Lollipop First Love

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 ✣ ✣ ✣  え……?  リビングのドアノブに手を掛けると、稜樹さんの声が聞こえてきました。どうやら山田さんとお話をされているようです。  稜樹さんはおっしゃいました。「実家に帰したほうがいいかもしれない」と。おそらく……いえ、百パーセント絶対確実にわたくしのことです。わたくしを実家に帰したほうがいいとおっしゃったのです。しかも兄にまで連絡すると。  これはまさしく三行半です。言わずと知れた離縁です。 「桜子?」 「!!」  稜樹さんがわたくしに気づかれました。こちらへ歩いて来られるご様子が、すりガラス越しに見えます。  怖い。どうしよう。  こわい——。 「あ……」  目が、合ってしまいました。  稜樹さんの栗色の瞳には、情けないわたくしの姿が映っています。 「さっぱりした? そろそろ出かけ——」 「……っ、ごめんなさい!!」 「え? ちょっ……桜子っ!!」  居た堪れなさに苛まれ、わたくしは稜樹さんの前から逃げ出してしまいました。  お屋敷を飛び出し、自転車に跨ってひたすらペダルを漕ぎます。せっかく治まっていた太腿の怠さがまたぶり返してしまいました。それでも、漕ぐしかないのです。もう、お屋敷には——稜樹さんのもとには、戻れません。  漕いで漕いで漕いで。  ひたすら漕ぐこと、およそ十分。 「……ただいま」  実家に、到着しました。 「お、どうした桜子。この世の終わりみたいな顔して」  目つきの悪いこの黒髪三白眼が、兄の桜矢です。目つきは悪いですが、とても情の厚い人です。父の跡も立派に継いでいます。上唇から覗く八重歯が懐かしい。 「あ、わかった。ホームシックだろ?」 「……」 「ほら、こっち来い」 「…………ひっ、ぐっ、う……うわぁぁぁぁぁぁん!!!!!!」  太くて篤い兄の言葉に、思わず泣いてしまいました。大泣きです。  蝉のようにひしと抱きつくと、兄は優しく受け止めてくれました。 「ひっ、んぅっ、離縁っ、されたっ、ひぐっ、実家、帰った、ほうがいい、って……っ」 「離縁って……まだ結婚してねぇだろ。実家帰ったほうがいいって、それ稜樹が言ったのか?」 「ひっ、ひぐっ……う、ん」 「お前、稜樹とちゃんと話したか? おおかた、山田さんと話してたの横からちょろっと聞いて、早とちりして飛び出してきたとかそんなとこだろ」 「ひっ、……え? んっ、なんで……っ?」 「お前、手先は器用だけど、人付き合いとか驚くほど不器用だからな。たぶん稜樹は、お前が頑張り過ぎてしんどそうに見えたから、いったん家に帰して休ませようとしただけだと思うぞ。そもそも、あいつがお前との結婚諦めるわけねぇだろ」 「……え、それ、どういう——」  ピンポーン—— 「お、来た来た。迎えだぞ桜子」 「?」  ピンポーン、  ピンポピンポーン、  ピンポピンポンピポピンポンピンポンピポピポピポピ—— 「だーっ!! もー、うるせんだよあのバカ!! 一回で十分だわちょっと待ってろっ!!」 「!?」  狂気すら覚えるチャイムの連打に、兄がものすごい形相で玄関へと駆け出しました。さすがは元短距離選手。ランニングフォームは完璧です。  迎え? わたくしの? 誰かと約束などしていませんし、行く場所もありません。いったい誰なのでしょうか。  間もなく、ドタバタと足音が近づいてきました。ぎゃいぎゃいと言い合う声が聞こえます。兄ともう一人……聞き覚えのある声です。先ほどまで聞いていた声です。  ひょっとして。まさか。  思わず、息を呑みました。 「桜子っ!!」 「いつ、き……さん?」  なんと、狂気のチャイムの主は、稜樹さんでした。  急いで来られたのでしょうか。肩で息をされています。汗もたくさんかかれています。乱れた髪もまたかっこいい。  ……などと言っている場合ではありません。 「っ!? い、いい、稜樹さん、何を……っ」  わたくしのもとへ歩いて来られるやいなや、稜樹さんは、わたくしの体をひょいと持ち上げました。いわゆる『お姫様抱っこ』というやつです。 「ごめん、桜矢。