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 陽が家に訪問しなければ会う機会も減るだろうという予想に反して、今度は吉見が店に来店するようになった。  陽が家に行かなくなった代わりに週に二日か三日、十二時を境に店にふらっとやってくる。 「マティーニは、なぜカクテルの王様と呼ばれているんですか?」  カウンターの一番端に座っている吉見に尋ねられた。 「単純に、バーテンダーの力量で味が如実に左右されるカクテルだからでしょうね。ベースや素材を変えることでアレンジも豊富にでき、小説や映画などで多用されて知名度もありますし」  テーブルにカップルの客とカウンターに一組ずつ他の客がいるので吉見相手でも陽は敬語で答える。別に吉見を出禁にする理由もないので、忙しくなければこうして相手をする。  吉見との会話は、いったん自分の気持ちを自覚したら、肩の荷が下りて楽になったのか、幾分か穏やかに接していられた。  会話に着地点を探さないでいられるのも、陽には息の抜ける瞬間だった。  陽の行動の変化もあった。  働いている時、むやみやたらと客の品定めをしなくなった。こうして吉見がいる間はしょうもない話題でも間が持ってしまうからそんなことを考えなくても時間が過ぎていくのだ。だからなのか、衝動的に人が恋しくなる瞬間は、あれ以来まだ来ていない。  いたことがないので比較対象がないが一応今のところ、客観的に見て友達の感覚を保てているとは思う。もちろん、吉見への特別な感情を陽の中から根こそぎひっこ抜きさえすれば。 「ああ007で、有名なセリフがありますね。ウォッカマティーニ、ステアではなくシェイクでって。それしか知らないんですが」 「マティーニは通常ジンで作るので、癖のないウォッカだとまた違った味わいになります」 「そうなんですか。ではステアとシェイクではどう味が違うんですか?」  テーブルの客が揃って身支度を整えているので、視線で吉見にタイムを送るとレジに向かう。 「すみません、お会計お願いします」 「かしこまりました」  カップルを見送り、店内が吉見だけになったところでいつもの雑モードに切り替えた。 「簡単に言うと、同じカクテルでも液体をブレンドするときの冷やし方で味が変わる。シェイクだとミキサーみたいに氷ごとガツガツ振るから急速に冷えながら中身が混ざることで、まろやかな舌触りになる。でもその分水分量が多くなって水っぽい。ステアは素早くグラスの中で混ぜるだけだから、氷が溶けない分濃く飲める。でもシェイクより混ざりが甘い。だからあえてかどを楽しむ感じ」 「すごい。マティーニで飲み比べてみてもいいですか?」  吉見は、新しい知識への好奇心は貪欲だった。普段接しているとてんでアーティストっぽくないが、こういう場面ではちょっとそれらしく感じる。  ほんの一部の興味ある狭い分野以外、ほとんどどうでもいいと思って生きている陽なので余計に吉見に感心する。 「いいけど、マティーニは強いよ。三十度くらいあるけど」 「じゃあ陽さんも手伝ってください」 「なんで俺を道連れなんだよ。まあいいけど。二杯分ちゃんと請求すっかんな」 「もちろんです」  了解を得たので二つを同時に作る。  始めにシェイクをささっと振って置いて、ステアを九割完成させたら最後にシェイカーとミキシンググラスの二つを同じ造形のグラスに右手と左手で同時に注ぐ。味を比べやすいようにオリーブは別の小皿に乗せた。  吉見は「魔法みたい」と無邪気にはしゃぐ。真っ白いキャンバスからあんな繊細な色彩を生み出せる方がよっぽどすごいのに。 「わかったわかった。冷えてるうちに飲んでよ」  ふたつのグラスから液体をそれぞれ一口ずつ口に運ぶ。 「わ、ほんとに全然味が違う。確かにシェイクは柔らかい味で、ステアはキリッとしてます。すごい、プロの技ですね」 「当たり前だろ、こちとら何年やってると思ってんだ」  本当はこんな作り分けなんて初歩中の初歩だけれど、得意になって陽はふふんと鼻を鳴らす。 「何年なんですか?」 「高校卒業してしばらくしてからだから、もう八年か」 「すごい、そんなに。このお店も先代から譲り受けたって前おっしゃってましたよね。その方は今どちらに?」 「七十五のジジイだから、とっくに隠居してる。あ、でもたまに気まぐれにランチしてるな」  世代交代した当初は名残惜しいのか頻繁に昼もオープンしていたのだが最近は遭遇する機会もめっきり減り、出勤してキッチンに残り物があると『あ、やってたんだな』と思う程度だ。余りは夜の客に回すことができ、ジジイの生存確認もついでにできるからたまに気配を感じれると陽としてもありがたい。 「こちらでですか? 知らなかった」 「告知とかほとんどしなくて、たまーに気まぐれで俺がSNSに載せるるくらいだし。来るのも通りすがりのサラリーマンくらいだから、ほとんどただのボケ防止」  言い終わると陽は向かって右のグラスを持ち上げくいと中身を半分まで一気に煽った。 