ゲームのような恋愛を

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   ゲームのような恋愛を 一、ゲーセンのプリンス 受け皿からぬいぐるみを取り上げた亮が言った。 「欲しいのか?」 丸い顔を押しつけんばかりにゲーム機をのぞき込んでいた紗綾は、不意をつかれて後ずさりした。 「いるかよ」といいながら、白いぬいぐるみを差し出した亮は、身じろぎ一つしない紗綾の姿を見て笑った。 「い、いらない」 そう言いながら、紗綾の目は猫のぬいぐるみに釘付けになっていた。猫は白くふわふわしていて、ふたつの目を紗綾に向けている。 「やるよ」 亮は紗綾の胸にぬいぐるみを押しつけるように差し出した。  「いい」 言葉とは裏腹に、紗綾は両手でぬいぐるみを受け、しっかりと抱きしめていた。 「やるって」 亮が手を放しても、ぬいぐるみが紗綾の手から落ちることはなかった。亮はちらりとあたりを見まわしてから、呆然とぬいぐるみを抱いて立つ紗綾を一瞥して言った。 「もう一つ欲しいか?」 「え?」 「おまえ、あのピンクのが欲しかったんだろう」と、紗綾の気持ちを見すかすように笑いながら亮が言った。 「うん」  「取ってやるよ」 「ほんとに?」 紗綾が丸い目を輝かせた。 「ああ」  紗綾は急いでセーターの色に合わせたピンクのポシェットから財布を探った。紗綾はその背の高い初対面の高校生に、取出した百円玉を差し出した。 亮は硬貨を受け取ると、それをじっと見てから一度右手でにぎりしめ、投入口に投げ入れた。紗綾がガラスに鼻を押しつけんばかりに覗き込んでいるというのに、本人はさして熱中する様子もなくボタンを押し、弱々しげなクレーンを操ると、ピンクのねこの上方でぴたりと止めた。クレーンはゆっくり下がったが紗綾の目にはそれがねこの真上ではないように見えた。 (なんだぁ、これじゃとれるわけないよ。損した) 紗綾はガラスから顔を放すと、期待せずにクレーンのゆくえを見守った。ゆっくり下がるクレーンはピンクの猫のわきで下がりきった。 (あ~、やっぱり。取れない)と紗綾が心の中でため息をついた。 クレーンの鉤手は、ピンクの猫のわきで、手を広げた。このまま鉤手が閉じても、掴むものはない。 しかし、そのときだった。鉤手が両側に広がりきると、ピンクの猫はその鉤手の広がりに押されて、穴の中にストンと落ちたのだ。  口を開けて見ていた紗綾の目に、確かに景品口まで押し出されてきて、魔法のようにポトリと音を立てて落ちるピンクの猫が映った。亮は何事もなかったように、ガラス箱のこちら側にきた猫を手に取って紗綾に差し出した。 「ほら、とれた。おまえのだよ」 「え、本当にいいの?」と切りそろえた前髪の下の目を丸くして、紗綾が言った。 「あたりまえだろ」と言って、亮が紗綾を見おろした。 「でもあなたが、とったのに」 紗綾は二つの猫をもう放そうとはしなかったが、一応遠慮がちに言った。 「おまえの金だからな」と言って、亮が紗綾を笑いながら見た。 「本当にいいの?でも何でとれるの。いくらやってもとれなかったのに」 紗綾が亮の顔を下から覗き込んで一生懸命確認しようとした。 「機械には癖があるのさ。それに、引っかけてとろうとしたり、掴もうとしたりしても無駄。クレーンは広がる力が強いけど、掴んだりするほどの力はない。重みにも弱い。だったら、押すしかない。だろ?」 そういって亮は紗綾の身体を両手ではさんで機械の前に押し、視線が鈎の位置に来るように頭の上に手を乗せた。 「ほんとだ」と言って紗綾は目を丸くした。 「秘密だよ。だからやるよ。こんなピンクのぬいぐるみ、俺には用なしだからな」 紗綾の丸い顔を見おろし、亮が並びのいい白い歯を見せて笑った。 「本当に?ありがとう」と言いながら紗綾は白猫とピンクの猫を交互に見比べた。 「二匹でちょうどいいじゃない。恋人どうしでさ」と、亮は紗綾の頭越しに遠くを眺めながら言った。 「え?」と言いながら紗綾は、亮をとがめるように見上げて赤面した。 「おまえの顔じゃ、おさななじみってとこだな」 亮は幼な顔の紗綾を残して、笑いながら紗綾のそばを去った。紗綾はかれこれ二千円もかけて何もとれない自分にいささかうんざりしていた。それにもまして、ガラスケースの中の手の届かないぬいぐるみ達の中でもフカフカした毛並の、まるで夏祭りで売っている綿菓子のような淡いピンクや白の子猫への思いが募っていらだっていたところだった。  突然現れた見知らぬ背の高い高校生は、折り良く、欲しかった猫を次々に与えてくれる夢のような存在だった。しかし、紗綾の心の中はフカフカした猫のぬいぐるみで埋まっていた。 「わあ、紗綾、すごい。二つも取ったの?」 「う、うん」 弥生は紗綾の手にぬいぐるみを見つけて遠くから駆け寄ってきた。走った拍子に下がる眼鏡を中指で押し上げてから、ぬいぐるみを紗綾の両手から取ってまじまじと見た。 「いいなぁ、こんなの、するっと抜けちゃって、取れそうでいても絶対取れないのよね。すっごくかわいい。どうやって取ったの」 「うん、ひとつあげるよ」と、猫を離しそうにない弥生の手からとりあえずピンクの猫を回収しながら、紗綾が言った。 「え、いいの?」と言って弥生は白いぬいぐるみを抱きしめた。 「うん、いいよ」 「本当に。私、白い猫って大好き。前に飼ってたペルシャ猫の子がこんなだったの。年取って死んじゃったんだけどさぁ」と言って、弥生はぬいぐるみを胸に押しつけて、ぎゅうぎゅう抱きしめた。  大柄な環がぬいぐるみを一つずつ手にした二人を遠くから認め、ゲーム機の間をぬって来た。 「二人とも、着実にかせいでいるじゃない」 「ちがうのよ。紗綾からもらったの」 「わぁ、紗綾、やるじゃん。初めてでふたつか」と言いながら、二人の手にあるぬいぐるみを交互に見比べていた環が、いぶかしげにつぶやいた。 「紗綾、それ本当にとれたの?」 「う、うん。」 紗綾は見知らぬ高校生に、ぬいぐるみをもらったことを言い出せずに口ごもった。 「ふーん。ま、いっか。それよりさ、さっき紗綾、男の子としゃべってたじゃない」 「え?」 紗綾は背の高い環があちこち見通しの利くことを忘れていた。 「へーえ、すごい。知らない男の子と紗綾が?」 弥生は、ずれるメガネを直すことも忘れて言った。 「うん」と紗綾はうつむいて言った。 「で、どんな人なの」 弥生が好奇心満々に乗り出した。 「うーん」 紗綾は思いだそうとして、はっとした。ぬいぐるみに気を取られて、くれた相手がどんなであったか、殆ど覚えていないのだった。 「それがね、背が高かった」と紗綾が小首を傾げながらいった。 「すごい、背が高いんだ。ワンハードルクリアね。で」と言って、弥生が眼鏡をずり上げた。 「で、って言われても。白いワイシャツ着てたかな。ズボンはいて」 「そりゃそうでしょう、ズボンはいてなかったら大変。だから、顔は?」 「顔は…」 「色白とか、色クロ系とか、鼻は高いのか、低いのか、面長か、丸顔か、かっこいいのか、ださいのか、とかとかとか」と弥生がせっついた。 「うーん、わかんない」と紗綾は途方に暮れて頭を抱えんばかりになった。 「わかんないって、誰かに似てるとかないの。テレビに出てくるような」と弥生が眼鏡をずり上げながらさらに乗り出した。 「だから、わかんない」 「わかんないって。表現できないってこと。それともまさか、あんた忘れちゃったとか」 「だから、忘れちゃって、表現できないのよ。それによく見てなかったし」と紗綾が開き直った。 「なんでぇ?初めてゲームセンターに来て、生涯初めて男の子に声かけられてさぁ、そんなありがたい日に、よりによって、その男の子の顔とかわかんないんだって。まさか紗綾が自分から男の子に声かけるなんて、絶対にありえないし。それとも知らない男の子の前で独り言でも言ってたの?」 「だってぇ」 紗綾はもらったぬいぐるみに気を取られて、高校生の顔をろくすっぽ見ていなかったとは言い出せなかった。 「じゃ、もし今度会ってもわかんないの?」 「うん、わかんないと思う」 紗綾は心もとなげに言ったが、もしまたぬいぐるみをくれれば思い出すという望みはあった。 「弥生、どんな人か知りたい?」と環が含み笑いをして言った。 「うん。もっちろん」 曇っていた弥生の顔がぱっと輝いた。紗綾はいくら見通しの良い環でも、遠くから見て、しかもどうして覚えているのか驚いた。そうだ。環は遠視だったのだ。 「あれはね、ゲーセンのプリンスっていわれている奴よ。何でもこのあたりのゲーセンを荒し回って評判だったみたい。物が賭かるとやたら強いんですって。総なめにしたらしいけど、このとこだいぶ大人しくなったみたいよ」 「ゲーセンのプリンス」と、弥生と紗綾が声をそろえた。 「そんな、有名人なんだ」と言って、弥生は中指で眼鏡をずり上げて、レンズごしに紗綾をじろりと見た。紗綾は赤面してうつむいたが、ゲーセンのプリンスの顔を思い出すことはなかった。  紗綾がプリンスの顔を記憶にとどめなかった一方、その丸い童顔を心に焼付けている香理がゲームセンターの隅にいた。背中までのばした長い髪にはくせがなく、色白の顔に映える大きな目は、長い睫毛で縁取られ、深い輝きを発している。鼻は、やや小さく上向きだが、その鼻より小さい口元は、唇の適度な厚みによってその存在を誇示できた。背は高く、短いスカートの下から伸びる脚は、陸上選手とは思わせぬ細さだった。真っ白なソックスがさらに細さを引き立てているのだろう。片隅にいても、周囲を照らすような光が差すのだ。街を歩けば、誰もが振り返った。振り返った者は、香理の細い小指のわずかな動きにも心ときめくような、不思議な感覚に襲われた。 今だ、嫉妬など感じたことはない。何故なら、望んだ物は全て、人の心でさえ手に入ったのだから。その彼女が、見逃さなかった紗綾は、彼女が気にとめるにはあまりにも幼く、印象に乏しい顔だった。あえて目立つと言えば、前髪を眉ぎりぎり、サイドを耳たぶの高さでぴっちり切りそろえているのに、後ろに伸びる髪は長く、生まれてから切ったことがないように腰のあたりまで長くて、毛先が不ぞろなことだった。眉は子どものようにぼさぼさと弧を描き、腫れぼったい瞼に似合わせない長いまつげと丸い瞳が色白のふっくらとした顔を人形のように見せている。小さな鼻と口は、見る者に決して警戒心を与えない。しかし美人というにはほど遠い。亮が何故、そんな幼な顔の子に口をきいたりするのだろう。香理は、初めて沸き上がる思いをかみしめていた。  白猫のぬいぐるみは弥生の人形棚に、ピンクの猫は、紗綾の枕元に置かれ、それらをもたらしたプリンスはすっかり忘れ去られた。色とりどりのゲーム機は、一学期の期末試験の合い間に見た夢のようなものだった。誰にでも忘れられない夢があるように、紗綾にとって初めてのゲーセンは鮮やかな色付きの夢だった。ユーフォーキャッチャーのガラスケースであり、キャンデー落しの機械だった。 二、別荘 「なんか、楽しかったね」と、弥生が電話の向うで言った。 「うん」 電話のこちら側では紗綾がいつものように丸い顔をして相槌をうっていた。 「ねえねえ、夏休みにも入ったことだしどっか行こうか」と弥生が思いついたように言った。 「うん、でもどこ」 「そうねぇ、どっか。そうだ、環をさそってみようよ。そうすれば、楽しいとこ知ってるよ」 「うん」 「じゃ、私電話してみるから」  夏休みに入ったばかりのある夜のことだった。退屈に耐えかねた弥生は、紗綾もどっぷり退屈に浸っていることを知って安心した。そして解決を図るべく、やはり同じように暑い夏を過ごしている環の声を聞くことにした。 環がいった。 「ファミリーパークはどう」 「うん、行こう。でも遠くない?」と言って、弥生が迷った。 「大丈夫。うちの別荘があるから」と環は自信満々に言った。 「え、環のうちの別荘に行ってもいいの?」 「うん、ママに聞いてみるけど、大丈夫よ」  こうして、環と弥生の企画は瞬時に決り、五分も経たないうちに紗綾のもとに知らせが走った。 「環んちの山中湖の別荘に行ってもいいって」 「えー、別荘に、本当に。でも、おそうじしたりしなきゃなんないんじゃないの。クモの巣とか張ってたりしないの?」紗綾は、テレビでよく見る古めかしい山荘を想像した。 「マンションだから、大丈夫よ。管理人の人がいて、掃除もしてくれてるんだって」 「え、すっごい」 「外が見える大きなバスルームがついているんだって」 「え、外から見えるバスルーム?」 「外が、こっちから見えるの。もう」 「でも、三人だけで、夜なんか恐くないかなぁ」 「金曜日なら、夜は環のおかあさんが来てくれるんだって。帰りは、車で送ってくれるって」 「すごい」 「ご飯も、環のママがきっと近くのレストランでごちそうしてくれるってさ」 「ゴーセー」 「ほんとね」  待遠しかった週末の電車は、同じ様なグループで華やいでいた。向かい合わせの列車の席で話はつきず、スナック菓子とジュースを手に、三人の声はにぎやかに弾んだ。  電車から乗り継いだバスを降りると、紗綾は小さめのボストンを下げ、弥生は紗綾がつめ忘れているであろうシャンプー、ドライヤーの類、膝掛までを入れてぱんぱんに張ったボストンをぶらさげていた。環は唯一の原色の持ち物である、トリコロールカラーのディパックを、右肩に掛けゆっくり歩いた。 「ねぇ、何する?」と紗綾がぼうっとして聞いた。 「何って、何か乗るんでしょ」と弥生があきれ顔で答えた。 「乗るって何に」と言いながら、紗綾はまだ遊園地で何をしていいか戸惑っていた。 「だから、乗り物。じゃ、紗綾はあれに乗る?」  