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 もう懐かしくなってしまった玄関のベルを控えめに鳴らすだけの行為に三十分はかかった。  色々考えてやはり絵に対する金額だけは手渡さなければと思い、吉見の家まで来たのだ。  絵を受け取った日から、更に一ヶ月が経とうとしていた。  ゴールデンウイークは目の前、春の気配ももうとっくに終わっていて半袖でも過ごせそうな日が続くのに、陽の表情は暗く、死刑台にも昇るような顔持ちでしばらく待った。すると扉が開いて、中からクリスマス以来見なかった、吉見が顔を出した。  首からかかっているエプロンが作業途中であったと教えてくれる。 「ようやく、来てくれましたね。お待ちしてましたよ」 「なんで?」 「お久しぶりですね」  相変わらずハの字の眉毛で、数ヶ月のブランクなど感じないほど自然に笑顔を作られ、陽の顔は歪んでしまう。やっぱり、まだ全然傷が癒えてない。 「お元気でしたか? また痩せてますね。ちゃんと食べないと」 「そんなんどうでもよくって。…なんで、俺が絵オーダーしたって知ってたの」 「入金してくださったクレジットの名義人が、陽さんの名前だったので」  当たり前の事実を告げられて迂闊すぎたと反省してももう遅い。そんなことまで確認できるとは思いつきもせず母親の名前だけで身バレしないとたかをくくっていた。恥ずかしすぎる。 「てか早すぎない? 二年待ちじゃないの?」 「ご贔屓特典です」 「なんだそれ。てか振り込んだ金額も、戻って来ちゃってたから…はいこれ」  直接封筒に入れて持ってきた現金を手渡そうとする。 「お金は、いりません。あれは僕からのプレゼントですから」 「そういうわけには…」 「今から訳をお話します。まずは絵、見てくださいましたか?」 「見たけど…何あれ」  ぶっきらぼうに言い放ってしまう。 「陽さんです」 「鳥?」 「じゃなくて」  お互いがわかりきった質問に吉見は笑っている。 「俺、動物ですらないじゃん」 「そう、卵です。キラキラ希望のいっぱい詰まった卵」 「なんで生まれてないの」 「これからだからです」 「なんの動物?」 「まだわかりません」 「じゃあ鳥は?」 「僕です」  絵を受け取ってからゲシュタルト崩壊が起こるくらい眺めたから、すぐ脳裏に思い出せる。大切そうに卵を抱えていた二つの羽。 「答えが出たんです。陽さんを守るのは…陽さんを幸せにするのは、僕であっていいんだって。あの絵はそういう気持ちで描きました」 「陽さん。僕は陽さんのことが、好きです」 「いやいやいや…」  脳が理解の範疇を超えている。だって、買った絵の金額を支払いに来ただけなのに。混乱した頭を陽は片手で押さえた。 「そんなの、いきなり言われても…」 「そうですよね、説明させてください。陽さんがこの家に通い始めた時から沢山話をするようになって、陽さんは今まで僕の周りにいないタイプだったのでとても刺激になりました。お話するのがとても楽しかった。同時に、綱渡りしているみたいな寄る辺ない性格にハラハラもさせられました。野良猫を手懐けるみたいな感覚で、気づけばついつい世話を焼いていました」 「ああ…餌付けとか」 「そうです。でもそれらはあくまで友達兼保護者としての行動だった…あの夜に、男性と歩く陽さんを見るまでは。寂しい、幸せになりたいと全身で叫ぶ陽さんを家に泊めたとき、僕の中でかっちりと何かの意識がはっきり変わったんです」  とびきり優しい顔で吉見が笑ったので、陽は持っていた封筒を握りしめた。 「クリスマスに陽さんは、かわいそもの扱いして、自惚れてる僕ともう会いたくないと言ったじゃないですか。あれから一人で何日も考えたんです。なぜこれほど、仕事も手に着かなくなるくらい陽さんをどうにか救えないかと思う様になったのかと…それは本当に同情してるだけなのかと」 「うん」 「確かに陽さんが以前おっしゃったように、僕はこのまま生きてたらきっと何不自由なく家族に囲まれながら良い人生を歩んだんだろうと思います。