「陽さんは、ボンドとは違ってステアがお好きなんですね」 「マティーニはやっぱ、ガツンとしてないと。ボヤボヤしたのは全然飲んだ気になんない」 「でも僕みたいな初心者にはステアは重い分、一気に飲むと酔いそうで用心しないとですね」  言いながら、陽の飲んだ同じグラスを吉見もまた持ち上げた。かすかに自分の唇の跡が水滴の加減でわかる、その反対側に口をつける。  小さな逆三角形のグラスを、二人で共有している。  本人は全く気にしていないようだけれど、陽は顔が火照る気がした。『友達』は、こういうことも普通にやるのだろうか? いたことがないからわからない。 「ああ、聞き覚えあるからって知らずに頼んで痛い目見てる客、たまにいるよ」 「あはは、僕のことですね」 「って、もう時間過ぎてる。ちゃちゃっと締めるか」 「はい。立てかけ、クローズにしてきますね」  吉見が来店するときは、閉店までちびちび一、二杯を飲むとこうして閉店後の作業を手伝ってくれる。ゴミ出しやグラスを片付けているとなんだかんだで二時は過ぎてしまうが、いつも鍵を閉めるまで積極的に付き合ってくれた。  店の気遣いなんかせず、ぱっと飲んでぱっと帰ればいいのに。  陽もそれなりに申し訳なく思ってはいるのだけれど、大体バイトの子が休みの日だからなんだかんだで正直助かっている事情もあってなかなか断りずらい。  次の日も早くから起きて自分の仕事をするんだろうに、何の意図があるのかは謎だ。つい陽は深読みしそうになるが、きっと何の意図もないというのが正解なのだろう。そもそもあの日、あんなにひどいことを言い放った陽を叱咤するどころか家に泊め、友達になると言い、その後もこうして足しげく通う吉見のお人好し加減はもうとっくに陽の理解の範疇を超えていた。だから深く考えても仕方ないと放っておいている。 「あ、そういえば明日…てかもう今日か」  鍵を閉め、スマホの時間を確認したところで日付に気づいた。 「クリスマスイブですね」 「だな」 「お店、二十四、二十五日はやっぱり忙しいんですか?」 「そう思うだろ? ところがクリスマスはうちみたいなバーって一年で一番暇なんだよ」 「え、すごく意外です」 「パリピはクラブ、カップルはちょっと奮発したディナー食ったらさっさと家帰ってしっぽりやるんだろうな。独り身は肩身狭いから引きこもるか、こじつけて仲間で集まんなきゃいけねえし。バーの存在価値がここぞと薄れるのが実はクリスマス」 「へえ、そうだったんですか」  吉見の横で陽はロードバイクを引いて歩き大通りまで一緒に歩く。朝バタバタしていて手袋を忘れてしまったのでむき出しの手がかじかむ。袖を引っ張って指を巻き込んだ。 「まあ、どっちにしろこっちは関係なく店開けてなきゃいけないんだけど」 「わかっていながらもいなければいけないのは大変ですね」 「全然、毎年だしもう慣れたよ。吉見さんは、クリスマスくらい流石に彼女とデートだろ」 「そう、…ですね」  口ごもる吉見に興ざめする。きょうび日本国で十二月二十四日なんてカップルのためにあるのは周知の事実。今更不快にはならない。  そこで話が途切れてしまい、新しく展開する話題もなかったので、陽はサドルにまたがった。 「じゃあまたな」 「あ、ちょっと待ってください」  吉見はポケットからひと組手袋を取り出した。 「はい。使ってください」 「でもこれ、吉見さんのじゃん」 「僕なら大丈夫ですよ。自転車で帰る陽さんの方が必要でしょう」  言いながら、右手の口を大きく開いて待ち構えている。母親が風呂上がりの子供に服を着せようと待機しているようだ。  陽は戸惑いながらも、おずおずそこに自分の指先を入れた。 「今日たまたま持ってきていてよかったです」  左手にもしっかり装着された陽を見て、満足げに笑う。 「じゃあ、おやすみなさい」 「う、うん」  反対方向に別れ吉見は白い息を吐きながら、夜の街に消えていった。  終電はとっくに終わってるし、歩ける距離でもないからこれからどこかでタクシーを捕まえて帰るに違いない。  週二だとしても深夜割増のお車代は馬鹿にならないから、閉店に付き合ってくれた日はちょっとでも負担するべきか考える。でも、別に陽が頼んでるわけでもないし、と思い直す。できるだけ貸し借りを作らず、後腐れない関係でいたい。  ちょうどガラス張りの自動ドアが開いて、後ろのコンビニから有名なクリスマスソングが漏れ聴こえてくる。  ホワイトクリスマスを私は夢見てる…有名なフレーズだ。雪降るクリスマスなんて人生史上経験したことがないから、別に夢に見るほど期待もしていない。そんなの、雪国地方に住まう別の誰かのために存在する、特別な一日なんだと割り切っていられる。  可能性がないことはこうして簡単に諦められるのが常なのに、手に入れられる見込みがない吉見のことをなぜこんなに欲しがってしまうのか、不思議だった。  陽はしばらく立ち止まって、温かくなった両手をじっと見つめる。  
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