弥生の指した先には、機械の強音とそれにかき消さんばかりの悲鳴を乗せてぐるぐると回りながら走っているジェットコースターがあった。 「えっ」  しりごみする紗綾と弥生を尻目に環はすでに二度目の挑戦をしていた。 「いいかげんにしてよ、ねえ。環ったら、何が楽しくって、何回もあれに乗るのよ。見てるだけで、気持ち悪りい。それにひきかえ、紗綾のおつきあいは、あのなんてことはない観覧車とか、子供用の電車とか」 「だって、年齢制限や身長制限のあるやつは恐くって」  ジェットコースター乗りから脱落して久しい二人が環を再び見つけた。 「見てよ。環ったら、もう七回目よ。あれ、さっきもそうだったんだけど、変な男と一緒に降りてくる」 「変な男?」と言いながら、紗綾が短い首をニュッと伸ばした。 「うん」 弥生が中指で下がる眼鏡をゆっくり上げた。 「どんな」 「どんなかっていうと、背は高い。髪は茶髪、短いけどね。顔は、面長。鼻高め。ズボンだぶつき気味。ピアスは金」と弥生が眼鏡の奥の小さな目を凝らして、忠実に伝えた。 「え、ピアス?」 紗綾がさらに首を伸ばした。 「うん、左だけ。わっかのやつ」 弥生は詳細なレポートを続けると紗綾が驚いて叫んだ。 「げっ」 「ぶらさがってるやつとかじゃなくていいじゃない。いかにも女物してますってなっちゃう」 「だって、ピアスしてんの?男で。そんなのと、環が一緒に歩いてんの?」 「うん。でも変」 「どう変なの?」 「しゃべってない」 「何してんの」 「なんか、目もあわせてないみたいだけど。おっと、火花散りがち。どうなってんだろ。行ってみよっか」 「うん」  二人は、まさに今降りてきた環の両側を囲んだ。 「着陸のご気分は?」と弥生がおどけてそう言うと、環はそっけなく言った。 「どってことないわ。もう何回乗っても同じね。やーめた」と環は後ろを歩くそのピアス男に聞えるように言った。 「こんなチョロイの何回乗ってもばかげてるよね。やめた、やめた」 「そーよ。もっと楽しいの乗りに行こ」  弥生は環がそのピアス男と張り合っていたことを知り、早々に退散を決めこんだ。環との長年のつきあいからそうしなければ危ないと身をもって知っていた。紗綾は何もわからず、丸顔をよけい丸くして後をついて歩いた。 「ご飯食べよ」と弥生が明るく振る舞って言った。 「うん」 「こうゆう時は、ご飯に限る」と弥生が声をひそめて紗綾に言った。 「うん。でもこうゆう時って?」と紗綾が言った。 「環、さっきの男の子と張り合ってたみたい」 「そう?」と返事をしながら、紗綾が丸い顔に付いている眉を精いっぱい上げた。 「初めは、あのジェットコースター乗るのに座ったじゃない。次の時は立つやつで、その次の時は、両手離してたでしょ」 「そうだったかしら」 紗綾は全く気づかずにいたのだ。 「そこまでくると、あと何回乗ってふらつかずに降りられるかって、あの子とやってたのよ」 「ふうん。でも何もしゃべってなかったよ」 「環はね、眼で物言うのよ。あの子も同じタイプ。ちょいかっこいいけど、不良ね。どうせことの始まりはちょっと肘が出っぱてて、あたったとかさわったとかそんな些細なことなんだから」 「え、不良なの?」と言って、紗綾は亀のように眼をぎゅっと閉じて、首をすくめた。本当に恐がっているのだ、 「そういうときは、ひきあげるに限る」 「どうしてわかるの?」と、やっと少々首をのばして紗綾がたずねた。 「幼稚園時代からのつきあいだからね。何度恐い目にあったことか」 環と弥生は、付属幼稚園からあがってきたのだった。紗綾は中学から入学した。手を洗って戻った環には、苦労話をしていたことなどみじんも感じさせないように、弥生は環の方を振り向いてにっこり笑った。 「ピザ、買っといたよ」 「うん、ありがと」そう言いながら、環の目は、ハンバーガーショップの隣にぎっしりとつまっているゲーム機に注がれていた。  前回と同じように、弥生はマメに野菜のキーホルダーをとり、環はレースゲームに興じ、紗綾はスベスベしたクレーンに引っかかりそうで、するっと落ちていくユーフォーキャッチャーのぬいぐるみを見ていた。そのうちに、玉なげで高得点を出すと大きなクマのぬいぐるみが当たる原始的なゲームが紗綾の目を射った。特に玉ものが苦手な紗綾は決して自ら挑戦するような無謀はせず、人が玉を投げてははずし、せいぜい取れても小振りなクマを手にするのをじっと見ていた。  スポーツカーの運転をすませ、いつも通りハイスコアに入った自分の名を入れようとした環の目をベストワンの名がとらえた。入力もそこそこに環はあたりを見回し、コインおとしで日銭を稼いでゲームを続けようと食いさがる弥生を見つけて駆け寄った。 「ねぇ、ねぇ、弥生」 「なに、環。今忙しいのよ。三つ落とさなきゃならないんだから。もう、このっ」と言って、弥生は必死の形相をしながら機械を両手でたたいた。 「ほら、貸しなさいよ」と言って環は弥生の手から残り少ないコインをもぎとると、無造作にスロットマシンに投込んでバーを引いた。あまりのすばやさに、弥生はその手を止める間もなかった。 「あ、あー。コイン。私の」 「大丈夫よ」 スロットマシンが率のいい当りを出し、コインが増えて戻ってくると、弥生は口をあんぐり開けた。 「環すごい。またやって」 「一回きりよ」 「どうしてわかるの」 「勘よ。それより、こないだの、ゲーセンのプリンスきてるわよ。どっかにいるはず」と言いながら環は遠目をきかせた。 「えー、何でわかるの」と弥生が目を見開いて言った。 「レースのベストワンに名前があったのよ。見てみたらレーゲーというレーゲーに自分の名前入れてさ。何も全部にいれることないじゃないのよね、姑息な奴。くそっ」 「だって、今いるかどうかなんて」と弥生が言った。 「入力した時間が、ちょっと前なの」 「ふうーん。だって、横浜からこんな遠い所に本当に来てるの?」と弥生が辺りを見回しながら言った。 「絶対どっかにいる」と言いながら、環も遠目の利く目で見回した。 「ふーん、どっかにねぇ。あっ、あーっ」 弥生が吹き抜けになっている真ん中から二階を見上げて、口をあんぐり開けた。 「いた?いたの?」と環が聞いた。 「いたいた。なんと紗綾も」 「紗綾が?」 環が見上げた視線の先に、長身の高校生と一見親しげに話す紗綾の姿が映った。 「今度は何がほしいんだよ」と亮は笑いながら紗綾に声をかけた。 「えっ」と反射的に言って、亮に気づかれたことにびっくりして紗綾が身を縮めた。 「当ててみようか。クマだろ」 「え、欲しくないよ」 「嘘いえ。昼っからずっとあのクマ見てたろ」 「そうかしら」 「で、どのクマだよ」 「え?」 「おまえ、さっきから、俺の行くとこ、行くとこに着いてきてない?」と亮が言って立ち止まり、紗綾を見下ろした。 「そんなことない…と思うけど」と言って紗綾がうつむいた。 「じゃ、おまえ、ここの前、どこにいた?」 「あっち」と言いながら短い指で後ろを指さした。 「俺も。じゃあ、その前は?」 「そっち」と、今度は指の向きを変えた。 「俺もだ」 「そう」 「で、どのくまが欲しいんだよ」 「大きいの」と言って、うつむいたままの紗綾の目が瞬時、亮のまなざしを受けた。 「一番?」 「うん」 「そいつはちょっと難物だぜ。五回ともはずせないんだぜ。例えば、九十パーセントの確率で入れるとすると、四回まではいくとして、0・九の四乗、六十四パーセントだ。でも、五回入れる率は、その九割だから、甘く見りゃ五割強。半々てとこ?たいしてかわんねえか。二百円よこせよ。取ってやるから。五分の勝負なら、二回やりゃ決められんだろ。五十たす五十は百と」 「本当に?」 「まあな。俺の理論だとな」 紗綾が、バッグから財布を取出そうとモジモジしている間に亮は足早に歩き始めていた。紗綾がやっと財布をとりだしたところに、環と火花を散らしていた大柄なピアス男、圭一がやってきた。紗綾はこの圭一の顔も今はクマに気を取られ、全く認識することはなかった。 「よう、亮。何やってんだよ」 「クマ獲りに行くとこ」 「クマ獲り?」 「ああ」と響く声を残し、亮は笑いながら階下へ続く階段をかろやかに下った。 紗綾は百円玉を二つ握りしめたまま、転ばぬようについて歩くのが精一杯だった。  環と弥生は、再び妙な所で出会ったゲーセンのプリンスの後ろを、まるで、階段を転がるマリのようについて歩く紗綾を見上げてあっけにとられていた。 「紗綾。一体何してるの」と環が大きな声で紗綾を呼んだ。 「今クマとってもらうの」と返事はしたものの、紗綾はクマ以外に注意を向けられなかった。 「クマ?」と弥生と環が声をそろえた。 「うん」 紗綾は二人にはおかまいなしに、亮のスピードに合わせようと早歩きになりながら、ボール投げにたどりついた。亮はじっと的の穴を見つめた。穴の直径よりわずかに小さいボールは、よく枠に弾かれては転がり落ちている。ゆっくりと右手を紗綾の方に差出した。紗綾は黙って百円硬貨を亮の掌に置いた。亮は、一度硬貨を握りしめてから、硬貨投入口に無造作に放り込んだ。視線は、障害物が多々あって一番入りづらそうな五十点を示す穴に注がれたままだ。ちょうど右の手元に黄色いテニスボールが転がり出た。亮はそれを手にすると、それほど気負った様子もなくふわりと投げた。黄色いボールは、思いの他ゆっくりと弧を描いて、的の周囲に林立する邪魔くさい棒と、穴にかぶさるようにさがっている景色を描いた板のわずかな間をぬい、最高点の五十点の穴の真ん中に吸込まれるように落ちていった。 「おう」 弥生や環につられて集ったギャラリーが、溜息のような声をあげた。赤いランプが点滅し、表示板に五十点の点があがった。二つめのボールがころりと手元にくると、亮はそれを拾い、今度も何の気負いもないようにふわりと投げた。乱れたわけでもない亮の前髪がハラリと高い鼻の上にかかった。 「おうっ」 ボールが穴の真ん中に落ちると、再びギャラリーが声をあげた。三つ目も何のことはなしに五十点の穴にしずめた亮は四つ目も同様に入れ、トータル点は二百点を示していた。最後のボールを手にすると、亮は紗綾を振向いた。 「こいつが難物さ。何でか、最後はいつも五分五分なんだよ」 そう言って笑うと、的に向ってかまえた。太い眉が、男にしては白い頬にきわだち、夏だというのに冷たくさえ感じられる張りつめた空気に若干口元をゆがめた。紗綾は何も考えず、亮の横顔を見守った。白いうなじにかかる長めの髪がクーラーの風に吹かれた。  ボールは、亮の白く長い指から離れると今度は、わずかにその軌線をゆらがせた。 「あ、あーっ」 ギャラリーは惜しそうな声をあげてボールの行方を憂いた。  亮が最後に投げたボールは、五十点の穴をまるで避けるかのように隣の四十点をしるす穴の枠にあたり、螺旋を描きながら落ち込んでいった。 「おしいっ」という声が、ギャラリーの誰ともなく口をついて出た。 グリーンのユニフォームを着た若い係の女の子が、我に返って大声で叫んだ。 「おめでとうございます。二百四十点、二等です」景品の棚に走り寄り、大きなクマの両隣に一個ずつ座らせてあるやや小振りなクマの一つを取り、亮に差し出した。 「いいよ。いらない」 亮は女の子の方を見ずにそう言うと、紗綾の方を振り向きざま言った。 「ワン、モア、百円」 紗綾は握りしめていた残りの硬貨を差し出した。 「いらない?」 係の女の子は、事態がのみこめず、クマを持ったまま立ち尽した。 「俺が欲しいのは、あのでっかいやつなんだ。」 亮はねらいを定めるように大きなクマを指さして片目を閉じた。  硬貨を軽く握ってから、一回目と同じように投入口に放ると、今度もごく自然な弧を描いて、黄色いボールを五十点の穴にいれた。二回目、三回目、四回目。ギャラリーは、ボールが五十点の穴に吸い込まれるのを当然の事のように見守った。そして、最後の一つになったとき、亮は紗綾をちらっと振り向いて笑い、片目をつぶった。紗綾は身じろぎひとつせずに丸い目を見開いている。最後のボールも、先の四回と全く同じようにゆっくりと落ちついた弧を描いた。そして、五十点の穴の真ん中にすうっと沈んだ。 「おお」とギャラリーの溜息が一斉に声になった。 「よしっ」と亮がつぶやいた。 再び我に返った女の子が、一段と高い台に置いてあるひとかかえもありそうなクマの人形を持ってやってきた。 「おめでとうございます。一等です」 亮は片手でクマを受取ると、それをそのまま紗綾に差出した。亮は紗綾がそれを抱くのを見ると黒い瞳に優しげな光をたたえて笑った。 「じゃあな、可愛いがれよ。おまえにぴったりだよ」 「そう?」と返事はしたが、紗綾は殆ど亮を見ずにクマを抱えて、なでまわしていた。 その時だった。 「何で、はずしたの?」 ギャラリーがちりぢりになるのを見計らったように、突然環が通る声で言った。 「はずしたって?」と、亮が歩みを止めて振り向きながらいった。 「そう、入ったはずなのに」 「へただからさ」 身じろぎひとつせずに見つめる環に、亮が受け流して答えた。 「そんなはずないわ」と言いながら、環が一歩踏み出した。 長身な亮よりも、さらに大きい圭一が割り込んで言った。 「よけいな事言うなよ」 「圭、いいよ、へただからはずしただけなんだから。」と亮が圭一をなだめるように言った。 環はジェットコースターで張り合った相手、圭一をじっと見つめた。 「なんだよ」と言いながら圭一があごをしゃくった。 「なによ」と言って環がもう一歩踏み出した。 「あー、環。環ったら、また悪いくせ。こんな所で、ナンパされたりして」と言って、弥生がとっぴょうしもない声を出しながら愛想笑いをしながら、環をかばうように間に入った。 