隣の部屋のゴーストシンガー

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隣の部屋のゴーストシンガー

 そうだ早く眠らなくては、と私は思い出した。  暗闇の中で光を放つスマートフォン、その画面の中央には『00:59』という太字。まもなく深夜一時。良い子も悪い子も眠るべき時間だろう。  私は目覚ましアプリがオン設定になっているのを確認して、スマホを枕元に置く。そしてそれをもう一度手に取って、マナーモードになっていないかを確認した。マナーモードになっていると目覚ましも鳴らないのだ。  目に強い疲労を感じる。光る画面を見つめていたせいだ。  とにかく早く眠りにつかなくては。もうすぐ隣の部屋の男が帰ってきてしまう。  奴は帰るとすぐさまシャワーを浴び始める。深夜の静寂の中、その水音は壁を突き抜けてこの部屋へとやってくる。そしてそれが終わると、あろうことか奴は洗濯機を回し始めるのだ。まるでロックンロールのセットリストみたいだ。ちなみにその次の曲はテレビのお笑い番組と不愉快な馬鹿笑いのデュエットである。  早く意識を落とすのだ。感覚を遮断しなくては。私はスマホの時刻表示が『01:00』というキリの良い数字になったのを契機に目を閉じ、二度と目を開けないことを誓った。  ――誓いは数秒で破られた。  無遠慮なドアの開閉音。そしてどこか慌てたような足音。なんだ? お笑い番組の録画でも忘れていたのか? もしそうであるならば、今さら急いでも意味がないだろうに。  しばらく好ましい無音の時間が続いた。チャンスだ。今がチャンス。私は再び目を閉じる。  遠くから聞こえるサイレンの音が、メトロノームみたいに規則的なリズムを刻む。これはパトカーだっけ? それとも救急車だったっけ。いや、もしかして消防車? よし、思考がかすんできた。眠れる。  ――眠れなかった。  唐突に、隣の部屋のメインボーカル、テレビ・ジョンがリサイタルを始めた。しかしその歌声は不安定で、どの曲を――あるいはどの局を――歌ったらいいのかと悩んでいる様子だった。  つまりはチャンネルをやたら回している。いったいなんなのだ。こんな時間にいったいどんなテレビ番組をご所望なのだ。  いらだった私は何度も寝返りを打ち、体勢を変えては布団を頭から被るけれど、テレビの音が気になって眠れやしない。  やがて眠るのを諦めた私は、部屋の明かりを点けてテレビの電源を入れた。そうだ、隣の男がいつもこの時間に見ているあのお笑い番組を流してやろう。大音量で。  私は録画されたいくつかの番組からそれを選択すると、すでに夕方視聴したお笑い番組を体育座りでぼーっと眺めた。隣の部屋の男はまだチャンネルを回している。  うとうとする。私、は。  どん、という鈍い音にビクリと肩を跳ねさせ、瞬時に覚醒する。  壁ドンだ。隣の男、いらついてるぞ。いい気味だ。  そう思いながらも私は慌ててテレビを消した。隣の男が大きな足音を立て、部屋を出たのを感じたからだ。  まさか、この部屋へ? 来るのか? 文句を言いに?  私は空襲警報でも発令されたかのような勢いでもって消灯、ベッドへと逃げ込む。  男は、来なかった。隣の部屋から、消し忘れたテレビの音が聞こえてくる。なにかのニュース番組みたいだった。しかし、聞き取れない。私は懸命に意識を保ち、英語のリスニングテストでも受けているかのように、何度もその不明瞭な言葉を聞き取ろうと試みた。不思議だった。さっきは眠ろうと思っても、眠れなかったのに。もしかして、さっきまでの出来事は全て夢の中の出来事で、私はもう、眠っている?  朝。無遠慮に連打されるインターフォンの音で目を覚ますと、私は泥酔者の如き足取りで玄関へと向かう。魚眼を覗くと、あたかも警察官であるかのような制服を着た、というか警察官がいた。 「○○さんですね? 少しお隣の××という男性に関して、お話を伺いたいのですが」  ドアを開けると、警察官と一緒にいたスーツ姿の刑事が――というか刑事も警察官なのだけれど――例の男の部屋のほうを指さしそう言った。そしてつらつらと、昨夜零時頃に発見されたという刺殺体について話し始めた。 「刺殺体じゃありません。亡くなられていませんから。……意識不明の重体、ではありますが」 「はあ。それは、失礼しました。……で察するに、隣の部屋の男が、容疑者なんですね?」  私はまだ寝ぼけた頭で、インタビュアーが来たら絶対に「いつかなにかやらかすんじゃないかと思っていましたよ」としたり顔でコメントしてやろうとか、あまりにものんびりとしたことを考えていた。 「いえ、違います。お隣の××さんが、昨夜零時頃、パトロール中の警察官によって発見されたのです。腹部をナイフのようなもので刺され、意識不明の重体なのです」
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