになるみたいなんだって。」 菅野は生来の不登校の原因に触れた気がした。 「俺、兄貴と同じ年齢になった時から、学校に行けなくなったんだ・・・もし、兄貴が生きてたら、どうしてただろうか?とか、そんな思考に縛られてた。自分ってつくづく、弱いなて思うわ。」 生来の目はシルバーグレーの月を映す海を見ていた。遠くでさざ波が静かに揺れていた。菅野は何か言葉をかけてあげたいと思い、生来の告白の意味を考えていた。 「あのさ、俺が思うに、お前が学校に来てなかった時って、きっと、自分自身と向き合っていた時なんじゃないかなと思うんだ。だから、弱いとか思わないよ。むしろ、一人で考え続けてたお前のこと、格好いいなと思うけどな。」 生来の肩が少し震えたのを見て、その後、妙な空気の中、お互いだまってしまったのだか… 「あっ!トビウオ!」 と生来が突然言い、二人でとっさに縁側にでて海を見た。 トビウオはもう、海の中に飛んで行ってしまったが、ちりばめらた月光を波が抱いていた。 しばらく、二人で夕涼みをしてから、生来はごきげんな様子で、菅野の家を後にした。
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