「ねえ、紗綾。それにこんな所で皆さんに会えるなんて」 「うん」 やっとクマから気をそらした紗綾がとりあえず、相槌を打った。 「これから横浜まで帰るのか?」と亮が静かな口調で紗綾に言った。 「ううん。環んとこの別荘に泊るの」 「別荘かよ。けっ、いい身分だな」と、圭一が環に一瞥をくれてから言った。 「別荘っていってもマンションなのよ。ほら、おばけ屋敷みたいな大きな恐そうなやつじゃなくって」と紗綾が顔を真っ赤にして言うと、亮が笑った。 「そうか、楽しそうだな。そのクマもちゃんと遊んでやれよ」 「うん、どこでも連れてく。帰りは環のママの車だし」 「そうか、じゃあな」と言ってから、亮はにっこり笑うとおさまりのつかぬふうの圭一の背中を押して去っていった。 「環ったらもう。どうしてあの不良の顔みると、つっかかるのよ」 「気に入らないから」と環が無愛想に答えた。 「でしょうね。向うもそう言ってるわよ」と弥生はあきれ顔で言ってから、今度は紗綾を見た。 「まったく、どうして、私の友達っていう友達はこうもネジのはずれたのばっかなんだろう。一人は不良に絡むし、絡まれるならまだしも、絡むんだよ、不良に。しかもこんな大っきな」と言いながら弥生は掌を、頭の遥か上に掲げた。 「それに、童顔でまじめだとばかり思ってた方はっていうと、ゲーセンのプリンスにクマをみつがせるし。ゲーセンのプリンスだよ。しかもクマだよ。クマ」  じっとクマを見ていたはずの紗綾は、突然くるりと向きを変えて、クマをはたこうと出した弥生の手をいつになく素早くよけた。 「ばかにすばしっこいわね。全く。それにしても、名門セント・テレサ学園の名が泣くわよ。ゲッ、こんなことがシスターに知れでもしたら、大変。停学かしら。まさか退学じゃあ、どうしよう。」 「何言ってんのよ。ばかぁ」と環があきれて言った。 「そうよ。何にもしてないもん、私」と紗綾もクマを抱えたまま顔を丸くして言った。  それは紗綾が、別荘という言葉から想像するようなお屋敷でこそなかったが、白い壁が眩しい大きなマンションだった。 「わぁ、すてき。こんなマンションに入ったことも無いわ」と弥生が眼鏡の奥の目をありったけ大きく見開いて言った。 「ほんと。素敵」と言って辺りを見回しながら、紗綾も後に続いた。  暗証番号であく入口はその威風がよそ者を排除するのに十分だった。エレベーターを降りると、フロアを中心に鍵の手に分れ、各々の廊下の先に玄関が一つずつあった。各々の玄関からは、エレベーターを見通せないのだ。つまり、誰にも出入りを干渉されない。玄関は広く、簡単な応接セットが置いてある小部屋が続き、事務的な手続はそこですますのだろう。マンションでありながら階段がもう一つ階上に続いている。 「上は、寝室ばかりなの。客間。下はリビングとそれから自慢のお風呂があるのよ。すぐお湯入れるから。」環の後について入った浴室に二人は圧倒された。 「わぁ」と、弥生はかろうじて声を出した。 「…」  浴室というには広すぎる、大理石ばりの部屋で、台形に突き出た窓は外に大きく開いている。 「これが外の見えるお風呂」と弥生がうっとりと言った。 「外から見えるお風呂」と紗綾がぽつりと言った。 「ばかねぇ、こっちからは見えるけど外からこっちは見えないの。夜なんか素敵よ。湖と星空ががっぽり見えて」と環が紗綾のぼやきを聞き逃さなかった。環は耳もいいのだ。 「がっぽりね」と弥生が納得して繰り返した。 「掃除も行き届いて、あ、髪だ。あれ、ごみ箱にゴミ。やだなぁ、あら探しみたいで」と言いながら、弥生が長い髪の毛を摘んでいった。 「え、そんなはずないわ。いつも木曜の朝に掃除が入るのよ。週末に来る人のために。いつもすみずみまできれいよ。おかしいわ」 「いいじゃないの。管理人さんかわったんじゃないの。それに、基本的にはきれいよ」と弥生が妙に神経をとがらせている環をなだめるように言った。  高校生三人の夜はにぎやかに始まった。 「ねえ、紗綾。どうしてあんたは夏休みになってまでそういうお嬢さんスタイルなのよ」  色白の丸顔に、その形をより強調するように切りそろえられた前髪は、眉をぎりぎりに見えかくれさせている。サイドは耳たぶの下でちょっきり切りそろえられているのに後ろは、腰のあたりまでとどくかと思われるほど長い。 「だって、夏になったからって、急に前髪が伸びるわけじゃないし、はやりのワンレンなんかにできないよ」と紗綾は丸い顔がよけい丸く見えるように顎をあげた。 「紗綾のは、彼女のスタイルだからいいのよ。今時そんなおひーさん髪している子いないからさぁ。どっからでもすぐわかって、目印になっていいよ」と環が言った。 「そうね。お姫様みたいでいいかもね。そういえば紗綾っておひーさんみたいだもんね」 「え、ほんと?」と紗綾が丸顔を輝かせた。 「うん、なんか浮世ばなれして、ぼーっとしててさ。それにプリンスにクマ貢がせるとこなんか、おひーさんとして堂に入ってるよね」と環が言った。 「なあんだ。お姫さまみたいに可愛いとか言うのかと思った」と言うとふっくらした紗綾の顔がますます丸く見え、弥生が大きな口を開けて笑った。 環は大人っぽく含み笑いをした。 「環は、背が高くっていいよねぇ。顔も小さいし、ほんと八頭身に近いよね。これで気さえ強くなければね」と弥生が言った。 「近いって。それに気が強いって何よ」と環が不服そうに聞きとがめた。 「気、どこのどのへんが弱いっての?あんな不良相手にして。冷や冷やしちゃうよ、全く。ま、いっか。で、何頭身かって話だっけ。八頭身て言いたいとこだけど、環はやっぱ頭の身が詰っている分、少し大きいよね。七・五頭身かな。髪は今みたいに短いのがいいよね。七・六頭身にはみえるよ」 「0・一だけ?」 「うん、ぜいたくよ。0・一だって、重要。あたしなんか、背が低くて頭が大きいじゃない。何頭身かなんて計算したくもないわ」と言いながらセミロングの弥生が、眼鏡をずりおとしてうなだれると、何とも情けなかったので、紗綾はなぐさめるつもりで言った。 「じゃ、弥生も環みたいにショートにしたら」 「あたしの場合、短くすると、丸だしになってよけい大きな顔に見えるのよ」 「あら、そう」とまずいことを言ったと悟り、紗綾は首をすくめた。 「弥生は、やせてていいじゃないの」 「そうかしら」 「そうよ。だからそういう、ノースリーブを着られるのよ。しかも色は膨張色のピンク。あたしみたいなのが着たら変でしょ」  大柄な環はいつも寒色系のかたい印象のシャツを着ていた。そうなのか、と紗綾は思った。 「そう、そうなのよ。わかってくれる?これでいて、私結構大きく見えないようにとか、気を使っているのよね。タートルって好きなんだ」 「ふうん」 「紗綾は?」と弥生が感心ばかりしている紗綾を振り向いて尋ねた。 「さあ」 紗綾は自分の身なりに気を使ったことなどなかった。 「さあって、服とかどうしてるの」  紗綾はフリルがついた丸襟のブラウスに目を落した。短めだが、プリーツのおとなし気なチェックのスカートが、白いブラウスに続いている。 「だって制服あるし。それに、おかあさんが買ってくれるから」 「ふうん、おかあさんがね。でも、あってるよね。紗綾のそのおひーさん顔にさあ」と弥生が慰めた。 「そうかしら」 「さあ、もう寝るとする?ベッドルームに行く前にシャワーかな」と環が言うと、弥生と紗綾は立ち上がった。 「ねぇ、ねぇ。ドレッサーに忘れ物。ママのじゃないの」 トイレから戻った紗綾が弥生と環の間にぼうっと割り込んだ。 「わぁ、高級品のルージュだ」と弥生がいった。 「ルージュ?」とやはりぼうっと紗綾が言った。 「くちべにのことよ」弥生が青い容器を紗綾から取り上げ、目の前にかざして叫んだ。 「わ、外国製。やっぱ、こういうところで塗るのは、高級品でないとねぇ」と感心する弥生の手からルージュをゆっくりと取り上げて環が見つめた。 「ママのじゃない?今日渡せば」と弥生が言った。 ルージュを見つめたまま、環がきっぱりと言った。 「ママのじゃないわ」 「どうして」と言いながら弥生がいやな予感にかられた。 「だって、ママは」 「このブランドは使わないんだ。でも、貰い物で仕方なしに使ったのかも」とは言ったものの弥生が環の考えていることを察した。 「ママ、香りに敏感だから、他のは絶対使わないの」と、弥生にというよりは、自分に対して言い聞かせるように環が言った。 「え?」 弥生はそれきり黙り、変な拾い物をした上に、事の次第もわからずにいる紗綾をにらんだ。  帰りの車の中では、後部座席の真ん中に巨大なクマが鎮座ましますことになった。それからクマは、ピンクの猫とともにこじんまりした紗綾の部屋におさまることになる。  環の母が運転する大きな外車の乗り心地に弥生はうつら、うつらと船をこぎ、紗綾はクマの毛づくろいに余念がなかった。環はいつになく寡黙だった。長い髪にゆったりとしたウェーブのパーマをかけ、サングラスをする環の母は、大柄で人目を引く。ただ環はこの女らしさに反発していた。その母が知ったら、どうなってしまうのだろう。ドレッサーに忘れられていた母のものではないルージュ。環は母の横顔をみつめ、ルージュを握りしめた。 三、ゲーセンの対決 「こんなとこで、学校の宿題とかやってると、腐りそうになるよ、全く」 環が紺のタンクトップの肩をぽりぽり掻きながら言った。 「ほんと。でもやんなきゃ終わらないし」と弥生は、鉛筆を離さずに眼鏡をずりあげた。 「そうよね」と言いながら紗綾は、丸顔と同じくらい丸いせんべいをかじった。 「あんたよく食べるわねぇ。食べるのに育たないわね」と、座っていても紗綾の三割は大きい環が言った。 「そうかなぁ、横には育っているよ。平均以上だもん」と言いながら、紗綾が休む様子も見せずにせんべいをかじった。 「紗綾って、ノーテンキねぇ。やせようとか思わないの」と弥生が眼鏡ごしに紗綾を見て言った。 「思わない」と、いつになくきっぱり紗綾が言ったので、その話はそれ以上進まなかった。 「ねぇ、きりのいい所で、気晴しに行かない?」と環が話題を変えた。 「うん、行こう。お昼食べたらでかけようっか」と言って弥生が今度は鉛筆を置いた。 「うん、うん。」と言いながら紗綾が丸い顔をころがさんばかりにふって頷いた。 出かけてきたゲームセンターで弥生が眼鏡をずりあげながらぼやいた。 「全く環がこんなに賭博好きとは思わなかったわよ」 「ほんと。楽しいけれども、私、アッという間にお金がなくなっちゃて」とゲーム機の様々な音にかき消されがちな声のトーンをあげて、紗綾が言った。 「ねぇ、ねぇ、紗綾。いるわよ」と、弥生が遠くを指さして言った。 「なにが?」と怪訝そうに紗綾が尋ねた。 「プリンスよ」と弥生が言うと、 「え、ほんと」と言って、紗綾の丸顔が明るく輝いた。 「でも、だめよ。プリンスにはちゃんといるんだから」と弥生が若干声を潜め、眉を寄せて言った。 「何が?」と紗綾が尋ねた。 「彼女よ。商高のマドンナよ」とさらに声を潜めて弥生が言った。 「マドンナ?」と大きな目を見開いて紗綾が言った。 「そう、紗綾はプリンスの名前くらい知ってる?」と物知りの環が言った。 「知らない」 「あらあら。まっ、紗綾には謎のプリンスの方がいいか。宇佐見亮っていうのよ。横浜一高の二年で、ゲーマーのボスなのよ」 「ゲーマー?」と紗綾が眉を上げて聞いた。 「そう、ゲーセン通いをする不良の名称よ。ゲームする人ってこと」と弥生が解説した。 「ふうん」  紗綾はうつろな返事をしながら、亮のいる方へ向かった。歩き始めた紗綾に目を見張りながら、弥生が言った。 「あんた、どこ行くのよ」 「うん。ちょっと」 「ちょっとって、まさか、プリンスのとこじゃないでしょうね」と弥生がびっくりまなこで言った。 「うん、そう」 「うん、そうってねぇあなた。あの人のそばには必ずマドンナがついているのよ」と弥生が今度は声を潜めることも忘れて言った。 「そう、でも今一人じゃない。それにいてもいいじゃないのよ」と紗綾は言った。 「いいわけないでしょう。マドンナにはとりまきだって一杯いるのよ。なぁんたって、商高のマドンナなんだから」  弥生が引き止める間もなく、紗綾は亮の座っているゲーム機の脇にたたずんだ。人影に気づいた亮は、ゆっくり顔をあげた。ギャラリーには慣れているはずの亮が、予期せぬ見物人にやや驚きをかくせぬように、目を見開いた。 「よう。また来てたのか」 「うん。この間はありがと」 「大事にしてるか」 「うん」 「見るか?」 「見てていいの?」 「いいさ」 亮が珍しく座った単純なゲームに紗綾が見入った。いとも簡単に駒を動かし、ステージをあげていく亮が言った。 「やってみるか」 「うん」 紗綾が財布から硬貨を出して入れると、亮が自分の座っていた椅子に紗綾を座らせ、スタートボタンを押した。レバーを持つ紗綾の手の上に軽く掌をのせ、亮がレバーを動かした。紗綾は場面の丸い駒の口が小さい駒を拾い、動いている色の違う駒をうまく避けているのを見て笑った。 「このパクパクゲーム、かわいい」 「そうだな、パクパクゲームか。丸くておまえの顔みたいだな」と亮が笑って紗綾を頭の上から眺めた。 「よう、亮」と言いながら圭一が足早に近づき亮の肩をたたいた。 「おう」と答える亮に向かって圭一は何も言わず、ジュースの自動販売機が置いてある一角をめくばせして指した。自動販売機のわきには、隠れるように細身の香理が立っていた。  亮はわかったというように、うなづいてから、紗綾の方に目を落してから、圭一を見上げた。 「もうワンゲームでいいから、つきあってやって」と言って、亮は手を離して紗綾の肩を軽くたたいた。 