5人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
今度こそ別れてやる。
私は彼と別れる決意を固めた。
彼とは付き合いはじめてもう二年目になる。一週間前がちょうど記念の日だったのだが、彼は仕事がどうとかで来なかった。
これはもしかしたら、もしかするかもしれない。
そう、女だ。他の女の気配がする。同じ女の私には分かるのだ。
これは絶好の機会だ。相手が悪いという形でケンカ別れをすれば、すっきり跡形もなく縁が切れる。
シナリオはこうだ。まず、私が決定的な証拠を突き付ける──
"ちょっとあなた! これどういうこと?"
"ち、ちがうんだ。浮気だなんてそんな……"
"じゃあこのシャツに着いた口紅はなんだっていうのよ! それに女物の香水まで!"
"ぎくっ!"
"ほら見なさい。やっぱり他に女がいたのね"
"君にはもううんざりなんだよっ!"
"あら逆ギレ!? むきーっ!!"
というようなかんじで。我ながら想像力の乏しいこと。それに、シャツに口紅はベタすぎるか。そんなに分かりやすい証拠は見つからないだろうな。
そうこう計画を練っているうちに、部屋の扉がガラガラと音をたてた。彼だ。
「どうだった?」
「うん、また移動したんだって」
「……そうか」
「ところで、何を持ってるの?」
彼は手提げの着いた籠を持って、私の寝てるベッドに腰かけた。白い布で中身は隠されているけど、もしかして、フルーツバスケットだろうか。
期待でワクワクしているだろう私の顔を見ながら、彼はニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「じゃっじゃーん!」
やや大袈裟に、白い布をめくるとパアッと華やかな色が目に飛び込んできた。私はつい、わぁっと声をあげる。
中に潜ませていたのは、目にも涼しいフルーツゼリーだった。窓から差し込む日の光を虹色に反射させる透き通ったゼリーの中に、コロコロと宙に浮かぶ可愛らしいフルーツ。ブドウみかんマスカットももイチゴ。色とりどりの寒天が入っているものもあった。
見ているだけでも楽しいくらいに、食べるのがもったいない鮮やかさだ。今鏡を覗いたらきっと、目をキラキラさせた私が映っているだろう。
「気に入ったようでなにより」
彼は大成功とでも言うように、得意げに、ふふんと鼻をならした。悔しいけれど大成功そのとおりだ。
私がありがとうと言うと、彼は少し照れながら、籠から小皿を二枚取り出した。そして、ゼリーをひっくり返し、つるんと中身を上に乗っける。ぷるぷる揺れるゼリーのおしりに、ほぅっとため息が出た。
ついに、待ちに待ったゼリーが私の目の前、鼻先数センチに差し出されたそのとき、かわいらしいフルーツに似つかわしくないバラの香りが鼻をついた。彼の袖から、微かに。
「はは、寄り目になってる」
彼が笑った。
先程まで思い描いていたシナリオがバッと頭を駆け巡る。そうだ、彼の浮気を咎める形で別れようと決めていたのだった。
私はフルーツゼリーを手に取った。なかなか食べ始めない私に、彼が体調を気にかけるような言葉をくれて、私は大丈夫だと返した。
想像していたよりずっと、嫌な気分だった。
彼が他の誰かと触れあっている映像が浮かぶ。やっぱり、私じゃない他の女性と一緒になりたいのだろうか。私じゃない他の誰かを、好きになってしまったのだろうか。
私はゼリーを一口食べた。不思議と味がしなかった。
「顔色が悪いよ、昭子。やっぱり休んだ方がいいんじゃ……」
「ううん、大丈夫だから」
いや、チャンスじゃないか。相手も別れたいというのなら尚更、都合がいい。円満に別れることだってできる。いや、縁が切れた方がいいんだったっけ。いや、しかしわざわざ余計な軋轢を生まなくても、いや……、いや。
「……秀壱くん」
「ん?」
「なんだか、バラみたいな、匂いがするんだけど」
少しだけ、でも私にとってはずっと長い沈黙が続いた。
「ああ、バレちゃったか」
彼の顔を見れないかわりに、重たい声音はしっかりと聞きとれた。視線が合わないように、私はジッとゼリーを見つめる。音をたててベッドが揺れて、彼が立ち上がるのがわかった。そしてそのまま彼は部屋を出ていってしまった。
まさか、これで終わり?
何の説明もなしに、これで終わらせてしまうの?
涙が溢れそうになって、堪えるように上を向くと、再び病室の扉がガラガラッと開いた。
そこには大輪のバラを抱えた彼が立っていた。
「た、誕生日おめでとう!!」
彼はズンズンと大股で、ギクシャクしながら私の方へ近づいて、耳まで真っ赤に染めながら花束を差し出した。
驚いて声も出ない私に彼は続ける。
「本当は記念日に渡そうと思ってたんだけど、仕事がなかなか抜けられなくて、それで、一週間後の誕生日に渡そうと思って……やっぱ寒い?」
彼は恥ずかしさを誤魔化すように照れ笑いながら、目を泳がせた。
「秀壱くん、わたし……」
「うん?」
「誕生日、あした」
私は堪えられなくなって大きな声をあげて笑った。彼の悲鳴と同じくらい大声をあげたから、看護師さんに叱られてしまった。事情を聞いたら看護師さんも一緒に笑ってくれたけれど。
改めて口にしたゼリーは、口の中いっぱいに夏らしさを届けてくれた。見た目通り甘くて冷たくて、爽やかな味がした。
ああ、今日も別れられなかった。手強いやつめ。
私はベッドの脇のテーブルに百本のバラを飾った。
最初のコメントを投稿しよう!