桜子連れて帰るね」 「え?」 「おう。そいつただのコミュ障だから、よろしくしてやってくれ。……あ。あと、無駄に言葉遣い丁寧にしてっけど、普段全然そんな喋り方じゃねぇから」 「なっ……ちょっとお兄ちゃん、余計なこと言わないでっ!!」 「それが普段の喋り方?」 「!?」 「僕はどっちの桜子も可愛いと思うけど、肩に力が入ってないほうがいいかな」 「あっ、えと、その……」 「おいバカップル。イチャつくのはそれくらいにして、とっとと帰れ。こちとら嫁さんが帰ってくるまでに夕飯作っときたいんだよ」 「はいはい、お騒がせしました。奥さんによろしくね」 「おう」  兄に見送られ(なかば強引に追い出され)、気づけば体は車の助手席に。  エンジンをかけるも、稜樹さんは一向に車を動かそうとしなかった。運転席に座ったまま、黙って何かを考えてるみたい。エアコンの風音が、やけに大きく聞こえる。  わたしのほうから話しかけたほうがいいのかな。突然お屋敷を飛び出してごめんなさいって。謝ったほうがいいのかな。  コミュ障にとって、この間は恐怖以外の何ものでもない。閉塞感と圧迫感で息が詰まりそう。  心臓、痛い……。 「桜子」 「……え? はっ、はい!!」 「山田さんとの話、聞いてたんだね」 「あ……ご、ごめんなさい……」 「謝らなくていいよ。悪いのは僕だから。……もう少し早く、ちゃんと伝えておけばよかったね」 「……?」 「大学で建築学を勉強したいんだろ?」 「どっ、どうしてそれを!?」 「好きな子が何に興味持ってるかくらい知ってるよ。将来の夢は建築デザイナー。違う?」 「……」  当たってる。すごい。お兄ちゃんにも言ってないのに。 「僕は、桜子に大学に行ってもらいたい。大学で、本当に学びたいことを学んでほしいと思ってる」 「で、でもっ、大学に行ったら、稜樹さんと結婚——」 「できなくなる? そんなことないよ。桜子が卒業するまで待ってもいいし、学生結婚っていう選択肢だってある」 「……っ、でも——」 「ねえ、桜子」 「……!!」  稜樹さんの声が、耳元で聞こえる。上半身を抱き寄せられたと気づくまでに、少し時間を要してしまった。  甘い香り。甘い声。稜樹さんのすべてが、わたしのささくれ立った感情を、ゆっくりと撫でつけていく。 「一人で頑張ろうとしなくていいんだよ。結婚は、一人でするものじゃないだろ? 結婚するために桜子の夢を犠牲にするなんて、そんなの間違ってる。もっと話し合おう? もっと僕を頼ってよ」 「……」 「大好きだよ、桜子。ずっとずっと。大好きだ」 「……——」  稜樹さんは、全部わかってた。こんなわたしのことを、全部わかってくれてた。  不器用でコミュ障で臆病で。背伸びして空回りしていたわたしのことを。  全部。ぜんぶ。  涙が止まらない。お兄ちゃんの前で泣いたさっきとは比べものにならないくらい、涙が溢れてくる。涙が、想いが、溢れてくる。  出会えてよかった。諦めなくてよかった。  稜樹さんを好きになって、本当によかった——。 「……落ち着いた?」 「……は、い」 「よし。それじゃあ、今度こそご飯食べに行こう。桜子は、イタリアンが好きなんだよね?」 「!? ど、どうしてそれをっ」 「デジャブだね。好きな子のことなんだから知ってるよ。何年君のこと見てきたと思ってるの?」 「え? 許嫁になってから、じゃないんですか……?」 「違う違う。もっとずっと前」 「え? え? いつから、ですか?」 「うーん……この話始めると長くなるからなあ。また改めてゆっくり話すよ」 「そ、そんなに長くなるんですか……?」 「僕の君への愛は、君が思ってるよりはるかに大きいからね」 「!?」 「末永くよろしくね。奥さん」 「!!」  ロリポップみたいな初恋は、絶対に叶うはずないと思ってた。食べたらおしまい。残るのは白い棒と、甘い思い出だけ。  でも、そんなことなかった。幼いわたしでも叶えられた。彼が、叶えてくれた。  縮まらない距離に、埋まらない差に、焦ったって仕方がない。  少しずつ大人になっていこう。  あなたの隣で。  <END>
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