「じゃ、またな。圭一にやり方を教えてもらえ」 「うん」 ゲームに気を取られている紗綾は、うつろな返事をした。亮に代った圭一は紗綾が座っている椅子の後ろに割り込むように座り、その手を紗綾の手の上に置いた。その強引な態度に驚き、紗綾はぎゅっと首を縮めた。その拍子に駒はあらぬ方に動き回って、アッという間にゲームオーバーになった。 「おまえ、へったくそだなぁ」 「うん」と答えたものの、紗綾がおびえたように首をすくめたままでいると、圭一がまねをして首をすくめた。 「おまえ、それやめろよ。こけしみたいだぜ」 「そう?」 紗綾はゲームが終ってしまったばかりか、こけし呼ばわりされたことにさすがに気を悪くして視線を落した。そんな気持ちに気づく風もない茶髪の圭一を見て、環が張り合っていたわけがわかるような気がした。 「もうワンゲームやるか」と圭一はお構いなしに言った。 「いい」と言って、紗綾は立上がると、背伸びをしたついでに首も伸ばした。 圭一のそばにいると首が縮こまってしまうのだ。 「そうかよ。ラッキー。俺だいたいこの手のゲームは、苦手なんだよな。このちまちましたやつ。バトルでドッカンドッカンやるか、せめてスポゲーじゃないとすっきりしねえな。その上、へったくそなおまえのおもりじゃな」 「へったくそ?おもり?」と言って紗綾が丸い顔を赤くした。 「や、こっちの話。おっ。おもりが帰ってきたぜ。うかない顔してら」 亮が白い麻のジャケットのポケットに手をつっこんでゆっくり歩いてきた。 「続いてるかよ」と亮は鎮んだ口調で紗綾に尋ねた。 「ううん、あっという間に終っちゃった。あたしへったくそだから」と、紗綾が身の程もわきまえずに不良然とした圭一をにらんで言った。 「よう、亮。どうしたんだよ。ばかにはやいじゃねぇか」と言って、圭一が紗綾のにらみに首をすくめながら言った。 「うん、帰っちまった」と亮が何気ない風で答えた。 「怒らせたろ」と圭一が言うと、亮は素知らぬふりで答えた。 「何で」 「何でって、こんなガキをおもりしたりするから」と、圭一が紗綾を顎で指して言った。 「こんなガキとか、おもりとかってなに」と言いながら、紗綾は背の高い二人の間に背伸びしつつ割って入った。 「なんでもねぇよ」と茶髪の圭一は、紗綾の顔も見ずに言った。紗綾にその高い視線を落とす気もないのだろう。関心がないのだ。 「暇になっちまったよ。ゲームでもするか?」と亮は紗綾を見おろして言った。 「うん」と頷きながら、紗綾が丸い顔をほころばせた。 「亮、これ以上怒らせない方がいいぜ。後は知らねぇからな。こんな赤ん坊相手にしている暇があったら、追っかけてって、お怒りをといた方がいいと思うけどな。マドンナ怒らせるとマジ恐いぜ」 「いいさ」と負け惜しみの風もなく、あっさり言って、亮は紗綾を座らせ、数分前と同じ体勢を取って、ゲームを始めた。 「今度は一人でやってみるか?」と、子供を相手にするように、優しい口調で話しかける亮に紗綾はにっこりと笑った。 「うん」と、機嫌良く答えたものの紗綾の思うとおりに駒は動かず、右往左往している間に大きな駒と鉢合せして食われてしまった。 「あーあ、やっぱり。へたくそだから」と紗綾が言うと、亮が笑った。 「じゃ、少し手伝ってやる」 「うん」 今度は亮が画面に見入り、硬貨を入れた紗綾の手をレバーに置いてから、掌ですっぽり包んで動かし始めた。駒はスムーズにエサを拾って歩き、大きな駒も食べながら進んでいった。画面が何回かクリアされ、最終的にはベストスコアになっていた。 「これどういうこと」 「おまえのスコアが、このマシンで一番ってことさ」 「え、本当に」と目を輝かせて紗綾が後ろにいる亮を見上げた。 「そうだよ。ほら、名前入れろよ」と丸い顔を見おろして亮も笑った。 「名前って、私の?」 「そうさ。入れてやるから言ってみ」 「紗綾」 「サアヤか?」 「うん」 ローマ字で打込まれる自分の名に紗綾は見入った。 「わぁ、すごい。これいつまで載ってるの?」 「このスコアが破られるまでさ」 「わぁ、すっごい」 紗綾は、画面の自分の名を見て嬉しそうに笑った。 「わぁ、この二番目の人は?」 「俺だよ。リョウってかいてあるだろ」 「え、あ、そうなんだ。どうしよう、みんなこれ見ると、サアヤって誰だと思うかなぁ。わあ」 「三番目は、ケイ、圭一だよ」 「ああ、さっきの人」と紗綾がそっけなく言った。 「うん。悪い奴じゃないんだぜ。おまえ何年生だ?」 「一年。セントテレサの。環と弥生も」 「そうか、まだ中学生あがりか」 「中学生あがりなんて。あなたは?」 「横浜一高の二年だよ」 「よく来てるんでしょ。でもこんなゲーム好きじゃないんでしょ。さっきの人が言ってた」 「そんなことないさ」 「いつもどんなのやってるの?」 「レーゲー。レース。それかスポゲー、スポーツゲーム。バトルは滅多にしない。性に合わないんだ」  亮が言い終らぬうちに走り込んできた弥生が息せききって、切り出した。 「紗綾、大変よ。大変」 「何がぁ?」 「ノーテンキな声出している場合じゃないわよ」 「別にノーテンキしているわけじゃないけど」 「何、これ」 「ハイスコア出したの、私」 「うっそぉ」と、弥生がため息とも区別の付かぬ腑抜けた声で言った。 弥生は急ぎの用事も半分忘れて画面に目をやってから、その向うに立っている亮をちらりと見た。 「ふうん。ブッキーの紗綾がね」 「ブッキーって?」 「ブキヨウのことよ」 「ああ、そう」 「そう、それより大変なのよ」 弥生が切り出そうと口を開いたところに、眼鏡をかけた刈り上げの小柄な少年が割り込んだ。 「亮、圭一がやりあってんだよ」 「誰と」 「こともあろうに、女を相手に」と刈り上げが声をからしていった。 「女?マジかよ」と少々のことでは驚かない亮が声のトーンをあげた。 「それが、こおんなでっかい女でさ。こえーの」と、刈り上げは頭の上に掌をかざしていった。 「あ、タマ…」と紗綾が口ごもった。 「そうなのよ、環が例のでっかい高校生とけんかしてるのよ」と言って、弥生がことの次第に結論をつけた。 「けんかぁ?」とさすがの亮が慌てていった。 「亮、ほっとくとやばいぜ。圭一がチョー熱くなっててさ、止まんないんだよ。このままじゃ、マジ、ここも出入り禁止になるぜ」 「ここも?」と言って、弥生がうさんくさ気に小柄な高校生を見た。 刈り上げに黒縁の眼鏡をかけ、とても亮や圭一らゲーマーの仲間には見えないのだった。 「何でけんかなんか」と、紗綾が床に眼差しを落として言った。 「どうせ、バトルで、張り合ったんだろ。でも、圭一がそんなに熱くなるとはな」  四人は、急ぎ足で、環と圭一がにらみ合っているゲームセンターの中程に向った。二人は、発情期のオス猫同士が鉢合せしたかのように逆毛をたてんばかりにして、立ちはだかっている。 「きったない手ばかり使いやがって。弱い奴に限ってそうなんだから」と言いながら、環が羽織っていたブルーの薄いジャケットを勢いよく脱いでそばのゲーム機にたたきつけた。 「負けてくやしけりゃ、もっとやってからきなよ」と圭一が鼻で笑う風に言った。 「男なら、堂々と勝負したらどうなのよ」 「だいたい、セントテレサガクエンの嬢ちゃん達が、こんなとこに出入りしちゃいけないんだよ」 「なんですって。姑息な手でしか勝てないくせにつっぱるんじゃないわよ」 「タ、タ、タマキ」とつぶやく弥生が間に入る余裕もなく、二人のやりとりが続いた。 やりとりにはおかまいなしに、紗綾が圭一の前に立った。 「な、な、なんだよ。そのまん丸い顔ひっこめなよ。おまえみたいな赤ん坊の出る幕じゃねえんだからよ」と、不意を突かれた圭一が言った。  紗綾は目を丸くし、頬をふくらませた。あきらかに、ここのところになく気を悪くしていた。紗綾が何と言い返そうかと思案した瞬間、亮が斜めに身体を入れ、圭一の耳元に何かささやいた。圭一は憑き物が落ちたかのように、おとなしく亮に促されてくるりと後ろを向いた。環はそれを見逃さずに怒鳴った。 「何よ、逃げるの。じゃ、あんたのこのいんちきハイスコア消してから行きなさいよ。卑怯者、いくじなし、とんちき」 「と、と、とんちき?」と言って目を見張り、圭一が再び百八十度向きを変えた。 「とにかく外に出よう」と、亮が穏やかな声にいらだちを隠しきれずに言った。 「あ、そうそう。ここにも来られなくなるわよね」と環が勝ち誇ったように言った。 「ここにも?」とまた弥生がつぶやいた。 「そうよ。紗綾、この間クマをとってもらった時、この人一回目はわざとはずしたのよ」 「わざと?」紗綾がやっと口を開いた。 「そう。一回でしとめられるのに、そうすると目立つから」 「ふうん。でもあれでも十分目立ってたけど」と弥生が思い出して言った。 「こ、こ、この人ったら、ユーフォーキャッチャーでケースの中のぬいぐるみごそっと全部つりあげて、横浜のゲーセン出入りできなくなったのよ」と言って、環が鼻息を荒くした。 「ぜ、ぜ、ぜんぶ」と繰り返しながら想像を巡らせて、紗綾が目を輝かせた。紗綾の頭の中はユーフォーキャッチャー一杯のぬいぐるみで占められた。 「そう、全部。それを誰かにみついじゃったんでしょ」と環がすべてを暴露すべく言った。 「み、み、みついだ」と紗綾が口にしてから赤面した。 「そう、商高のマドンナに」 「そう、マドンナに」と弥生が繰り返してから、紗綾のがっかりした顔を見ようと踏み出したが、紗綾は一緒に感心してうなずいているだけだった。 「みついでやしねぇよ。欲しいって奴にやっただけだ」と亮が不機嫌そうに言った。 「ほしい」と、その時突然、紗綾が叫んだ。 「ケースに一杯、猫のぬいぐるみが欲しい」 「わかった、わかった。また今度な」と収拾のつかなくなりそうな状況に業を煮やしつつも、亮はなだめるように言った。 「ほんとに?」と紗綾は、環と圭一の喧嘩そっちのけで亮の前に立ちはだかった。 「ああ、機会があったらな」と亮が辟易しながら言った。 この混沌をした状況をどう収集したらいいのか、もう誰もわからなくなっていた。しかも、さらに紗綾が続けたのだ。 「なんだぁ、それはまたいつかとか、出来たらとか言う、お愛想って奴ね」 「だって、こいつらがこんなじゃ、無理だろ」と亮がいいわけがましく言った。 「こんな?」と言いながら、紗綾はケース一杯のぬいぐるみの障害になるものは何でも解決する決心で尋ねた。 「ああ、おまえのその親友と、俺の友達がこうやって猫みたいに派手なけんかしてちゃなぁ、近いうちにまた会いましょうね、なんていえるか」 それを聞いた紗綾が、突如として目をつり上げて、怒鳴り始めた。 「環、けんかはやめてちょうだい。あたしは、ケース一杯のぬいぐるみが欲しいのよ」 「紗綾、あんたは、ぬいぐるみの方が友達より大事なの?」と動じることのなかった環がいささか色を失って、両手で紗綾を振り向かせながら言った。 「友達の方が大事だけど、友達のけんかよりは、ずっと大事だわ、ぬいぐるみの方が。それも一こや二こじゃなく、ケースごとよ」と言いながら、紗綾の目はまばゆい財宝を見るかのように細くなっている。 「わかった。今度、必ず。じゃ、あばよ。おい、圭一とにかく外に出よう。ここはまずいぜ」と亮に腕を捕まれて、圭一はしぶしぶ歩き出した。 「卑怯者。逃げるのね。まともにやったら、勝てないくせに」と、環は圭一の背中に罵声をあびせかけながら、出口まで続いた。 ゲームセンターを出た瞬間、突然圭一がくるりと向きを変えた。 「てめぇ、いい加減にしろよ」 その気迫に弥生は三歩も後ろに退いた。紗綾はびっくりして逃げ遅れ、圭一の目の前に立つことになった。その後ろに背の高い環。圭一のまなざしを紗綾の頭ごしに、まっすぐうけて立っている。 「卑怯者のいかさま野郎。腰抜けのつっぱりそこない。負けそうになったんで、ソフトの穴狙って終わりにしたんじゃない。わざとフリーズさせて。いくじなし」と環は思いつくありったけの悪口雑言を口にしようとしていた。 「そうよ、そうよ。とんちき、マヌケのちょこざい野郎」と弥生が圭一と環の間に割って入った。言った後で、弥生が亮に小声ですばやく呟いた。 「お願い、あやまらせて。環は一旦火がついたら、消えないのよ。あたしはこの手のことで一体何度痛い目をみてきたことか。おねがい」 「何だよ、おまえ」と、いつのまにか加わっていた、刈り上げの眼鏡が輪を縮めた。 「何よ。あんたこそ、この刈り上げ坊主」と言いながら、刈り上げを逆撫でせんばかりに手を出して、弥生が言った。 「な、な、何すんだよ。この三頭身」と刈り上げが、くやしまぎれに言うと、冷静だったはずの弥生がいきなりまくしたて始めた。 「さ、さ、さんとーしんですって。なによこのメガネ坊主の葱坊主。刈り上げすぎて丸坊主。おまえなんか二頭身」 弥生の顔が赤くなり、既に環のけんかの仲裁の件はそっくり忘れ去っていた。 「あ、あーっ」 二カ所で火花が散っているその時だった。紗綾が妙な声を出して遠くを見た。気づいた弥生も同じような声を出した。 「あ、あーっ」 「なんだよ」とメガネが言った。 「紗綾のおかあさんだ」と今度は三頭身の恨みも忘れて弥生がメガネに答えた。 「ほんとだ」と環も我に返ってつぶやいた。 五人がすうっと、紗綾の視線を追うと、栗色のショートヘアが高い背丈を細身に見せている中年女性が足早に歩いており、みるみる近づいてきている。 「こっち、くる」と環が言った。 「ほんとだ」と言いながら、弥生がいきなりにっこり笑って、手を大きく振った。 「おばさまぁー、こっちこっち。こんな所でお会いできるなんてぇ」と突然愛想良く話し始める弥生に紗綾は驚いた。 