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 閉店作業を済ませたら男と連れ立って店を出た。  いつのまにか雨が降っていたようで、地面が濡れている。頬を撫でる冷たい北風に首をすぼめ、男の影に隠れたその時、街灯の下に見知った影を見つける。 「陽さん」  吉見が立っていた。陽は勤めて無表情でいながら、内心びっくりした。 「ん、知り合い?」 「いえ…」  歯切れ悪く陽は男に返した。ちょっと見られたくない場面に遭遇してしまったのも気まずくて吉見を避けて通り過ぎようとした。陽の腕を吉見は捕まえる。 「待ってください」  言葉の節に憤りの色が見えてまた驚く。ちゃんと怒ることもできるのか。何を言っても意に介さず受け流すか笑っていたのに。 「何か用?」 「自分を粗末にするのは良くないです」  言い切る口調に静かに苛立つ。 「どういう意味?」 「その人は、陽さんのラインを超えられる人ですか?」  疑問形でありながら、違うのだと諭す口調だった。今度は本気で苛立つ。 「って、なんでもう決まったことになってんの? わかんないじゃん」 「そういう風に僕には見えます」 「うるさいな、ほっといてよ」  埒が明かないと思ったのか吉見が、今度は男に向き直す。 「すみませんが、今日はお引き取り願います」  陽の腕を引いたら後ろに隠すようにして、吉見は男の前に立つ。 「なんだ、痴話喧嘩かよ」  男は天を仰いで両手を上げると、一人で暗闇に紛れていった。 「は? マジで信じらんない」  呆然とその姿を見送ってから、陽は吐き捨てた。 「なんでそんな勝手なことすんの?」 「すみません」  振り返るとさっきまでの気迫はもうない。 「謝れなんて言ってねえよ。なんでだって聞いてんだよ!」  叫んだ後で、爆発した感情を自分で受け止めきれず陽は咄嗟にうずくまった。続いて襲ってきた激しい虚無感に身体が消滅しそうになった。 「サイン会の後で、明理からすごく綺麗な男の人がいたって言われて、陽さんだと思いました。でもそれからパタリと家には来てくれなくなってしまったので、何でか理由を伺いに来たんです」 「外で、わざわざ待ち伏せなんてしてな」  自分は強いはずだ、自分は強いはずだ。 「お仕事の邪魔をしてはいけないと思ったので。そしたら顔に…助けて悲しいって、書いてあって。どうにかしなきゃと思って…すみませんでした」  吉見は頭を下げた。 「うっせーな、書いて、ねーよ…」  しばらくその頭を見ながら、気づいたら口に出していた。 「俺は、寂しくなんか、ない…」  嘘だ。  とてつもなく寂しくて悲しかった。許されるなら欲しいおもちゃを与えられない子供みたいに地面に転がって、わんわん泣き叫びたかった。いつから?   多分もうずっと前からだ。  閉じていた蓋が吉見と会ってからいつのまにか開いてしまったていたのだ。  寂しい、寂しい。誰かそばにいて。  ただただ不快な感情がどっと溢れて、振り切るように吉見を睨みつけた。 「あんたさあ、初めて会った日に俺が迫ったからってなんか勘違いして思い上がってない?」  こんなとこを見られてしまったら今後もう二度と会うこともないだろう。陽は最後の覚悟で吐き捨てた。 「別にさあ、あんたのこと好きとかどうとか一切思ってないから。さっきの男と一緒で、とりあえずやれればよかったんだよ。しかも有名な作家先生だっつってちやほやされていい気になってて、ムカつくし。俺にとって最初っから吉見さんなんて都合よかっただけ」  吉見は少し下唇を噛んだ。その表情が、いつもの笑顔と違うだけで気分がいくらか良くなったので、本当に自分性格悪いんだな、と陽は自嘲を込めて笑う。 「それくらい、知ってましたよ」  吉見はそれでも動じない。 「だからこそ、うちにきて、陽さんがリラックスした様子を見れて安心してました」 「は。安心? セラピー気取ってんじゃねえ。半端な同情なんかいらねえんだよ。なあ、可愛そうって思うんだったら家なんか解放してないで今すぐ俺のこと慰めてよ」 「それは…彼らと同じことは僕にはできません」  一度断られているし答えは予想できたから別に今更プライドは傷つかなかった。 「ほら、無理だよね? だったら半端に俺のことなんか構うな」  まだ乾かない地面のせいでじんわり膝が濡れて、もう何もかもがどうでも良くなる。 