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 母親から着信があったのは三月の末だった。 「陽? なんかあんたに箱、来てるわよ」  二日前にネット通販を利用していた。もしかしたら届け先を実家に設定してしまったかもしれない。わざわざ取りに行くほど重要でもないしどうしようかな、と考える。 「あーそれ多分本だわ」 「本? 随分大きくて重い本買ったのね。動かすの面倒だから玄関に置いといていい? 早く取りに来てよね」 「え? どれくらいの大きさ?」  文庫本三冊が驚かれるほど大きいダンボールに包まれているとは思えない。 「まな板三、四枚分くらいかしら」 「すぐ取りに行く」  思い当たるのは一つしかなかった。でもまさか、と半信半疑でロードバイクを走らせる。  家の玄関に着くとダンボールの宛名書きを確認する。差出人はやっぱり吉見だった。  段ボールの外フラップを乱暴に一つ開いた。そして表の絵を見る前に飛び込んだ、裏版の『陽さんへ』と記載された文字。 「え、ちょっとなんだったの?」 「今度説明する」  すぐさましまうと、詳細を聞きたそうな母親を置き去りに、重い荷物を両手に抱えて立ち上がる。  バイクを駐輪所に置いたままタクシーに乗り直して自宅に向かった。静かな場所でちゃんと絵を見たかった。  家に帰ると、フローリングにダンボールを置いて、しばらく陽は考えた。  なぜ依頼主が陽だとわかったのか、そしてなぜこんなに早く届いたのか。  でも変わらず絵を描いてるようでそれだけは安心した。まあ自分ごときが吉見の輝かしい作家人生に傷をつけるほど大それた存在だとも思わなかったけれど。  改めて今度は絵を慎重に取り出した。  表を確認して、息を飲み込んだ。  何色も滲みながら織りなされる、吉見の代名詞ともいえる背景の淡く多色な彩りが、一切見えなかったからだ。代わりに、バックは黒一色が筆の質感もなくベタ塗りされている。一見すると黒い画用紙だと思ったくらいだ。  中心では白鳥だろうか、くちばしの長い白い鳥が、卵を大事そうに抱えていた。そして陽の見慣れた、背景に使われていた多彩なパステルカラーが小さな卵の中にぎっしり詰まっている。  その絵は既存の吉見の作風とは違い、手放しに暖かくはなかった。  奥行きが不明確な真っ暗闇の豪気にまず見る側はぞわっとさせられる。そこから遅れて目に飛び込む微かな光に、それでもなんとか救われる。  壮絶に吹き荒れる不安の中でつかの間帆の揺らぎが収まりホッとできる、そんな絵だった。    しばらくして、振り込んだ金額もなぜだかきっちりクレジットと連動している銀行口座に戻されていた。単純に、絵のみを受け取ったことになる。  吉見の絵は、部屋のどこにも飾れなかった。  見ると吉見の事を思い出してしまうから目に触れないようクローゼットにしまったのに、結局仕事から帰ってくると取り出してしまう。へそくりを隠しては確認するみたいなただの自作自演に過ぎない。もとより、四六時中吉見のことを考えているのだから思い出すも何もないのだ。  そして大嫌いとまで言って陽の方から別れを告げたくせに、吉見に会いたくて仕方なかった。  そうだ、聞きたいことを解決したら大人しく帰ればいいんだ、と思い立ってみたり、あるときは手袋を返すのを理由に吉見の家路に向かおうとした。  しかし決意してもやっぱりあんなひどいこと言ったんだから潔く消えなくちゃと途中で思い直して引き返す。それを何回も繰り返した。  陽の中で一人の存在がこんなに気持ちの多くを占めることは初めての経験で、ひどく戸惑ったし喜ばしい感情とは言えなかった。傷心しながらも自分をだましだまし、退屈な日常を一人で過ごしていた方がよっぽどよかったと思うと数ヶ月前の安易に絵をオーダーしてしまった自分が恨みがましい。  確かにオーダー画面をクリックする瞬間は、吉見の絵を今後眺めながら、ああこんな素敵な人生を遠くで吉見は送っているに違いないと想像するだけで自分は納得できる、と考えていたのだ。でも、いざ手してしまったらどんな顔でこの全く新しい絵を吉見は描いたんだろうかという想像をやめられない。  陽の知っている、あの菩薩像のような寛大な表情なのか。それとも、苦悩や悲しみを宿す初めての眼差しなんだろうか。  まだ鮮明に残る、キャンバスに向かった後ろ姿の記憶を、陽は何度も再生してみる。
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