「まぁ、皆さん。今日は。こんな所でお会いできるなんて」 「ええ、私たちこそ。お会い出来て嬉しいですわ。お急ぎですかぁ」と弥生は、助け船にしっかり乗り込むつもりでいる。 「いいえ、おじゃまじゃないかしら。ボーイフレンドのような方々もいらしたりして」 紗綾の母は、うすく色の付いた眼鏡の大きめな枠を指でつまんで、ボーイフレンドのような方々をよく見るふりをした。 「いえ、そんなんじゃないんです。けっしてそんなんじゃ」と弥生が必死に言った。 「じゃ、お茶でもいかが」と紗綾の母がにこやかに言った。 「わぁ、素敵」と弥生がおおげさに喜んだ。 「そちらの皆さんもいかが」と紗綾の母が亮達の方を見て言った。 「そちらの皆さんはいいんです」と弥生があわてて言った。 「おかあさん、この人、ぬいぐるみくれたの。だからお礼にお茶ごちそうして」と紗綾にしてはきわめて素早く口をはさんだ。 「まぁ、そうなんですか。いつまでもぬいぐるみ好きの子供なもので、大喜びなんですよ。それでは、皆さん行きましょう。弥生ちゃんのお気に入りのとこへ」 「わぁ」と弥生が歓声をあげた。 「おれはいいよ」と圭一がふきげんそうに言った。 「せっかくだから、いいじゃないか」と亮は、穏やかな笑みを浮べて言った。 「お気に入りって、どこだよ」とメガネが弥生になれなれし気に言うと、弥生は鼻をうごめかしながら、声をひそめて言った。 「グランドホテルのお茶室。あそこのオレンジケーキおいしいのよね。大好き」 「ふうん、グランドホテルかよ」とメガネが圭一と亮の方に向って言った。 「おれは、いい」と圭一が大きな図体に似合わせない小声で言った。 「グランドホテルか。いいじゃないか」と亮は軽くあごをしゃくりあげて、圭一を見た。 「しょうがねぇ、行くか。」と圭一が観念したようにうなづいた。 「グランドホテルのオレンジケーキかよ。食ってみてえ」とメガネは好奇心丸出しの目を眼鏡の奥から輝かせている。  弥生の好物のオレンジケーキが野いちご模様の皿に上品に載ってくると、圭一の前ではあまりに小さく見えた。 「皆さん、何してらしたの?」と、紗綾の母が穏やかに笑いながら尋ねた。 「けんか」と、メガネが言い終らぬうちに、弥生がそのすねをしたたか蹴飛ばした。 「まあまあ、お元気だことねぇ」 紗綾の母は、聞えたのか聞えなかったのか、環を見て笑った。環も紗綾の母の手前、顔をひきつらせて笑っている。亮はチーズケーキをフォークで取って口に運んでから、紅茶茶碗からのぼる湯気ごしに、紗綾と母を交互に見つめていた。母は紗綾を見て目を細めて笑っている。 「そうそう、大きなテディベアを頂いたんでしたわねぇ。それにピンクのかわいい猫さん」と紗綾の母が亮を見て言った。亮の顔が白いテーブルに当たる日を受けて明るく照らされていた。 「そうなの。ゲームで取ったのよ」と紗綾が無邪気に言った。 「まぁ、ゲームで。難しいんでしょうね」と言いながら母が目を細めた。 「いえ、まぐれです」と、口に含んだ紅茶を飲み干し、一息置いてから亮が言った。 「そう」と返事をしたその時、携帯電話の音がした。紗綾の母の顔が一瞬厳しくなった。 「まあ、ここで、油売っていることがばれてしまうわねぇ。それじゃ紗綾、後は好きな物を取りなさいね。かあさん、先に行くから」 「うん」  紗綾の母がいなくなると、緩衝地帯を無くして、圭一と環がぎくしゃくしていた。 「これ、うめえなぁ」とメガネが気を使う風でも無く、思わず口にした。 「そりゃ、ここのオレンジケーキっていったら、東京のホテルとどっちかってぐらいおいしいのよ」と弥生が自慢げに答えた。 「へぇ。おまえくわしいんだなぁ。ケーキの類に」とメガネが心から感心したように言った。しかし、一言多かった。 「見かけに寄らず」 「み、み、見かけに寄らずとは何よ。あんたこそ、ゲーマーには全然見えないわよ。刈り上げの頭でっかちの眼鏡かけたゲーマーなんて、全国捜しても居ないわよ」 「全国は無いでしょ、全国は」 「食っているときは楽しくやろうぜ。一太」と、亮が穏やかに言った。 「へぇ、いった、か。いったなんて名前のゲーマーも全国捜しても居ないよね」と弥生が、語気をゆるめて言った。 「こいつ、沢木一太っていうんだ。おれは、宇佐見亮。こいつは原田圭一。よろしくな」と亮が弥生に言ってから、環をチラと見た。 環は圭一をじろりと見ながら 「よろしくない」と無愛想に答えた。  紗綾はおかまいなしに、シュークリームに顔をつっこんでいた。口のはたにクリームをつけたまま、フォークをふりあげて言った。 「ねぇ、ほんとにケースに一杯ぬいぐるみ取ったの?」 「ああ」 「どうやって」 「だからこないだと同じ。押し出して落とす。時々休んで、人にやらせといて適当に掻き混ざったところで、取りやすくなった頃合いを見計らって、また取るんだよ」 「ふうん。それで?」と紗綾がケース一杯のぬいぐるみがどんな風景だったかを最後まで聞き出そうとした。 「それで、ゲーセン出入り禁止になったの」と、環が挑発的に口を挟んだ。 「そう」と亮が聞き流して返事した。 「どうして」と紗綾は、間延びした調子で言った。 「バカねぇ、紗綾。商売あがったりでしょ。こんな人に毎日来られちゃ。毎日、毎日ケースごと全部やられて」と弥生が解説した。 「そうか。で、今日のゲームセンターは、来られるの?」と紗綾は悪びれずに尋ねた。ケースいっぱいのぬいぐるみをあきらめてはいない。 「ああ、景品付き以外って約束でな」と亮も物静かに答えた。 「え、じゃ、この間くれたのは」とシュークリームのひげを口のはたにつけて、紗綾が目を丸くした。 「この間って、この間の猫のこと?」と弥生が思い出して言った。 「そう、そう、猫」と紗綾が答えると、弥生が合点して言った。 「なんだ、やっぱ取ったの紗綾じゃないんだ」 「秘密でとったのさ」と亮は笑いながら紙ナプキンを手にすると、テーブルの向うから乗り出して、紗綾の口にはたのクリームをふきとった。紗綾は、そうされることに慣れているように、赤ん坊みたいに口をとがらかせた。 「もう、紗綾ったら。口ぐらい自分で拭きなさいよ。情けない」と弥生が紙ナプキンを紗綾に渡した。 「うん」と言いながら、紗綾は赤面して下を向いた。 「まあ、まあ、口のはたくらい拭きなさい」 夕食後、シュークリームに顔を埋めんばかりにして食べていた紗綾のあげた顔を見て、母が言った。同時にティシュで口のまわりをぬぐっており、昼と同じように紗綾は口をとんがらせた。 「あなた。お昼もこんなふうにガツガツ食べていたんじゃないでしょうねえ」 「食べてた」 「まあ、まあ。みっともない」 「でも、ふいてくれた」 「誰が」 「テディベアくれた人」 「え、あの男の子」 「うん」 「しかも、あんなハンサムな子に」 「うん。」 「恥ずかしいわね」 「いいでしょ」と言いながら、紗綾はむきになって新しいシュークリームに顔を埋め、再び顔をあげた時にはベビーシュクリームのような丸い鼻に粉砂糖が被っていた。 「そうそう。あの人、誰かに似ているんだけれど。誰かしら。誰かの若い頃かしらねぇ」と夕食後の紅茶を飲みながら、紗綾の母が独り言のように言った。 四、乱闘 「亮ちゃん」と言いながらセーラー服の香理が亮の顔を覗き込んだ。駅へ向かう道を二人はゆっくりと歩いていた。 「なに」と、答えたものの、亮は見れば吸い込まれそうな香理のまなざしを避けるように前を向いたままだった。 「こんど動物園行かない。」 「動物園か、いいな」と、歩みを止めずに狭い小路を亮が進んだ。 「お弁当作ってくから、多摩の方に」 「ああ、いつ行く。早く決めて知らせよう」 「知らせるって?」 「圭一達だよ」 「圭一達?」 「ああ、こないだも楽しかったなぁ。弁当もうまかったし。」 「うん」 香理が考え込むように黙った。亮はゆっくり歩く香理の横顔をちらりと見た。 「たくさん弁当作るの大変か?」 「ううん、そうじゃないんだけど、今度は二人で行きたいのよ」 「二人?」 今度は亮が言葉に詰まって沈黙した。 「ええ。いやなの?」 それまで道路に眼差しを落としていた香理が、歩みを止めて亮の方に向き直った。 「いや、そうじゃないけど」と、亮が煮えきらずに語尾を濁した。 「そうじゃないけど?」と、咎めるように言う香理の大きな目が、亮の胸をまっすぐに射った。 「なんか、たくさんの方が楽しいじゃないか」 明らかに亮ははぐらかそうとしている。 「二人は、楽しくないって言うの?」と香理が問いつめた。 「いや、そうじゃない」  二人の煮詰まった状況を打開したのは、それより危ない展開の始りだった。 「おい、おい。ゲーセンのプリンスじゃねえかよ」  三人づれの高校生の一人が、ふさいだ狭い道の出会い頭に口を開いた。 「よっ」 亮は目を合わせぬように、体をかわして三人をやり過ごそうとした。 「挨拶なしはねえだろ。てめえ、いい気になりやがって。あちこち手出してんじゃねえよ」 大声で威嚇するように言いながら肩をいからせ、決して亮を逃がさなかった。 「手なんかだしてねえよ」 亮は、はすを向いたまま、前に立ちはだかる高校生をやりすごそうとした。高校生はすれ違いざまに亮の肩をつかむと、二、三回揺すぶってから突き放した。亮はくずしたバランスをすばやく立て直すと、そのけんか早そうな高校生をにらみ返した。 「なんだよ、その目は」 ぎらぎらと、煮えたぎるようなまなざしは、抑制を知らない残忍な獣を思わせた。深刻な殺気を感じた香理が、割って入ろうとすると、亮はそれを腕で遮り、狭い小路の来た方に目配せをして、逃げるように促した。その瞬間をとらえて、別の一人が亮めがけて挙を飛ばした。亮は不意をつかれて、一撃をまともに左頬にあび、切った唇の血を道にしたたらせた。追いつめられて壁に倒れ掛かりながら、亮は口に出して言った。 「香理。逃げろ。俺は大丈夫だ。おまえがいると、俺が逃げそびれる」 香理をチラと見て亮が笑うと、さらに追い打ちをかけるように、初めの高校生が、利き手の左の挙を亮に飛ばした。今度は、口の中を切った亮がたまった血を口から吐き出した。 「ちくしょう。早く逃げてくれって。おれは殴られるの慣れてるんだよ。心配するな。」 「よう、いいかっこしてんじゃねえかよ」 二人の後ろにいた一番大きい高校生が、やっと出てきて言った。 「いいかっこなんかしてねえよ。ぶん殴られてこのありさまじゃな。したくてもできねえよ」と、口の血を手の甲で拭きながら、倒れたままの亮が言った。 「てめえ、口はへらねえな。その口から、今後口説き文句がでねえまでにしてやれ」 「おう」 指し図されて、二人がゆっくりと亮に迫った。 そのときだった。後ろにいた香理が二人の前に出て、急いでポケットから出したハンカチを亮の口に当てた。それから、振り向きざまに大柄な高校生に言った。 「乱暴はやめて。こんなことしても、無駄よ」 「そんな優男のどこがいいんだ。おまえもバカ女だ」 振向いたままにらみすえる香理の大きな瞳が、色白の顔から浮びあがるように見え、大柄な高校生はたじろいだ。それには気づかずに、二人の手下は香理を突き飛して亮を殴りにかかった。香理は再び亮を体でかばい、さらにはじきとばされた。その拍子に口元を、アスファルトの道路にぶつけて切った。赤い滴が白いコンクリートに散った。 「あ」 倒れても腕を支えに起きあがり、自分をかばおうとする香理を見て、亮は言葉を失った。紅い唇よりも深い色の血が白い顔をより白く見せた。目の光は敵意となって、大柄な高校生に注がれている。高校生はその大きな目にさらにいきり立った。 「そのいかさま野郎のどこがいいってんだ」 「あたしは、この人がいいって言ってんじゃなくて、あんたがいやなのよ。その乱暴でバカなところが。あんたなんて、うちの高校一のバカ男よ」 唇を切った痛さも手伝って、いらだつ香理が矢継ぎ早にまくし立てた。 「バ、バカ?てめえ、誰に向かって言ってんだ」 「香理、とにかく逃げろ」と、亮は今度こそ本当に青ざめて叫んだ。 「バカ男。腹が立ったら、殴ればいいわ、私を」 「香理、やめろ」 にじり寄る高校生の姿は、徐々により大きくなって亮の前に立ちはだかった。 「やめろよ。女を殴るな。頼むよ。俺が代りに殴られてやるから。頼むから逃してやってくれよ」 亮は立ち上がって香理をかばい、その前に立ちあがった。高校生は亮を睨み据え、一呼吸おいてから右の挙を亮の頬に飛ばした。亮は全く避ける気がなかったように挙をまともに浴びて倒れた。 「亮、どうした」 その時、圭一の声が遠くから響いた。言うより先に事態を飲み込んでいた圭一は、走り込んで手下二人を次々に殴り倒していた。喧嘩慣れしている二人は立ち上がりざま、勢いをつけて圭一に反撃を食らわした。圭一の唇も左右二カ所で切れて、血をしたたらせた。大柄な高校生が圭一の方に向いて体勢を作ったとき、遠くで甲高い声が響いた。 「おまわりさーん。こっちこっち。不良の高校生が喧嘩しているよ。あいつら、商高の不良だよ。こっち、こっち」 眼鏡をはじきとばさんばかりの勢いで叫んでいたのは、沢木一太だった。その声に散らされるように、三人の高校生は亮達から離れた。 「チクショウ。おぼえてろ」捨てぜりふを残して、三人が走り去った。 「くそ、やられちまったな。香理、大丈夫か」と、亮が苦笑いをしながら立ち上がって、香理に近づいた。 「大丈夫。それより私のためにこんな事になっちゃって、どうしよう。痛いでしょう」 唇の血もぬぐわず、香理が亮の頬にハンカチを当てようとした。 「亮、大丈夫か。おいおい、やられたな。切れてるぜ。それに、すげえあざ」と、圭一が口を拭いながら亮を見て言った。 