そして、笑顔の動物たちをずっとなんの疑いもなく永遠に描いていた。でも夜にひっそりと咲く月下香のようなあなたと出会って…あなたは僕に寂しさという暗闇を教えてくれた」  陽も、同時期に似たようなことを自覚していた。吉見の存在は陽にとって、とてもまばゆく映った。 「ああそっか、僕は陽さんの光になりたいんだなあってそのとき思ったんです。それで答えがはっきりしました。自己開示欲でもかわいそがってるんでもない。助けたいという気持ちの根底は僕の、陽さんの側にいたいという独りよがりで勝手なわがままだったんです」  頬を、気づけば熱いものが流れていた。堪える暇がないくらい、涙はとめどなく流れた。 「それから陽さんを思って描いたのがあの絵です。あの絵はスランプから抜け出させてくれたきっかけの一枚なので、どうしても陽さんにプレゼントしたかった。だから、お代は当然いりません」 「か…彼女はどうなんの」 「ちゃんと話し合って、お別れしました。陽さんのことを好きだとわかって、あの絵を描く前に」 「そんなアホことやって…。絶対後から後悔するに決まってる」 「なぜですか?」 「彼女と吉見さん、あんなにお似合いだったじゃん」  二つ並んで初めて成立する、つがいの片割れ。一つ外して代わりに陽を当てはめてみても、いびつすぎる。 「それは、僕が今抱く陽さんへの気持ちとは関係ありますか?」 「それは…」  咄嗟に答えられず、陽は口ごもった。別にないと言えばない。でもそんな簡単な問題じゃない。 「確かに明理は一緒に苦楽を乗り越えてきた、大切な存在です。そしてこれからも彼女の活動を応援するでしょう。でも何よりもまず、今僕は陽さんのことが、好きです。だからこれから僕と一緒にいてください」  衝撃が強すぎて、頭がずっとくらくらしている。あんなに真っ向から完全否定してしまったこの後に、なお陽のことを好きだと言う。 「お、俺といてもいいことない…。俺はあんたを幸せにはできない」  吉見の幸せを壊すのが何より怖い。吉見はふわっと陽の髪を一度だけ撫でた。 「幸せって、何でしょうね。ずっと苦労をしないこと? ずっと楽しくて嬉しい状態でいること? 僕は、違うと思います。光も闇も片方だけじゃ成り立たないって良く言うけど、その通りだと思います。幸せな一瞬も苦しみの境地も、二つがあってやっと本当に生きてるって感じれるんだって、陽さんと接していて僕は陽さんに教わったんですよ」  もうおそらく涙でぐちゃぐちゃになってしまったであろう陽の顔面を、吉見が袖で丁寧に拭う。 「辛いときも悲しいときも乗り越えて、陽さんの隣で陽さんを笑顔にすることができたら、僕は僕の役目を果たせた気がするんです。それが僕にとっての幸せなんじゃないかなあって、思うんです」  陽は決心して顔を上げた。笑うと薄いしわができる目尻、下がった眉、全部が愛おしかった。 「俺も…ずっと、吉見さんのことが好きだった。だから、スランプだって聞いて俺のせいで吉見さんの幸せな人生をぶち壊しちゃうのはいけないって、クリスマスの日にもう会わないって言ったんだ」 「そんなこと、する必要なかったのに」  そっと抱きしめられる。  玄関の段差で元ある身長差が更に開いて、だいぶ高い位置から腕がのばされている。初めて会った日にカフェで見た、原画の象のように優しげな表情をしているに違いなかった。  何か憎まれ口を叩かないと浴びたことのない強い光に飲み込まれて消えてしまいそうで、必死に探した。 「俺がさっさと飽きたらどうすんの」 「どんとこいです。いっぱい僕を困らせてください。何度でもまた振り向かせる努力をしますから」  こんな夢見たいな展開あるだろうか。宝くじが当たった人って、今みたいな気分なのかな。  稚拙なことを考えながらようやく腕を回したら、服越しでも吉見の体温が流れてきて、その暖かさにまた涙が零れた。
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