「吉見さんはいいよね。大切な彼女がいて、仕事も成功してて幸せな毎日で。そうやってさ、あんたがそのうち結婚して家族増やして、温かな家庭でガキが成長するのを見守って、よぼよぼになって病院のベッドで家族に囲まれていい人生だったなって思い返してる時も俺はずーっとずーっと一人だよ」  乾いた笑いがこみ上げた。言葉にしたら、もう前世で一回経験したかのように、鮮明にその自分を想像できた。この先、十年も二十年もそうやって生きていくのを自分自身が誰よりもわかっていた。  会った時から才も富も手に入れて、その上少しも奢ることなく優しく接してくれる吉見のことが憎かった。同時に、その暖かさに少しでも触れたいとすがっていた。窓から家の灯りを眺めるマッチ売りみたいに。一生自分が経験できないであろう歓びを有り余るほど両手に持ち合わせたこの男に。  握りしめた手のひらが、強さなのか寒さなのかとにかく痛い。  肩に恐る恐るかかる吉見の手を乱暴に振り払って、反動でついに堪えていた涙が一筋頬を伝ってしまう。 「ねえ、どうやったら俺もあんたみたいに幸せになれんの? どうやったら誰かの大切な何かになれるの? 教えてよ」  泣き崩れる醜態だけは晒したくなかったから、必死に立ち上がった。ただあと一言でも何か発したら、必死にせき止めている感情が全て溢れてしまいそうで奥歯をぎゅっと噛みしめる。 「今日はもう遅いから帰りましょう。足、濡れていますね」  陽の手を吉見は無言で取ってタクシーに乗った。  吉見との会話はなかったし、するつもりもなかった。見慣れた玄関をくぐる頃には気持ちはちょっと落ち着いていた。  なんだかひどく憔悴していて、これ以上感情を揺さぶられたくなかった。勝手知ったる家の風呂を借りソファに寝転ぶ。ただ、あのまま真っ暗で冷たい自分の部屋に帰るよりは、相手が吉見だろうと気配があるだけでだいぶんマシだった。  何か動物でも飼おうかなと思い立つが、自分に命の責任を担う母性本能が備わっているとは思えないから結局却下する。店に飾る切り花くらいでちょうど身の丈に合っている。 「陽さん、寝室使ってください」 「ここでいい」  言い放って、もうこのまま寝てしまおうと目を閉じた。しばらくして厚手の布団をかけられ、枕元に吉見が座る気配がした。ゆっくり頭を撫でられる。そうっと、何度も何度も。  その何十年ぶりかの懐かしい感覚が心地よくて、心を厚く覆っていた氷がしゅんしゅんと溶けていくような感覚がした。 「…最初に付き合ったのは中二ん時、一個上の先輩でさ。そっから女も男も沢山経験したけど、めちゃくちゃ好き、ずっと一緒にいたいって誰かに対して思ったこと、一度もないんだよね。俺、どっかおかしいのかな」 「おかしくなんかないですよ」  柔らかい口調で吉見はそう言った。 「なのに、何でかわかんないんだけど時々すっげえ寂しくなんの。背中じゅうかきむしって、誰か側にいて、お願いだから側にいてって耐えられなくなる時がある。今日みたいに」 「前に言ったでしょう。陽さんはとても寂しがりだから、人より選別のハードルが高いんです。でもその壁を越えられる人が、いつか必ず現れますよ」 「必ず?」 「必ず」  決して強くないのに、納得させてしまう口調に、少しだけまた泣きたくなった。 「それまでどう耐えりゃいんだよ、誰か適当に見繕うのは、さっきあんたに止められちゃったし」 「大丈夫です。陽さんが、ずっと一緒にいたいって感じる人に出会うまでは、僕が、そばにいますから」 「…友達として?」 「はい。たまには友達も作ってみるもんですよ」 「俺のこと、…軽蔑しないの」  あんな場面を見られてしまったし、ひどいことも吉見に向けて沢山言った。 「軽蔑なんて、するわけないじゃないですか。陽さんは、ものごとを深く考えられる自立した立派な人ですよ。…少しがさつで、口も悪いですが」 「最後、すっごい余計」  吉見はふふ、と笑みをこぼした。 「さあ、もう遅いから寝ましょう」  頭を撫でる手はやまない。そういえば今まで付き合ってきた誰にも、髪など触られたことがなかったなと思い返す。  メトロノームみたいに規則正しいリズムに陽はそのうち本当の眠りへと誘われた。
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