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 通い始めて吉見氏初めての不在、土曜午後二時二十分。玄関にて陽は立ち尽くしている。そういえば電話番号もラインも知らない。  どうしようかな、と視線をベルから左下に移すと、顎の高さの擦りガラスにポストカードが貼ってあった。吹き出しのポストイットで『外出しています』の文字。  『KITANOギャラリー選抜作家展』  催し物のラインナップに目を通すと今日の日付で吉見弘貴サイン会とある。  そう言えば先週そんなようなことを説明していたような気がする。  それよりも、貼り付けてあるポストカードをぴっと引っ張って考えた。  もしかして陽の目線の位置を予測して貼り付けたんだろうか、そうだとすると下すぎる。どんだけ低い背だと思ってんだ、と一言文句を言いたくなって記載されている住所をマップアプリに放り込んだ。  開催場所は主要の駅に立つショッピングビルの十階特設会場で、エレベーターを降りるともう結構人が入り混じっていた。  行列の先に着席する吉見を見つけ、本当に有名人だったのかと改めて驚嘆する。列に並ぶのは割合い女性が多めだが、年齢層は幅広い。みんな手には画集を携えていた。  こんな大勢の前でまさかまたくたびれたニットじゃないだろうな、と吉見を二度見すると、今日は流石にちゃんと小ぎれいなシャツに袖を通していてホッとした。いやいやなぜホッとする、場違いな格好で辱しめに合えばいいじゃないか。  吉見はちょっと緊張した面持ちでサインを書き、時には差し入れを渡され大げさに恐縮したりしながら、それでもいつもの物腰柔らかな笑顔で対応していた。  しかし待っていても文句が言える状況ではなさそうなので入り口のパンフレットを一枚頂戴して、列を避けるように展示された作品を見学することにする。  やはり展示会メインは吉見なのか、もう見慣れた色彩の絵が全体の四割ほどを占めている。  明るい光に包まれた動物たちを過ぎると、ある一つの作品の前で、足が止まった。 「あ、これ…」  目を閉じた女が正面にただ存在する。  上向きの鼻がちょんと小さく唇は厚みがあって、国籍を特定できないエキゾチックな女の髪は、赤みがかる全体に混じりあって、背景と同化している。遠くから見ると顔の輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる仕組みだった。  動物モチーフでもなく、色使いも筆のタッチも全く違うのに、なぜか強く吉見の作風を思わせた。一般的な絵画の知識は少しもないが、この一ヶ月ずっと後ろから吉見の製作する作品を見続けたおかげで、偏ったアンテナが一本陽の中でピンと峙った。  陽は右下のローマ字をすぐ読んでパンフレットに記載されている作家の名前を探す。  アカリ、アカリ…あった、斎藤明理。  プロフィールの出身大学を見て確信する。これが吉見の、九年付き合っている彼女だ。まさか、吉見と同じ画家だったとは。続いて携帯で人物画像を検索しようとしたその時、吉見が座るテーブルの方がざわざわしている。  覗き込むと、どうやらカラーマーカーのインクが出なくなったと推測される。じゃあある色で描きゃいいじゃん、とつい迫り上がるつぶやきは他店ではライムの切り方まで指定してしまう陽であるから、さすがに野暮だと飲み込む。横付きしていたスタッフが奥に引っ込み戻ってきたかと思うと、女を一人連れて出てきた。  その両手にはいっぱいのカラーマーカーが握られていて、小走りで吉見に近づくと、テーブルの上にそれらを置いた。陽は検索途中だった携帯の画面と女を見比べる。同一人物だった。  吉見と二人でお辞儀をし合うが、他人行儀の中にも親密さがしっかり混和していた。授業参観に二人揃って出向く、友達のお父さんとお母さんのような。  女はテーブルに置かれていた荷物を抱え、裏口に向かう。  その時腕の中から一つ、プレゼントがぽとっと床に落ちた。陽がそれをさっと拾う。 「落ちましたよ」 「ああっ! すみません、ありがとうございます」  振り返る女。 「もしかして、斎藤明理さんですか?」 「あ、そ、そうです!」  女はピンと背筋を伸ばした。ビンゴ。 「私のことをご存知なのでしょうか? すみません、私記憶力があまりよくなくて…」  言いながら明理は慌ててお辞儀した。身長は一五五センチほどしかなくワンピースを脱がせて制服と交換したら高校生どころか中学生にも見えそうだ。  陽は髪の短い女がもれなく嫌いだった。加えて化粧っ気のない女も。  ジェンダー社会の厳しい状況下に置かれながら外見レースを放棄したやつを陽は女とみなさない。  仮に陽が性別女として生まれていたら堂々と身体のラインに沿う服を常に着用して、ストレートロングの髪を香水の香りでなびかせながら、まつげの先端までバシバシさせるだろう。 「いえ、以前お会いしたことはないですよ。私、単なる吉見さんと最近知り合いになったものでして」  友人とは言いづらかった。 「ああ、ひろくんの! それはそれは、お世話になります」  口調も鈍臭そうな仕草に似合った舌っ足らずで、勢いよく頭からふんずけたらもしかして2Dになるかもしれない。もしくは実は妖精で、陽だけにしか見えてないと打ち明けられても今なら信じれそうだ。 「初めまして。吉見さんご本人がいないのに、勝手に話しかけてすみません。斎藤さんもお忙しいでしょうに」 「いえいえ、とんでもないです、ありがとうございます。私も今日は閉店後の撤退作業があるだけなので、最後に様子を伺いに来ていただけでして」 「吉見さん、すごい人気なんですね」 「はい、こうやって見るとまだまだ追いつけてないなあって気づいちゃいますね。もっともっと描いて、私もひろくんみたいになりたい。見習わねばです」  その口調に嫉妬は微塵も混じっていなかった。  彼氏の活動を心から尊敬するできた彼女と受けとれた。 「だから邪魔しないように、あまり会わないようにしているんですか?」 「それもありますけど、私が絵で十分食べて行けるようになったら結婚しようね、って約束しているんです。願掛けみたいなものかな。それまでは甘えちゃわないよう、会うのをセーブしてて」  頭から石を落とされたような衝撃だった。  吉見は釣った魚に餌をやらなかったんでもないがしろにして会わなかったんでもない。明理の画家としての成功を願って、尊重しているのだ。そしてそれが無事かなったときに成就する二人に交わされた、固い約束。 「それでは私は、失礼しますね」 「あ、わざわざお越しくださいまして、ありがとうございました」  丁寧に、深く頭を下げられた。かろうじて返事はしたものの、陽は目を合わせられずそのまま会場を去った。  明理との接触にとてつもなく後悔しながら。
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