「香理を見てやってくれよ。おれは平気だから」 「おう、こっちも切れてるぜ」と言いながら、背の高い圭一が膝を折って、香理の顔をのぞき込んだ。 「この近くに病院あるから行こう。こんなんじゃ、帰れないだろ」と一太が言った。  診察室に入った圭一は椅子に座っている中年の女医を見て一歩引いた。 「あ」 その声に亮がふせがちの眼差しをあげると、歩みが止まった。 「おっ」 一太は、眼鏡の奥の小さな目を精一杯見開いて、事態を呑み込もうとした。 「紗綾、ちゃんの」と一太が、あやうく呼び捨てにしそうになった。 「おかあさん」と亮がつぶやくように言った。 「おやまぁ、皆さん。こんな所でお会いできるとは。ご縁がありますねぇ。皆さんおそろいで、ころんじゃったのかなぁ」とぼけた調子で紗綾の母、信子が口火を切ると一太が続けた。 「そうなんすよ。こいつら、次々ころんで、将棋倒しってやつですか。いつも、気を付けろって言ってんすけど。もーろくしてるんす。決して決して喧嘩なんかじゃないっすからね」 「そりゃそうでしょう。けんかじゃ、こんな風にはなりませんからね。これは、転んだか、殴られっぱなしになったかどっちかですね」と、椅子を亮の方に向けなおしてから、メガネの縁を人差し指で押し上げて傷をよく見ようとした。 「もっち、転んだんです」と一太が言い張った。 「それはそうと、あなた方はいいとして、そちらのお嬢さんいらっしゃい。おやまぁ、怪我しているじゃないの。早くこっちいらっしゃい」 「いえ、あたしは後でいいんです。亮ちゃんを先に見て下さい。あたしの為に」と香理が言いながら涙ぐんだ。 「いいえ、だめよ。こんなきれいなお顔に傷なんかつけちゃいけません。ちょっと傷が大きいし、そうだ。今日は形成の専門医が大学から来ているのよ。診てもらいましょう」 言い終らぬうちに、紗綾の母は受話器を取って、内線番号をダイヤルしていた。 「あ、山形先生いる?山形君、よかった。きれいなお嬢さんの顔なんだけど、縫ってくれる?そりゃ、きれいな子だから、念入りにやってちょうだいね。痕なんか残したら承知しないから」 「こえー」と一太が、溜息のように言った。 「あたしいいんです。顔なんか」と香理が遠慮がちに言うと紗綾の母が優しく笑った。 「今はそう思ってもね、いつか、その傷がじゃまになることもあるから、専門の先生にきれいにしてもらいましょう。あなたのようなきれいな人は、きれいでいて人を楽しませなくっちゃ。与えられた者には、責任があるのよ。せっかくの美しさを粗末にしちゃだめ。」と言いながら紗綾の母はそっと香理の背を押して、中年の看護師に目配せした。香理は看護師につれられて部屋を出た。 「さて、そちらの方々はどうかしら。どれどれ?まぁ、結構な傷だこと。消毒しなくっちゃね。さ、二人とも座って頂戴」言われるままに、亮と圭一は小さな丸椅子に座った。圭一は、首を縮めていった。 「なるべく痛くないようにお願いします」 「なるべく、痛くしちゃおっと」そう言って、紗綾の母は茶色い消毒液を含んだ綿球を長いピンセットでつまんだ。 「え?」 圭一が身を引こうとすると、紗綾の母が笑った。 「冗談よ。でも、ちょっとは痛いわよ。怪我してるんだから。あなたのは、一針。宇佐見君のは二針は縫わないと」 「縫う?」圭一が声をあげた。 「ええ、皆さん方もなかなかハンサムなお顔だから、きちんと縫い縮めておいた方がいいわ。それにたった一針だから、麻酔なしでもいいわね。麻酔の針さすのも、一回チクリだから、同じ事よ」 「え、麻酔無しで?お願いしますよ。たっぷり麻酔してくださいって」と圭一が拝むように言った。 「あらそう。わかったわ。さ、一人ずつそこに寝てね。すぐ縫っちゃうから。おばさんは、ずっと家庭科は五だったから、安心しなさいね」と言いながら、紗綾の母はふちなし眼鏡の奥から、亮の顔を見ていた。 (誰に似ているのかしら…) 五、待ち合わせ 「紗綾、あんたいつから…」と、背の高い環が遠視の目を凝らしながら言った。 「え、何?何がいつから」と紗綾が環を見上げて言った。 三々五々校門を出る女学生のグループの一つに紗綾と環と弥生が混じっていた。女子学生の多くが長めのセーラー服にショートカットか、三つ編みにしたお下げ髪にしている。紺色の学生鞄は教科書とノートで膨らんでいる。短いソックスはそろって真っ白で、黒い革靴には磨きがかかっていた。そんな一群にすっかりなじんで歩いていた弥生は、近視の眼鏡を傾けて環の視線の先を追った。 「あ、あーっ」 たどりついた先の人影を認めるや、弥生が間延びした声を上げた。 「どうしたの」 紗綾はまだその姿に気づかず、環にぶらさがらんばかりにしている。 「プリンスよ。人待ち顔。あんたを待ってんじゃない?」 「えー、紗綾を?まっさか。いくらセントテレサでも、もうちょっときれいどこはいると思うわ」と言って、弥生が紗綾をじろりと見た。 紗綾はぎゅっと頚をすくめたが、心なしか顔がゆるんでいた。  校門からやや離れた道の壁にもたれて、亮は立っていた。制服のブレザーを左肩に掛け、正門の方に時折投げる視線のさきに紗綾を見つけ、にっこりと笑った。三人が通りかかると歩み出て言った。 「よう」 傾きかけた太陽の光にまぶしそうに細めるまなざしが、紗綾にやわらかに注がれた。 「あー、こんにちわ」 紗綾が満月のような顔をほころばせて機嫌良く言った。 「あら、こんにちわ。待ち人?」と言って、環がつんとすました。 「まぁな。待ってたんだよ」と亮が素直に答えた。 「待っていたって、誰を」と、弥生が割込んだ。 「君らを」と、亮が西日を避けるように伏し目がちに言った。 「私達を?」 環と弥生が声を合わせた。長身の高校生と話をする三人に好奇心満々の女学生たちの視線が注がれていた。横浜一高とか、宇佐見亮といったひそひそ声が環の耳に入った。 「ああ、しばらく会わないから、どうしてるかと思ってさ」と言って、亮はにっこり笑った。 「まぁ、なんの風のふきまわしかしら。でも、私達は忙しいの。特に今日はね。こん中で暇してるっていえば、紗綾ぐらいじゃないかしらね。じゃねー」と環はそっけなく返事をして紗綾を亮の方に押した。 環のばか力に、紗綾は転がるように亮の前に走り出た。 「いいか」と言いながら、亮は紗綾の顔をのぞきこんだ。 「う、うん」と、紗綾は少々口ごもった。  「あ、あたしも暇…」 口をはさもうとする弥生の袖を環がぎゅっと引張った。 「あんたは、今日あたしの買い物につきあうってさっき約束したでしょうが?」 「買い物?約束?誰が」と言って、弥生がずり落ちそうな眼鏡を中指で押し上げた。 「あんたよ、弥生」と言いながら、環は弥生を上から睨んだ。 「えーっ」 それだけ言って、弥生の好奇心は屈服した。  亮とすれ違いざま、同じ高さの目線で環は低くつぶやいた。 「何の用だか知らないけど、紗綾に何かあったら承知しないから。マドンナには取り巻きも多いのよ。こんな赤子のだんごは、ひとたまりもないんだから。全く、顔に傷つくっちゃってさ。おだいじに」 「わりいな、心配かけて。圭一連れてなくてごめん」 「誰があんなやつのこと。ケッ」 環と亮のやりとりに圧倒されて弥生は無言のまま、引っ張られていった。 「友達いたのに悪かったな」と亮が紗綾に言った。 「うん、いいよ。みんなとはいやでも毎日会えるからさ」と言いながら、紗綾は精いっぱいの笑みをつくって、亮を見た。そのまん丸な顔を見て、亮は目を細めた。 「アイスがいい?シュークリームがいい?」 「うーん。アイスかな」 「じゃ、横浜まで出るか」 「うん」  丸いテーブルに、生クリームのたっぷりのったアイスクリームが運ばれ、紗綾はペロペロと食べ始めた。時に亮の存在を思い出したように、顔を上げては目を細くして笑った。亮はその幼い顔をながめて、紅茶を少しずつ飲んでいた。亮が紙ナプキンを手にして、紗綾の口元を拭おうとすると、今度は紗綾がそれをもぎとるようにして受け取り、自分の口を拭いた。 「おかあさんが、口ぐらい自分でふきなさいって」 「そうか。おまえのかあさん、医者なんだ」 「う、うん。なんでわかったの」 紗綾は、スプーンを歯でかんだまま食べることを中断した。 「いや、ちょっとな。外科医か」 「うん」 紗綾はポッと赤面して、うつむいた。 「かっこいいなぁ」 「そう?フフフ」 紗綾はうれしそうに笑った。 「おまえ、とうさん似か?」 「どうして」 紗綾は不満そうに目を見開いた。 「おかあさんに似てないじゃないか」 「え、そう?少しは似てるでしょう。目元とか鼻とか口とか。」 「そ、そうかなぁ」 むきになる紗綾の姿に驚いて、あえて強くは言い張らなかった。 「宇佐見さんは、誰に似てるの?おとうさん?おかあさん?」 「さぁ、どっちかなぁ」と言って亮が目を伏せた。 「両方?」  亮は一瞬まなざしをあげて、紗綾をちらりと見てから続けた。 「母親にはあまり似てないよ。やさしい顔だからな」 「ふうん、じゃ、おとうさん?」 「そうかなぁ。おやじは小さい時に別れてから、知らないんだよ。でも、たぶんおやじに似てるんだろうな」亮はうつむいたままカップから上る湯気をぼんやりと眺めた。 「ごめんなさい。なんか立ち入ったこと聞いちゃったみたいで。そんなつもりなかったんだけど」と紗綾があわてて言った。 「いいんだよ。おまえには、聞いて欲しい気がする」 まなざしを上げた亮は紗綾をじっと見た。 「ほんとに?」 紗綾は心配そうに眉を下げた。 「ああ、おれ殆ど父親のことは覚えがないんだ。写真もないし。唯一覚えてんのは、どうも外国へ行ったらしいんだ。四歳ぐらいの時かな、それも母親とおれの写真しか見せてもらえなくて。でも一度見たんだ。知らない男の人に俺が抱かれてる写真が一枚あるんだよな。その人に連れられていったんだと思うよ。母親が、ヨーロッパのそんな所に行く理由ないし」 「ふうん。謎のおとうさんとヨーロッパ旅行か。なんかロマンティックだね。ヨーロッパのどこ」紗綾が目を輝かせた。 「ベルギー。写真はブルージュってとこらしいんだ」 「え、ブルージュ。素敵。私も行ったことあるよ」 「へーえ、誰と」 「おとうさんとおかあさん。学会について行かされたの」 「いつ」 「三歳ぐらいらしいんだけど、私は、市中ひきまわしみたいに歩かされてちっともいい思い出ないらしくて、全然おぼえてないのよね。写真はいっぱいあるから、確かに行ったらしいんだけど」 「そうか。奇遇だなぁ、おまえとおれ」 亮はそう言って人なつこそうな笑みを色白の顔に浮べた。 「おまえの顔みてると、なんか安心するよ」 「そう」 紗綾は嬉しそうに、丸顔をほころばせた。 「亮さんのおかあさんは、どんな人」 「そうだなぁ、働きものだな」 「ふうん。うちのおかあさんも働き者だよ」 「同じか」 亮はほほえんだ。  亮はとうとう顔の傷の件を言出せずじまいとなった。それを話すために呼び出したはずだった。紗綾の母からその話を聞かせたくなかった。しかし、無垢な紗綾の白い丸顔を見ていると、どうしても香理をめぐって不良に殴られた情けない事の顛末を告白する気にならなかった。 「ねぇ、亮さんのガールフレンドってすっごいねぇ」 そんな亮の思いにお構いなしに、紗綾が一拭きしてから、再び口を開いた。 「すごいって?」 不意を突かれて亮は戸惑った。紗綾の口から香理の話題が出ることは全く期待していなかったのだ。 「すっごくきれい。商高のマドンナっていうんでしょう。背が高くてやせてて、目が大きくて顔が小さくて、あったしとは大違い」 半ばうれしそうに話す紗綾に亮は何と言っていいのかわからず、あいまいな笑みを浮べた。 「ガールフレンドじゃないよ」 やっとそれだけ言うと亮は押し黙った。 「え、だって、いつも一緒にいるじゃない」 答えようとしない亮に、紗綾はけげんそうな顔をした。 「なんか、いけないこと言った?」と言って紗綾は丸い顔をかしげた。 「ううん、そうじゃないんだけど。あいつといると、おれ、かまえちゃうんだよね」 「ふうん。そりゃあたしといるよりは、緊張するでしょう。どうせあたしは、おきらくバージョン」 紗綾はさして気を悪くした様子もなくアイスクリームに眼を落したまま、スプーンで残りの山をほじくった。 「そういうんじゃないんだよ。あいつ見てると、俺、傷つけて壊しちゃいそうでさ、恐いんだよ。二人きりになったりとか、絶対できないんだ。こうやって、女の子と二人だけでお茶飲んだりするの、俺、初めてなんだぜ」 亮は頬を赤らめて紗綾に言った。 「え、本当?」 紗綾はアイスクリームの山をほじくる手を休めずに言った。 「おまえ、おれに興味ないだろう」 亮が紗綾の目の奥を探るように見ながら言った。 「え、そんなことないよ」 紗綾はアイスクリームを口の端中につけて、顔を上げ、あわてて言った。 「おまえ、シュークリームとかアイスとかぬいぐるみの方に、すぐ目がくらんで、他のものは見えなくなるな」と言いながら亮がならびのいい歯を見せてニヤッと笑った。 「そんなことないよ。ゲームセンターではいつも亮さんのこと捜してるよ」と紗綾は矢継早に言った。 「そうだな。正確には、おれじゃなくておれの取る景品だろ。おまえが、興味津々なのは。」 「ご、ごめん。気悪くしてた?だって、ケース一杯のぬいぐるみだよ。いいなぁ、そんなのもらえる人ってすっごい幸せだと思う。やきもち焼いちゃうよ」と言って、紗綾はスプーンを噛みながら夢見るような目をした。 「そうか。別に気なんか悪くしないさ。おまえにもしてやりたいけど、ごめんな。もうあんな無茶な芸当できないんだよ。若かったからな。人の都合ってもん考えらんなかったんだ。おまえにはおまえの一番欲しそうな物取ってやったろ。