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 認めよう、と陽はグラスを拭きながら思う。  確かに、距離の詰め方が急すぎた。ああいう一癖あるタイプは作戦をしっかり練って挑まなければとわかっていながら、花の意味を言い当てられて、つい頭に血が登った。いつのまにか完全に向こうのペースに巻き込まれていたことを懺悔しよう。  注文した製品の検品、棚キッチン床の清掃を一通り終えたとことでいつもは花が届くが今日は休みなのでドアは開かない。  バックバーは三段あり、製造種、蒸留酒、混成酒にまず分けられる。その中でも更に国ごとに細分類しているから目をつぶっても何の銘柄がどの位置にあるかわかるように配列が整頓されている。吉見との会話の後、よっぽど花瓶ごと捨ててやろうかと考えたが、その隙間を別の酒で埋めるとなるととてつもない重労働の配置改装をせねばならず、じゃあ飾らなきゃいいだけだが、それはそれで意識しているのが癪でもあり、結局そのままにしている。  吉見に拒まれた後、毒気を完全に抜かれ陽は大人しく退散した。  でも一旦煮え繰り返ったはたわたはまだ治っておらず、どうにか落とすきっかけはないものかと吉見の家に通い出した。あれから二週間、ヒントはまるで掴めないくせに、なぜこんなにムキになっているのか陽は自分を不思議に思う。  勝算がある賭けにのみ乗らないと割に合わない、と普段ならすぐ引っ込むはずなのに。というか、そもそも勝算のない賭けなど陽の世界には存在しなかった。  そこから既にむかっ腹が立っている要員でもあった。  つらつらと考えるうちに体に染み付いた開店準備の行程を全て終わらせてしまった。月の売り上げ確認に必要な領収書やら何やらを持ちに来ただけなのに。  必要のない一時間半を店で過ごしたら、今日も足は自然と吉見の家に向かっていた。  横開きの玄関に立ったら、演劇が始まるようなブザー音のベルをふたつ心で数えながら鳴らす。 「鍵は閉めてないので、勝手に入っていいんですよ」  言いながらエプロンを着用した吉見が廊下から歩いてくる。 「泥棒みたいでやだ」 「陽さんは、律儀なんですね」  というか、生涯マンションでしか暮らしたことがないから在宅時に鍵が開いている家というのを想定できない。五十年続く日曜の国民的アニメを見ててもいつも勝手に住人以外が出入りしすぎで、不用心すぎないかと不安になる。 「お邪魔します」  そういえば高校生のとき出入りしていた女の家がこんな家屋だったな、と不意に思い出す。  女の母親に隠れて昼間からひっそりと部屋でセックスした。三股がバレて最後は修羅場でドロドロに終わったが今思えば三十になっても実家暮らしで大した仕事もせず、高校生なんかを連れ込んでいたなんてその時点でなかなかやばい。  居間の右に位置する観音開きのガラス扉の先が、吉見のアトリエだった。  サイズは居間と一緒かそれよりも小さいくらいで、仕切りを開け放つと居間のどこからでも作業する姿が見えるが、訪問するときはむしろ陽の方が閉めっぱなしを好んだ。  作業中は極力邪魔されたくないと自分なら鬱陶しがるからだ。反面、ベルを押すタイミングは完全に店が開店する前の空き時間で、気を使ってるんだか図々しいのか陽もわからない。  吉見は陽がそばにいようといなかろうと絵の中の登場動物同様、優しい表情でいつも筆を走らせている。 「何してた?」 「さっきまで、完成した絵の梱包の準備をしてましたよ」  てっきり仕事部屋にこもってかと思っていたら居間にダンボールと梱包材が散らばっていた。 「見ててもいい?」 「もちろん」  厚手の布をテーブルに敷いて、四つ切りと教えてもらった四十センチ四方くらいの額縁のガラス面を下に置いた。絵をそうっと中に入れる。 「それは?」 「厚み調整材です。これで開いた空間を支えると浮かないんですよ」 「へえ」  最後は裏版を慎重に被せた。その右下に描かれていたのは、小さなハリネズミの簡単なイラストと三つの見知らぬ名前。 「え、そんなことまでするんだ」 「はい、オーダーでは依頼主のお名前を必ず裏に書く様にしてます。一点物ですので」 「オークション流用阻止のため?」  初日以来、下手なおべっかは簡単に見破られそうで使わなくなった。  外面を一枚でも剥くと陽の発言の大方は皮肉になってしまうが、吉見が声を荒げることはないので会話は平和に成立していた。 「というより、僕からの感謝を込めて。例えばこの絵をもらってくださるご夫婦は、注文の時に赤ちゃんを授かってらっしゃったんです。三人の大切な門出に関わらせていただいた、その節目に居合わせることへの感謝の気持ちです」  吉見はムッとするわけでもなく、留め具を回しながら丁寧に教えてくれた。本当に、心の底から思っていることは明白で、だからこそ陽の心の毛並みは逆立つ。  もっと踏ん反り返って、俺の絵を飾れてせいぜいありがたがれよくらい傲慢になってもいいんじゃないのか、陽だったらきっとそれくらい思ってしまう。  陽がアーティストに対して抱いていた偏見の、どれにも吉見は当てはまらない。我の信じる芸術とはなんぞや! という頑固な主張もなければ、かといって社会的資本に惑わされているわけでもなく、ただ絵の向こうの人生を祝福している。  誰かの生活の一部に携わる一枚を、誇らしく感じている。  きっと他者からいかなる称賛を浴びようとも、名誉や富を得ようとも本人にとっては取るに足らず、評価の軸にはならない。  だからこそ吉見の中に、入り込むのが難しいのだ。 「吉見さんはなんで画家になったの」 「そうですね、成り行きと言ってしまえばそれまでですけれど」 「ずっと動物描いてんの?」 「はい。小学生のとき、絵葉書コンテストというものがクラスの授業であったんです。詳しい内容は覚えてないんですが、とにかくそこにウサギの絵を描いて送ったら入賞して、母がとても褒めてくれました。動物を描くようになったのはそれからですかね」 「ふーん…で、その母と今は生き別れてるとか?」 「まさか、実家の田舎で健在ですよ」 「なんだ、じゃあ大した理由じゃないんだ」  人の人生捕まえて大したとか大してないとか、しかも自分よりよっぽど成功している相手に対して、相当失礼なことを言っている自覚はあるがついつい言葉尻がきつくなってしまう。どんな際どい発言をしてもエアーバッグのように受け止められるから、なんで怒んねえの? と結局こちらがイラついてしまう。  存在だけはやたらでかいぬいぐるみの無害さも行きすぎると全然癒されない。蹴りつけたくなるだけだ。 「そうなんです、つまらなくてすみません」  ほら、こんな風にいつも素直に謝られてしまう。吉見は最終確認をして、段ボールに絵を梱包するところだ。一つの動作の切れ目がはっきりしていて、見ていると映画のシーンが変わるようで面白い。丁寧に生きてきたんだな、と感じる。  バレリーナがかかとを上げて歩いてしまうように、日常に染み付いた習慣は簡単には消せない。  作業が終わると、吉見は陽を振り返った。
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