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「こんばんは。わあ、本当に人いないんですね」  うっすらと予想していた通り、吉見はその日のうちに来店した。 「今日は彼女と過ごすんじゃなかったの」 「そうだったんですけど、どうしても忙しいみたいで」  陽は使ってないグラスを拭きながら、無表情に返す。 「嘘つき」 「…え?」 「スランプなんだって?」 「…どうして、」 「バレたかって?」  無言の肯定。  いい気味、と冷やかしたくて口を開いたら、出たのは「らしくないじゃん」だった。 「名探偵彼女、偵察に来てたよ。ついでに喧嘩もしてるんだってな」  吉見が音の出ないため息を吐いたのは、若干肩が上下したのでわかった。 「それってさ、もしかして最近店に来ることとなんか関係あんの?」  そうとも違うとも判断しかねる微笑みをうっすら返されるが、追求する気は起きない。 「彼女、思いつめててかわいそうだったよ。もうちょっと構ってやれよ」 「知ってます。でも、陽さんには関係ないことです」  ぴしゃりと言い放たれたのに腹が立って、つられて陽も声を荒げた。 「そうだよ。あんたたちの事情なんて俺には一切関係ねえよ。だからちゃんと吉見さんで解決しろよって言ってんの。彼女がこんなとこ心配して来なくていいように」 「それは…ご迷惑をおかけしてすみませんでした」  素直に謝られると苛立ちをぶつけられないし、自分の未熟さを思い知るからいつも逆に腹が立つ。陽は仕方なく声のトーンを落とした。 「こんな場末のバーで俺なんか相手に油売ってないでさ、絵も頑張って描けよ。スランプとか俺にはこれっぽっちもわかるわけねえけど、少なくとも吉見さんには、あんなにいっぱい作品を待ってる人たちがいんじゃん」 「…でも、陽さんは、幸せにできないですよね」 「…え?」  びっくりして陽は顔を上げる。 「あの日、陽さん言ったじゃないですか。どうやったら幸せになれるんだって。あの時僕は何も答えられなかった」  脈が打つのに混じって始まった胸の痛みを消せなくて、陽は眉間にシワを寄せた。 「僕はおそらく恵まれてる方で、波乱万丈な生い立ちもなければ、創作に苦しむこともなかった。絵の向こうの人たちの笑顔を信じて描くことができて、評価されて、そして幸運にもやりたいことで食べさせてもらえてました。でも、陽さんに言われたあの時思ったんです。僕の絵は、陽さんたった一人を幸せにすることはできないって。そしたらなんだか、これまで矜持してきたものが、とても薄っぺらい偽物に思えてきてしまって」 「それって、描けなくなったの完全に俺のせいじゃん」 「…そうですね」 「正直かよ」 「どうやったら、この人は幸せになれるんだろうってお店に通ってみても、家に帰って考えてみても全然わからなくて…」  間を置いていた吉見が不意に切なげな表情で顔を上げた。 「陽さんは、僕のなんなんでしょうかね」 「知るか、俺が聞きたいわ」  対して陽は、吉見の訪問を許していたことをこの上なく後悔した。なぜなら、手に入らなくても近くで眺めるだけならいいんじゃないか、と淡く抱いていた考えは甘かったんだと今、認識したからだ。  触れられない、近づけない。でも、そばにいるだけでももダメなんだ。  自分は吉見をダメにしてしまう。  もし最初にこの展開がやってきていたら、してやったりとガッツポーズの一つでもしただろう。吉見の順風満帆な人生を粉々にしてやりたくて近づいたのだから、陽のおかげでスランプに陥るなんて願ったり叶ったりだ。  でも今は違う。  吉見が好きだからこそ、吉見の幸せな日常を一心に願ってやまない。  そこに自分一人がいないことで、吉見の積み上げた大切な積み木が崩れないで済むのなら、自分は喜んで身を引くことができる。どうせ己の幸せなんて、最初から見つけられないのなら、せめてこの人に降り注ぐ幸せを少しでも壊したくはなかった。 「対ってもんがあるんだよなあ。ネズミの隣にいるのはやっぱりネズミじゃなきゃ。アヒルでもリスでもしっくり来ない」  ましてやステージの下でポップコーンのくずを拾ってる掃除夫のような自分でもなくて。  吉見という男は、陽には眩しすぎて目がくらむ。 「なんですか?」 「ううん、こっちの話」  小さく息を吸い込んで、陽は吉見に向き直った。 「吉見さん。もうここには来ないで欲しい。迷惑だ」  吉見のカウンターに置いていた右手が握りしめられた。 「惨めな俺に優しく接したら俺がありがたがって、自己顕示欲が満たされるとでも思った? ウケるわ。かわいそもの扱いすんな」  きっと、心に沈殿した泥土をぶちまけてしまったあの日に、吉見の手を振り払ってでもこうするべきだったのだ。少し遅かっただけ。なのに今、胸が痛くてたまらない。 「もうこれ以上会いたくないから店には来ないでほしい。家にももちろん行かない。彼女も仕事も成功も…これだけ全部持っててまだ自惚れてる吉見さんなんか、顔も見たくないほど憎たらしくて、大嫌いだ」  吉見は何か言いかけた口を閉じて、目を伏せた。 「友達になるって、言ったよな。でもやっぱり吉見さんと俺じゃ住む世界が違い過ぎる。あの日から、あんたが俺の友達だって思ったことなんて一回もなかったよ」  そう、友達なんかじゃない。  好きで好きで、手に入れたいと切望する相手。でも、自分が手に入れてはいけない人。 「わかりました。ご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした」  コートを掴んで、吉見が背を向けたところで、陽は視線をぱっとシンクに落とした。  静かに店を出て行く足音がするが、陽は顔を上げなかった。  店の中に静寂が戻ったのを見計らって、大きく息を吐く。気持ちを悟られず、無感情で終われた自分を陽は褒めた。  冷たいカウンターに、小さいケーキの箱が残されてあった。  中を覗くと、カットのショートケーキが一つ入っている。きっと、陽の為に買ってくれたのだろう。  違う世界線ではもしかして自分と吉見がくっついていて、この瞬間幸せに一つのこのケーキを食べさせ合っているかもしれない。一口目のイチゴは絶対に、陽の口に運ぶだろう吉見を想像したら、目頭が熱くなった。  はかない妄想は実現しない。陽は自分の指でイチゴをつまむ。  クリームまでたっぷりついてきた赤いてっぺんをかじるとすぐに胸焼けがして、衝動的に残りをゴミ箱に捨てた。  吉見から最後に渡された好意を踏みにじることで、自分は本物の悪者になれた気がした。  クリスマスに大して良い思い出なんか特になかったけれど、今年は間違いなく後世に残る人生最悪のクリスマスだと言えた。
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