それで、勘弁してくれよ」 「うん、いいの。いいの。そんなふうに言わないでよ。何か私無理言ってるみたいじゃないの。」と紗綾が心配そうに亮をのぞきこんだ。 「おまえ、優しいんだなぁ。どうしてだ。それに、おまえ、どうしてそういつまでも赤ん坊みたいなんだぁ」 「え、赤ん坊みたい?」 「ああ、顔だけじゃなくって、中味も。どうしてそう無邪気なんだよ。苦労のない嬢ちゃんだからか」 「そう、そんなに赤ん坊顔?」と紗綾が声のトーンを下げて言った。 「気にしてんのか?」 「ううん、もう気にしてない。気になったこともあるけど、中一ぐらいの時かな。もう全然。だってあたし、おかあさんの喜ぶようにしてるんだってこと、このごろわかってきたの」 「おかあさんの?」 「うん。おかあさん、私を産んですぐ働いてたの。だから、私と過す時間が少なくて。いつまでも小さくて可愛い方が都合がいいってわけ。で、私もおかあさんが喜ぶようにずっとしているの」 「そうなのか。つらいか」 「ううん、ぜーんぜん。物心ついた時からそうしてるから、それがあたりまえなのよ」 「兄弟は?」 「兄ちゃんがいるの。今、東京で下宿してるけど」 「へぇ、兄さんがいるのか。兄さんも医者になるのか?」と亮は意外そうな顔をした。 「うん。兄ちゃんなんかいないほうがいいよ。お父さんは大学病院に勤めてる外科医だから、月給安くって、それでお母さん、あたし達が小さくっても働かなきゃならなかったんだ。時々、もっとそばにいてやれたらねえっていってた。あたし達の小さい頃って、あっという間だったんですって。小さくてかわいい時期に家にいられなかったって。お兄ちゃんがしっかりしてるとお父さんもお母さんも喜ぶんだけど、あたしにはそういうことより、いつまでも赤ん坊でいて欲しいみたい。体が丈夫なのをいいことに、食べろ食べろって肥えさせられて。太ると丸くって赤ん坊みたいな顔になるでしょ。着るものも持つものも、お母さんが決めた子供っぽいものばかり。でも、いいんだ。それでお母さんが喜んでくれれば。お母さんが喜ぶと、あたしも嬉しいの」 「そうか。ふうん。でも、おまえもお母さんの喜ぶようにしているのか。俺と同じだな」と亮は言ってから今までに見せたことのないような明るい笑顔で笑った。  それから次の日も次の日も、亮は紗綾の帰りをいつもの場所で待ち、環に脅かされながら二人で去った。 「なんか、ガールフレンドみたいだね」 亮と並んで歩く紗綾が嬉しそうに笑った。 「そうだよ、いやか?」と亮も嬉しそうにしている。 「ははははは、そんなことないよ」 夕日の射す公園のベンチに座って紗綾が丸い顔を亮に向けている。  「おまえの顔って丸くて、笑うと本当に嬉しそうだな」と亮が両手で紗綾の丸い顔を挟んでまじまじと見つめた。 「そう?丸い?」 雲行きの怪しくなるのを亮は全く気づかなかった。 「ああ、丸くって、うまそうだ。なんていうか、食いたくなるよ、やわらかくって、うまい大福みたいだ」 「大福?」 紗綾の顔がぷうっと膨れてきてやっと亮は言ってはならない言葉を口にしたことに気づいた。 「うまそうだってことだよ」 亮は慌てて言い直そうとしたが遅かった。 「ふうん、うまそうな大福もちってわけ」 「だから、なんていうかなあ。うまく言えないよ。こういう気持ちって初めてなんだよ。心を許せるっていうか」 亮があまりに気を落としている様子だったので、紗綾はここの所は我慢することにした。 「どうせおいしそうな大福もちで、食欲増進するってことね。いいよ、亮さんがそれで楽しいなら」と言って、紗綾はあっさりと機嫌を直し、にっこり笑った。亮はその顔を見てほっとしたように大きな息をついた。 「機嫌直してくれて安心したよ」 「うん」 「御免な。気を悪くさせて。でもそんなつもりじゃないんだ」 「いいよ。亮さんが気を許せるならそれで」 「本当に怒ってないか」 「怒ってないよ。でもちょっぴりがっかりかな」 「なんで?」 「だって、うまそうな大福がガールフレンドになれるわけないもの。帰ろう」 紗綾がベンチから立ち上がった。 「ああ、また会えるか?」 亮は心配そうに紗綾の顔をのぞき込んだ。 「会えるじゃない。いつだって」 鞄を持って歩き始めようとする紗綾の肩に両手をおいて亮が前を遮った。 「そういうんじゃなくて、また迎えに来たりしていいかってことだ」 「いいよ。亮さんがそうしたいなら」 「本当に?」 「いいっていってるじゃない。そうしたいならそうすれば」 「そうじゃなくって、おまえはそうして欲しいかどうかって訊いてるんだ。」 徐々に語調を強める亮に紗綾は戸惑って首をすくめた。 「そうして欲しいかっていわれても、わかんないよ」 途方に暮れたようにか細い声を出す紗綾に亮が慌てていった。 「御免。今までいつも俺にして欲しい事ってだいたい察しがついて、誰であれ出来ることはしてやってきたんだ。おまえが俺にして欲しいこと、ぬいぐるみが欲しいとか、アイスが食いたいとか。でも今おまえが俺にどうして欲しいかわかんないんだ。」 「あたしだってわかんないよ。だから亮さんのしたいようにすればいいって言ってるじゃない」 「本当に?」 背の高い亮がかがみ込んで紗綾の小さなりすのような黒い瞳をのぞいた。 「うん」 まっすぐにそそぎ込まれるような亮のまなざしを受けて、紗綾はまぶしそうに目を細めた。 「本当に迎えに行ったりしていいか?人にボーイフレンドかとかいろいろ言われたりしても」 紗綾の目をのぞき込んだまま亮が言った。 「うん、いいよ」と言って紗綾がにっこり笑った。 「よかった」 亮は心から安心して、紗綾をそっと引き寄せて両手で抱きしめた。 「家まで送るよ」 「うん、ありがとう。でも一つ聞いてもいい?」 亮の胸に両手を突っ張ってから、紗綾が亮の目を見つめ返した。 「いいよ。なんでも」 「顔の傷、治ってよかったね。でも、どうしたの」 「え?誰かから、なんか聞いた?」といいながら、亮は紗綾の視線をかわしている自分に気づいていた。 「なんにも」 「そう。ちょっと、絡まれたんだ。でももうしないよ」 「そう、本当にね」 六、商高のマドンナ 「紗綾。まずいんじゃない」 環がいつものように校門を出際に遠目をきかせていた。 「なにが」 見通しもきかず問い返す紗綾を見おろして環が言った。 「宇佐見は?」 「今日は遅いんだって」と答えて紗綾が環を見上げた。 「ふうん。ねらいをつけてきたってわけか」と環が言った。 「ねらいって?」と弥生が口を挟んだが、環の答えを聞くまでもなく、近づく人影に納得して小声で言った。 「マドンナじゃないのよ。手下三人もつれてる。紗綾、大丈夫?」 心細げに言う弥生を意に介さず、紗綾は嬉しそうに笑っている。環は姿勢をまっすぐにして、香理を見ていた。長いストレートヘアをなびかせ、大きな瞳を紗綾に向ける香理は、四人の中でも際だっていた。細身の体に白いベストと、真っ白なソックスがさらにその長身をを細身に見せていた。すらりと伸びる手足は折れそうでいて折れない、柔軟な若竹のようだ。紗綾の目の前までやってくると香理が言った。 「こんにちは。ちょっといいかしら」 初めて聞く香理のややハスキーな声は環にとって意外だった。 「いいけど、何?」と、紗綾の代わりに環が低い声で答えた。 紗綾はにこにこと笑っている。 「木下紗綾さんと話がしたいの」 ちらりと環を見ただけで、香理は紗綾を見おろしている。 「え?あたしと?」といいながら、紗綾は目を精いっぱい見開いて嬉しそうに笑った。 「ええ。時間はとらないわ、いいかしら」 「ええ」 喜んでついていこうとする紗綾を引っ張って弥生が小声で耳打ちした。 「あんたわかってるの?宇佐見亮のことで来てるのよ、マドンナは」 「そうなの?」 紗綾は事の成りゆきを理解しようとせず、その顔には周囲の空気からかけ離れた無邪気な笑いをたたえている。 環はもう紗綾に理解を求めようとはせずに、香理と話を進めた。 「何の話?」 「あなたとは関係のない、木下さんとわたしのこと」 「どういう?」と環は淡々と質問を続けた。 「言わなければならない筋合いはないわ」と感情を殺した声で香理も答えた。 「どうしてもって言うんなら、あたしも行くわ。じゃなきゃ、あなたと紗綾、二人きり、しかも時間を区切ってちょうだい」と環が条件を出した。 「わかったわ。お友達思いなのね。どうせあたしもそのつもりだったの。二人で話をさせて貰うわ」そう言って後ろに控える同じ様な格好した同級生に一瞬の視線を与えると、三人は何もいわずに来た道を戻っていった。 「時間は、一時間。きっかりでお二人におかえしするわ」 長身の環と香理の顔を交互に見上げながら、紗綾はついた決着の通り、香理のあとを従った。 「お茶でも飲む?それともなんか食べる?」 場に不相応な笑みを浮かべる紗綾に、香理は戸惑った。 「え?あの、アイス…がいいな。あの、あなたは?」と紗綾が遠慮がちに言った。 「そうね、アイスね。じゃ知ってる店があるから行きましょうか。ちょっと歩くけどいい?」 「うん」 大きくうなずいてから、紗綾は嬉しそうに香理の顔をのぞき込んだ。 「あなた、何でそんなにあたしを見るの?それに、そんなに嬉しそうに」としびれを切らして香理がいった。 「え?ごめんなさい。だって、あんまり綺麗だから。あたし、あなたのような人とこうして一緒に歩ったり、アイス食べたり出来るなんて、思ってもみなかったから。そりゃ環も綺麗だし、弥生だって見方によればねえ。でも、髪をサッラサラに伸ばして、やせてて、あしが長くって、なんかテレビや雑誌から抜け出てきたような人といっしょだなんて、ふふふ」 「あのねえ…」 心から嬉しそうに笑う紗綾に、香理は何といってよいかわからなかった。 「アイス、おいしい?」 短く見える指にスプーンを持って無心にアイスクリームを食べる紗綾を見てやっと香理がいった。 「うん」 紗綾がにっこり笑って答えた。その曇りのない笑顔に、香理は戸惑った。こんな飾り気のない、子供のような紗綾に亮は何を感じているのだろう。美しさや女らしさは、自分の方が圧倒的にまさっていることぐらい、一緒に歩いてきた道みちのショーウィンドウに映る姿が教えてくれる。女としての魅力に欠ける、こんな座敷わらしの様な娘を相手に、自分は何の話をつけに来たのだろう。無心にアイスクリームを食べる紗綾の口の回りは白い髭を生やしたようになっている。それを気にもとめずに時折顔を挙げては笑いかけてくる。見かねて香理が紙ナプキンを手にして渡そうとすると、紗綾は拭いてくれるものと口をとがらせている。仕方がないので腕を伸ばして紗綾の口の回りをそうっと拭いた。 「ありがとう」 「あなたいつもこうなの?」 「こうって?」 「くち」 「そう、あ、でも口ぐらい自分で拭きなさいってお母さんが言ってたっけ」 「そう、そろそろいいかしら。あたしは島木香理。商高の二年」 改まって言う香理に紗綾は驚いてスプーンを持つ手を止めた。 「あの、知ってますけど。じゃあ、あたしは木下紗綾と言って、セントテレサ学園の一年です。よろしくお願いします」 紗綾はスプーンを皿において、ぺこりと頭を下げた。 「え、ええ…」 思うように事の進まぬことに香理は半ば途方に暮れた。 「あなた今知ってるっていったけど、あたしの何を知ってるの?」 「商高のマドンナって言われていて、綺麗ですっごくもてるってこととか、ふふふ」 紗綾が小さな声で笑って、顔を赤くしてから続けた。 「宇佐見亮さんのガールフレンドだとか」 「あなた、そんなことまで知ってて、何で宇佐見亮と会ったりしているの」 率直な紗綾の嫌みのなさに驚いて香理が言った。 「会うって言っても、ただ会うだけだし」 「ただ会うだけって当たり前でしょ。それ以上じゃ困るのよ」 「じゃ、いいんだ。それ以上でなきゃ」と言いながら、紗綾がスプーンをくるりと回した。 「ちょっと待ってよ。いいとは言ってないでしょ」 本気なのかとぼけているのかわからなくなって、香理が次の言葉を探した。 「それ以上じゃなきゃいいんでしょ」 紗綾の顔がだんだん膨らんできたことは、香理にとっては都合がよいはずだった。こうでなくては、この手の話は決着つけられない。 「あなたねえ、第一に、あたしが亮のガールフレンドだって知っていながら、その亮とあたしのいないところで会ったりしていいと思っているの」 紗綾は亮の方が迎えに来ているのになぜ自分が責められなくてはならないのか憤慨したが、口に出すのはやめておいた。香理のせっぱ詰まった様子が気の毒に思えたのだ。自分にはない何かが香理にはある。亮に対する思いなのだろうか。 「第二に聞きたいわ。人を好きになったことある?」 「ある。おとうさんとか、おかあさんとか」 ガラスの器に残っているアイスに視線を落としたまま紗綾が低い声で言った。 「そうじゃなくて、他人で」と香理が念を押すように言った。 「じゃあ、環とか、弥生とか」と今度は紗綾が小さな声で単調に答えた。 「だからそうじゃなくって、一体全体あなた恋愛をしたことあるの?」 とうとう香理が性根尽きたというように言い放った。一方、恋愛に縁のない紗綾は、この場はかなり不利になることを悟って黙り込んだ。セントテレサ学園でさえボーイフレンドのいる友達はいつも自信に満ちていて、人を小馬鹿にするような態度なのだ。彼氏のいない寂しさなどみじんも感じたことはなかったが、あなた方はお勉強だけねといった風に子供扱いされるのは不本意だった。今再び恋愛をしたこともないと、香理にとどめを刺された紗綾だった。 「どうなの?」 香理は勝ち誇ったように手綱を緩めない。 