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 着いたのは専用エレベーター付きデザイナーズマンションの最上階、ではなく敷地面積もごく一般的な古びた日本家屋の一軒家だった。  いちいちイラついている自分にもはや陽は疲れてきた。  荷物は玄関に置いておき、廊下からつながる十五畳ほどの居間に通される。流石にここまできたのだからお茶でも一杯、の流れになるのは確信犯。  ソファに腰を下ろし、カフェテーブルに持参したワインを置いた。 「店から一本持ってきたので、飲み直しませんか?」 「あ、ありがとうございます。今、グラスを用意しますね。ワイングラスではないんですが」 「気にしませんよ」  自らのテリトリーに帰還し、野生グマは若干落ち着いたようだ。  緩やかな仕草で戸棚からコップを二つ取り出し、コースターの上に置いた。  もう一度棚に戻ってワインオープナーを持ってくる。一の次は二、その次は三と一つ一つの動作を、随分丁寧にこなす。  陽はカウンターの中だけは訓練されているものの、家ではビール片手に髪を乾かし雑誌のページを捲るガサツ極まりない生活を送っているので、吉見の所作が物珍しい。  オープナーを吉見から受け取ると、ポンと陽はコルクを引っ張り上げた。 「さすがですね」 「仕事ですから」 「でも、店ではなく自分の家で鍛錬された手さばきを拝見すると、なんだか手品みたいです」  賞賛には微笑みだけ返してささやかに二人で乾杯する。 「そういえばひなたって苗字ですか? それとも名前ですか?」 「下の名前です。太陽の陽でひなた。おかしいですよね」  自嘲の念をにじませる。 「なぜです? いい名前だと思いますが」 「昔から夏も明るいとこも大嫌いだし、今はバーなんかやってて、太陽がさんさんと照ってる時間にはほとんど外には出ないから、もう名前負けしすぎてて」 「陽さんは、確かに夜のイメージが合いますね。肌も白くて、骨格も細いですし」 「軟弱そうということですか?」  目を細め睨むとすぐに訂正が返ってくる。 「いえ、そうではなくて、…なんというか、儚いかんじです」 「嘘です、怒ってないですよ。ていうか軟弱なのはその通りなんで。だから、せめて店の名前だけでも合うようにって」 「それで月下香ですか、陽さんの雰囲気にぴったりですね。あ、そういえばこの花も」  胸元のワンポイントに吉見は視線を移す。 「何の花かなって、詳しい人に聞いてみたんですよ。チューベルローズって、別名月下香っていうって。だからお店に飾っていたんですね」 「はい。ご名答です」  気になって聞きまわったのかな。爪痕を残せて幸いだ。 「入る時、とてもいい店名だなと。近くにあんなオシャレなバーがあったなんて知らなかったです」 「それは光栄です」  さてつまらない会話はこれくらいにして、どう踏み出そうか。男と女がセックスするのなんて至って簡単だ。大抵第一印象でありなしが決まって、どちらかの家に上がったらそれはもう暗黙でOKのサインだから、後はグラスを置いてベッドに誘導すればいい。  比べて男同士には理由が必要だ。  抱かれる理由と抱く理由。こういう朴訥そうな男の場合は特に。 「俺、先週彼女と別れちゃったんですよね。今日は飲みたい気分だったんです」 「それは…」  ハの字眉毛が更に傾斜を作る。  一杯飲んだら出口はあちらです、ときっぱり言える性格ではないことは何となく見抜いているが一応防御線を張っておく。これで帰るタイミングは陽の持ち札になった。 「忘れようとしてるんですが、まだ引きずってるみたいで」 「一週間前の出来事だったら、当然ですよ」  振った身なので次の日にはケロっとしていたが、さも傷ついている風に語尾を揺らす。 「だからこうやって吉見さんが付き合ってくれてよかった」 「陽さん、寂しがり屋ですからね」 「えっ?」  やけに確信めいた口調だった。いきなり投げ込まれた洞察の手榴弾に意表を突かれる。 「何でそう思うんですか?」  これで右手の中指と薬指の差異だのつむじの巻き方向だの、根拠のかけらもないたわ言ほざいたら殺すぞ、と意気込む。  食い気味に尋ねると逆に吉見が予想外だと目をまたたかせる。 「だって陽さんのお店、陽さんの好みや趣向が全く入ってないですから」 「それが寂しがり屋とどう関係あるんですか?」 「普通は、僕もそうですが個人で見せる側に立つ人間って絶対自分の意見や好きなものが入ってしまうものなんです。カフェでも、アメコミやオモチャが好きなのかなあって内装とゴシック建築が好きなんだろうなって店内は違うじゃないですか」 「それはそうですけど、でも食べ方まで指定してくるラーメン屋とかウザくないですか?」 「それは極端にしても、ある程度ここからはこのルールでいきますって表明のようなものが、どの店にもあると思うんですよ。そういう作者の好みを、あの店には一切感じなかった。全てが脇役に徹しているというか」 「だから?」 「だから、好みを故意に消している気がしたんです。作者の繊細や敏感さを、来店する人が気づかないように」 「まだ遠いです。結論をはっきり言って欲しいです」 「繊細や敏感さは、つまり寂しさに直結しますから」  ガツンと頭部を鈍器に殴られたようで陽はただ唾を飲み込んだ。  あの数十分で、そんなことを感じ取っていたのか。何よりも、鈍臭い仕草から頭の回転は決して早くない、感覚だけでのし上がってきた人間だろうと吉見の足元を見ていた自分の大失態に気づいて唖然となった。 「月下香に入った瞬間、『あ、寂しがり屋さんの店だ』ってまず思ったんです。そしてこの花があの場所で唯一の主張だった。だからこそ、気になったんです。絶対に意味があるはずだって」  完全敗北の瞬間だった。店を先代から受け継いで店名を変えてから早四年。どんな常連にもたまに手伝ってもらう大学生にも、一度だってバックバーにひっそりと忍び込ませたチューベルローズの意味など聞かれたことはなかったのに。そして寂しがり屋とは、陽が世界一されたくない他己分析だった。  カッとなって、頭の中で様々に動かしていた駒を陽は全部将棋盤から払い落とした。  もういい、強行突破で奥の手だ。 「花」 「あ、え」 「時間が経ってしなびちゃいましたね。外しましょうか」 「そんな、もったいない」 「どうせ朝にはシワシワですよ」  殺気を押し殺しクスリと笑って、吉見の横に座る。  ニットの裏に止めたピンを慎重に外す。それを上から眺めているのは、息遣いでわかっている。そして、下からパチリと目を合わせる必殺技を決める。吸い込まそうになる瞳とはどこの誰に言われたっけか。金縛り効果もあることは幼少期とっくに証済みだ。  数十センチの間に流れる、無言の数秒。  スローモションで瞬きを二回して、三回目を閉じる前に、顔を寄せた。 「あっ…」  唇が触れ合う、あと一歩で吉見にぐいと肩を持たれ、上半身を離された。 「陽さん。あなたはとても素敵で美しい方です」 「…はい?」  改めて言われなくてもそんなことは知っている。だから何だ。 「ですがごめんなさい。僕には、彼女がいます」 「…で?」  つい本性がちらついて、やかり音程で返す。 「だからこういうことは僕にはできないです。ごめんなさい」  え、もしかして今この冴えない男に断られた? この俺が、しかも彼女に操立てられて?  ウケる。  陽はきょとんと座る吉見の前で、声をあげてしばらく笑っていた。
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