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 来てもせいぜい常連が一組二組だろうと開き直って、未読で積み上がっていた本と漫画をサブバッグにわざわざ詰め込んで持参したのに、ドアが開いたのはまさかの開店直後だった。 「いらっしゃいま…」 「こんばんは、ご無沙汰しております」  立っていたのはなんと明理だった。  陽は予想外すぎてとっさに言葉を継げず、ぎこちない会釈だけを返す。 「あの、突然驚かせてすみません。陽さん、ですよね」  ぺこっと、恐縮したお辞儀をされる。 「は、はい」 「ひろくんからお話は聞いてます。バーを経営されてるご友人だって」 「そうですか」  おそらく適切であろう表現にチクリと心に棘が刺されるのは、二人でほのぼのと会話している姿を想像してしまうから。陽の話題なんて食卓の「あ、そういえば」から始まる団欒に出して欲しくはなかった。 「あの、それで折り入って聞きたいことがあるんですけど…。もしかして、ひろくん、最近ここで誰かと待ち合わせしたり、してないですか? …女の人とかと」 「え?」  流れが読めなくて陽は首を傾げた。 「う、浮気、とか…」 「吉見さんが? してないと思いますよ」  大体夜は店にいるし、怪しい匂いは微塵も感じない。 「良かった…」  大きくホッと息を吐いて、へたり込むようにカウンターに腰を下ろした。  ああ、座るんですね。用が済んだらてっきりお帰り願えるかと思ったんですが。 「実は、最近ひろくんが大変で…」 「大変とは?」 「絵を、全然描いてないみたいんです」 「そうなんですか?」  それには流石に陽も目を見開いた。そんな素振り、店に来るようになってから一度だって見せたことはなかったし、いつもの柔らかな笑顔で他愛のない話をしたら、あとは帰るだけだった。それにちょっと前まで陽が家に行っていた頃だって、夕方に顔を覗かせるタイミングでようやく一回目の休憩を取るくらい熱心にキャンバスに向かっていた。筆を走らせる吉見の後ろ姿しか頭に浮かばない。  まさか連日の不摂生(飲酒)と夜更かししのしすぎで怠惰になった?   ありえない。 「はい。納期もぱんぱんなのに新作一個も進んでないし何より六月に個展が毎年あるんですけど、それも今年はキャンセルしたって」 「それって、結構大きいやつですよね」  吉見の年間スケジュールは大体決まっている。日本列島上から下まで順序よく開催される百貨店販売会の間に年一回の大規模個展。これを軸に、一年の活動内容が決まってくると以前話していた。画家も好き勝手やってるように見えて結構大変な客商売なんだな、と気の毒になったことを覚えている。 「そうなんです! 毎年一年かけて展示内容練って、決まった会場もお金かけてずっと抑えてるのに、今になってそんなこと…もう信じられなくて」 「スランプってやつなんですかね」  言葉にするとなんともチープな響きだった。産みの苦しみは陽にはわからない。 「スランプって、私たちには割と日常的なつきものなんですけど、ひろくんはこんなに大きいの今までなかったから本当にびっくりで」 「はあ…。いつからなんですか?」 「多分、納期が滞ってるのはサイン会の後くらいからだと思います」  というと夜に吉見に待ち伏せされたあたりだ。 「一週間前会った時ついに喧嘩っぽくなっちゃったんです。何も話してくれなかったことに私も怒って、つい強く言っちゃったのもダメだったんですけど、ひろくんから距離を置きたいって言われて」 「えっ」  吉見から拒否や否定を一度たりとも聞いたことのない陽はどんな表情で吉見が喧嘩の末そんなことを宣言したのか、想像もつかない。昨日吉見がクリスマスの予定を口ごもっていた原因を初めて知る。 「なんでって理由聞いても全然答えてくれなくて、メールも電話も返してくれなくなっちゃったしもうどうしようってパニックで…。後つけてたらここに来たから、もしかして、待ち合わせて浮気かなって」 「そんな、浮気なんか隠れてするような甲斐性あるタイプじゃないじゃないでしょうあの人。ていうか見張ってたなら女じゃなく俺と出てくるとこも目撃してたんじゃないですか」  そして何事もなく道で別れる姿も。 「そうなんですけど、ここ最近のひろくんの行動が全部わけわからなすぎて、この人はこういう人だった、って思うことも難しくなっちゃったんです。だから陽さんになんでか聞いてみようとここに来ました」 「俺もわかんないです、けど」 「けど?」 「遅れてやってきた反抗期、とか?」  思いついてはみたが、間の抜けた返しすぎて呆れる。でもちょっと明理が笑ったことで張り詰めていた空気がいくらか和らいだのでホッとする。  あの穏やかな人格が暴れる姿を重ね、似合わなさすぎる妄想をお互いしたに違いない。 「こんなこと今まで付き合ってきて、一度もなかったから、本当にびっくりでどうしたらいいかわからないんです…もしかして、このまま…」  文を完成させる前にどんどん瞳に涙が溜まっていく。泣かれるのは陽とて困るから、慌てて取りなす。 「大丈夫ですよ。ちょっと気分が落ち込む時だってきっと吉見さんもあるに決まってます。持ち直したらまた元どおりになりますよ」 「そう、だといいんですけど」 「そうです。だってお二人は、あんなにお似合いじゃないですか」  明理の必死な表情を見ていたら、つい本音が混じった。  ぎゅっと眉間にしわを寄せて、零れる涙を明理は拭った。それを見て陽は明理を羨ましく思う。自分も、不安を涙にしてこんな風に吐き出せたらいいのに。 「ありがとうございました」  明理が帰ってから陽は考えた。思い当たる節があるとしたら自分しかいない。それをちゃんと、確かめなくてはいけなかった。
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