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カフェレストランの入り口は完全にホテルとは分離していて、一角というよりも隣接という印象だった。
人影が見当たらなかったがまだライトがついていることと、ドアが開いたので中に入ってみる。
オレンジ色の照明が中央に集まって、空間のメインになっている大樹を照らしていた。その周りを縫うように植物がはびこり、脇にテーブルが配置されている。壁は暗めの木材でレトロ感があり、緑と茶色で一帯が構成されていて統一感が心地よい。そして一定の間隔で壁に例の動物の絵が飾ってあった。
ぱっと見て八枚はあるだろうか。
その大きさの一枚単価をもう知ってしまった陽はオープンのマイナスから店を黒字に転ずるのに客の回転数と期間を考えてしまうが、スーツ男の熱量を思い返すとそもそも吉見の絵は開店予算に入れて計算していないのかもしれない。店内は動植物園といった雰囲気で、若い女子受けしそうだった。
その最奥で一人画材を片付けている背中を見つける。
「こんばんは」
静かに話しかけたのだが、ハッと驚いた吉見は顔を上げた。
「あ、えーっとバーのマスターさん」
「ひなたです。パーティはもう閉会ですか?」
「はい。だいぶ前に、皆さんで二次会に向かわれました」
「吉見さんは、行かなかったんですか?」
「ちょっと、ライブペインティングで手直ししたいところが出てきてしまいまして、一人で作業してました。あ、でも先ほど終わって、帰るところだったんですが」
「そうですか。残念です」
吉見だけが残っていて陽としてはむしろ好都合だったのだが、あんまりがっつくと警戒されるかもしれないから、みんなでわいわい騒ぎたかったから来てみた風に見せかけた。
「すみません。せっかくいらっしゃってくださったのに、僕しかいなくて」
「大丈夫です。それは、今日描いた絵ですか?」
「あ、はい」
キャンバスの中で、大きな像が優しげな表情で足元に視線を向けていた。
像の目線の先には、様々な形をした家の群衆が描かれている。その屋根一つ一つに宿るそれぞれの暮らしを、上空から像が暖かく見守っているかのような想像を掻き立てられる。
「何時間くらいで描かれたんですか?」
「これは、二時間半かかりました。皆さんが途中で飽きないようにいつもより手早く描いたんですが、やっぱり納得いかずに…。慣れた環境で一人で描き込むのが一番ですね」
眉を下げ、頬を掻く姿は心から申し訳なさそうで陽はまた舌打ちしそうになる。
「私は絵画には疎くて、吉見さんの作品も実は先ほど知ったんですが、どれも美しくてすぐファンになりました。吉見さんを昔からご存知の方なら、なおさら近くで何時間かかっても完成の行程を見たいと思うでしょう」
とびきりの笑顔をお見舞いしてやると、吉見はバーの時みたいに慌てて俯いた。陽の予想は確信に変わる。このまま押せばいける。
「あ、ありがとうございます」
「ところで、これを今から全部持ち帰るんですか?」
大きいボストンバッグが三袋とイーゼルが一つ。けっこうな大荷物だ。
「はい、アトリエ兼自宅がここから三十分程度のところにあるので、タクシーを捕まえて」
よし、思いついた。このまま家まで案内させよう。
「よければお手伝いさせてください」
「そんな、申し訳ないことできません」
面倒臭い押し問答は繰り広げたくないので見た目一番軽そうなバッグとイーゼルを持ち上げると反応など待たずにさっさと歩道に出た。それからしばらく待つ。
すると店内の照明が消えて暗闇から荷物を持った吉見が出てきた。
役目を終えたフラワーチーフを胸にくっつけたまま、コートはまだ手に持っていた。
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