「恋愛したことない人に言ってもわかんないでしょうけど、自分の好きな人の回りをうろつかれると不愉快なの」 「不愉快だったらごめんなさい。でも、あなたは綺麗だし、気にする必要ないんじゃないの、あたしのような団子を。あなたみたいな綺麗で魅力的な人が、あたしの存在を気にするなんて、考えてもみなかった。おかしい。もし万が一あたしが亮さんを好きになったとして、あなたとじゃあ、勝負あったでしょ。そのくらいあたしだってわかるわ。恋愛したことあるかどうかなんて、この際関係ないと思う。鏡見れば一目瞭然だもの。どうせあたしは団子顔の赤ん坊です。宇佐見さんにもいわれたの」 「なんて」 「大福って」 「大福?」 「そう、大福。宇佐見さんがあなたのことをそんな風にいったことがある?どうせあたしは大福です。誰が大福なんかをガールフレンドにするもんですか。」と大福顔を膨らませて紗綾がいった。 「じゃ何でよく会ったりするの?」 明らかに機嫌の悪くなった紗綾に驚いた香理が、いつになく控えめな声を出して聞いた。 「知らない、大福が好物なんでしょ。お気楽で」 「じゃあ、あなたは亮のことをどう思っているの?」 「かっこいいと思います。そりゃ、あたしにだって目がついていますからね、いくら大福でも。ほおら。」と言いながら、紗綾は短い指で両方の目を順番に指し示した。 「好きなの?」 「好きかどうかなんてわかんない。でもそんなこと気にしないで下さい。あたしが宇佐見さんのことをどう思おうと、あなたが宇佐見さんのことを好きで、宇佐見さんもあなたのことが好きなんだから。そして宇佐見さんはあたしのことを大福と思っている。これ以上どうしろっていうんです」と、はっきりしない顔ににあわせず、きっぱりいう紗綾に驚いて香理が目を見張った。 「どうしろって、はっきり言わせて貰えば、亮と会わないで欲しいの」と、香理も出来るだけきっぱりと言った。 「でも、お互いこの世に存在して、道で出会ったりもして。それに、あたし以外でも人口の半分は女だし、それを全部遠ざけておくことなんて出来ないと思うけど」 「でも、何も、二人で会うことはないでしょう、二人で。あたしの手前ってものを考えないの、あなたは」 「二人で会おうが、三人で会おうが、大事なのは、あなたが宇佐見さんを思う気持ちと、宇佐見さんがあなたを思う気持ちだと思うけど。あたしがいるとそれが曇るんですか」  香理は言葉に詰まった。 「あなたは恋愛したことないからそんなことを言えるのよ」 急に弱音を吐いた香理に紗綾は驚いた。香理は美しさにおいて圧倒的に自分がまさっていることは重々承知のはずだ。なのに紗綾の存在をそねんでいる。 「あなたのように綺麗な人が、あたしに焼き餅焼くなんておかしい。宇佐見さんはあなたのことを好きでしょう。世の中の男という男はみんなそうだと思う。あなたとあたしが並んだら必ずあなたをとると思うわ。そのどこが不満なんでしょう」 「亮はあたしのこと、好きじゃないのよ。」 とうとう泣き出さんばかりになった香理に何といってよいかわからず、紗綾は眼を見開いたまま口を閉じた。 「あたし達、二人でデートしたことないのよ」 「すれば。」 「誘っても、ダメなの…」  涙ぐむ香理に今度は紗綾がハンカチを差し出した。 「ありがと。どうしてかわからないのよ」 「綺麗すぎるからじゃない。」 紗綾は敢えて心当たりのあるところから的をはずした。 「そんな事ってあり得ない。亮にはあなたのような人の方がふさわしいのかもしれない。」 「ど、ど、どうして」 紗綾が香理の口から出た最も意外な言葉に肝を抜かれた。 「あなたのような家庭に恵まれている、私立校に通うお嬢さんが」 「私立校に通う大福じゃふさわしくないと思うけど」と、紗綾が慌てていった。 「あたしのように、家でおさんどんに追われてくたびれてるような女は、あの人の求める雰囲気に合わないのよ」 「そんなことないと思うよ。ちっともくたびれてないし」 香理の妙に大人っぽいしぐさや、落ちついた様子が納得できたように思った。 「母がいないから、家のこと全部あたしがしないとならないでしょ。朝起きて、食事を作って、弟と自分のお弁当をつめて、学校から帰ると掃除、洗濯、夕食の支度、父の晩酌の都合まで。ああ、こんな話するんじゃなかった」 香理ははにかんで笑った。 「ごめんなさい。あたしみたいにノーテンキに暮らしてるんじゃないんだ」 「いいのよ。しかたないじゃないの。与えられた運命なんだから。それぞれにね。あたしにまとわりつく男ときたら、力自慢だけの不良とか、こっそり付け文する薄気味悪いサラリーマンとか、禄なんじゃないんだから。それに、あなたに言ったかどうか知らないけど、亮さんがその不良に逆恨みされて、このあいだひどい目にあったの。あたしのせいよ。あたしがそばにいるとあの人を不幸にしてしまうのかもしれないわ」 「あの、あたし、思うんだけど、あなた、亮さんのお母さんに似てるんじゃないかなあ」 香理のしずんだ様子に紗綾は悩んだ末、亮が香理に近づこうとしない理由を話す決心をした。 「どうしてそう思うの」 「亮さんって、お母さん思いなんだと思うの」 「そうかしら」 「お母さんを傷つけたのと同じ事をするのが恐くって、あなたに近寄るのをためらっているような気がする」 「どういうこと?」 「亮さんのお父さんのこと」 「え?亮のお父さんって?家のことまで話したんだ」 「お父さんがいないってことだけ。亡くなったんじゃないって。お母さんは亮さんを一人で育てたんでしょ。お父さんがお母さんをもて遊んだって思ってるみたい。でもあなたと二人っきりになれば男は誰でも狼に変身。食っちゃうぞってね。亮さんだって、男。チャンスさえあればあなたに不埒な行為に及ぶに決まってる。ふふふ。それが恐いんじゃないかな」 「あなた、子供の顔してよくいうわね」と言って、香理が笑った。 「え?あたし全部知ってるよ。だって、家にある医学書で調べたんだから。環や弥生と」 「まあ、医学書?専門的ね。あらあら、もう一時間もたったんだわ。お友達が心配するといけないから帰りましょう。なんだか、亮の気持ちが少し分かったような気がする。そんなことまでいったんだ、あなたに。あなたって自分で思ってるほど大福じゃないわね」 香理がぽつりと言った言葉の意味を紗綾は理解していなかった。 七、ガールフレンド 「香理と会ったって本当か?」 「うん、とっても綺麗な人だね。あんな人をそばで見られるなんて、滅多にないよ」 「何話したんだ」と亮が問いつめるような口調で言った。 「彼女は亮さんのことを好きで、亮さんも彼女のことを好きで、お似合いのカップルだってこと」 紗綾は、そっけなくいってベンチに座りながら近寄ってくる虫を追い払っていた。夕焼けが色をまして、亮の白いベストを赤く染めている。 こんな時の亮の横顔はちょっと寂しそうで、見れば心動かされるだろう。それを知っていて紗綾は亮の方を見ないようにした。 「何でそんなこと言ったんだ」と言って、亮は紗綾を覗き込んだ 「だって、本当じゃない。もう帰るよ」 紗綾は亮にはお構いなしにベンチから腰を浮かした。 「どうして」 亮は紗綾の腕を押さえて座らせた。 「だって、もう、いい。もう会いたくない」 無理矢理座らされた紗綾は、不満げに頬を膨らませた。 「どうしてだ」と亮は問い続けた。 「どうしても」と仏頂面で座った紗綾が言った。 「それじゃ納得できない」 紗綾が座って動こうとしないことを確かめると亮が前を向いて言った。 「できないならしなくていいよ」 紗綾はまるで兄弟に言うように、ぶっきらぼうに言った。 「教えてくれよ」 「どうせ大福だからね。あんな美人とじゃ、勝負にならないもの。こんな事言わせないでよ。自分でも情けなくなるから」 紗綾がぼそぼそとぼやいた。 「嘘だ」 亮は紗綾の横顔を見つめた。 「嘘じゃない」 「じゃ、俺はおまえが好きだ。おまえもそれは気づいていたろう」 「あたしのことも好きでしょうけど、並べられたらとてもそんなこと言えないよ。それに、あの人が亮さんのことを思う気持ち…」 「わかった。香理の気持ちに遠慮してるんだ」 亮は核心に近づいたことを感じた。 「そうじゃないけど。あなただってあの人のことを思う気持ちがあるからこそ、あの人に近づけないんじゃない。きっと恐いのよ。あの人の美しさとか、魅力とか」 「どういうことだ」と、亮がいぶかしげに言った。 「あの人をもて遊んで不幸せにしたくないんでしょ」 「そうだとして、じゃあ言うけど、だから好きになれないんだ、あいつを」 「それどういうこと」 「確かに、あいつを見ていると、心もとなくって、俺が近づくと不幸になるような気がするんだ」と、亮は自分の気持ちを確かめるように小さい声で言った。 「あたしならいいんだ」と言って、紗綾は意地悪そうな上目遣いで亮の顔を見た。 「そうじゃないよ。や、そうかもしれない。だって、好きな気持ちはそういうことを乗り越えるんだと思うよ」 「どういうことかわからない」と紗綾が投げるように言った。 「おまえみたいな子供にはわからないんだ。でも俺はおまえのことを傷つけたりしないよ」 「もういいよ。かえろう」 謎めいた言葉に紗綾がしびれを切らしたように立ち上がった。亮は背中を向けて歩みだした紗綾の腕を掴んだ。その腕を軸にしてぐるりと紗綾を振り回して向きを無理矢理変えさせた。 「本当にいいんだな」と、紗綾を見おろして亮が言った。 「いいよ」と紗綾は横を向いたまま答えた。 「俺はおまえが誰より好きだ。言ったからな。おまえはそれほどじゃないってことなのか?」 「そうだったらどうなの」と言って、紗綾はあいかわらず亮の顔を見ずにいた。 「それが本当だったら仕方ないさ」 「本当だもの」と、紗綾が亮を見上げてむきになった子供のように言った。 「そうじゃないな」 亮が挑むようにきっぱりと言った。 「ふうん。すっごい自信」 「ああ、おまえのことに関しては妙に自信がもてるんだ」 腕を掴んだまま、亮が紗綾を見おろした。 「根のない自信よ」 紗綾が見おろされるのが気に入らず、背伸びをしながら言った。 「根なんかなくったっていいさ。どうせ根拠のない賭けは俺のお得意だからな。でもずっとそれで勝ってきたんだぜ、今まで」 亮が紗綾を挑発するようにニヤリと笑った。 「じゃ、初めての負けってわけね」 兄との喧嘩の時のように、紗綾は精一杯爪先立ちをし、鼻先を亮に突きつけんばかりにして言った。 「負ける気がしねえな、今度も」 亮は挑発に乗った紗綾に顔を近づけ、少し声を潜めた。 「な、な、なんてことをいうのよ、それどういうこと?」 紗綾は兄のようには一筋縄でいかない亮におじけづいた。 「こういうことだ」 言い終わらないうちに亮が紗綾の体を勢いよく自分の体にぶつけるようにしてくっつけ、両腕でしっかりと締め付けた。顔をさらに近づけて言葉を続けた。 「このままじゃ返せないな。おまえの言う通り、香理の美貌は否定できないし、確かに心揺らぐことだってあるかもしれない。二人っきりになれば、きっとそうかもしれないよ。認める。でもだから二人でどうこうということは避けてきたんだ。俺は人が思ってるほど軟派じゃないんだ。それにおまえのいうとおり、あいつに何かすると、自分の母親がたどったような道を歩ませるような気がしてならない。どうしてもいやなんだ。あいつが嫌いなわけじゃないんだけど、必要以上に近づかれるとダメなんだ。俺は人が俺に要求することは出来るだけ果たそうとしてきたけど、今度だってもしそうするなら、おまえとこうして会ったりしないで、あいつとなるようになりゃいいのさ」 「な、な、なるように」と、紗綾が亮の至近距離で丸い目を向いた。 「言い回しだ」 「いっそ、なるようになれば?」 「だから出来ないんだっていってるだろ」 「どうして?」 「おまえが好きだからだ」 「なんで?」 「そんなの知るか。でも、今度はおまえのことをいわせろよ」 「い、いいよ」といいながらも、紗綾が訳もなくたじろいだ。 「おまえは、俺みたいだよ」 「そんなことないよ。亮さんはかっこいいし、あたしはちんちくりんだし」と紗綾は突然弱気を見せてつぶやくように言った。 「いや、俺みたいに、周囲が期待するとおりに生きて来た」と亮が確信に満ちた言い方をした。 「そんなことないって。生きたいように生きてきたよ。ノーテンキに、何の苦労もなく。おさんどんもしなくていいし、掃除も洗濯も、パンツひとつ洗ったことないんだから」と、紗綾が突然落ちつきをなくしてもそもそと言葉を濁した。 「そういったことじゃなくって、お母さんの思う通りってことさ」 亮が勝負あったというようにきっぱりと言って紗綾の自信なさげにゆれるまなざしの奥をのぞき込んだ。 「…」 「どうだ。今回おまえがいうなりになろうとしているのは香理の気持ちか?」 亮が紗綾の奥底にあるものを見すかした。 「だって、あの人、あんなに苦しんで。あなたのこと、思って。あたしみたいのがノーテンキにうろうろすることですっかり自信なくしちゃって。あんなに綺麗なのに。泣いてたよ。あなたのこと思って泣いてたよ、あたしの前で。亮さんに不相応なんじゃないかっていって。あたしの方がいいんじゃないかって。でも想像してみてよ。あの人と歩ってる亮さん。すっごくかっこよくって、チョー綺麗な女の子連れて。あたしと歩ってる亮さん。何とガリベンのセントテレサ学園の生徒でしかも大福。どっちがふさわしいかなんて一目瞭然だよ。こんなの誰の幸せにもつながらないよ」 とうとう紗綾が情けない声を出した。 「俺が聞きたいのは、一体おまえはどうなのかってことなんだ。お母さんがどうかとか、香理がどうかとかじゃなくて。おまえは俺をどう思っているのかってことが知りたい。もしおまえが俺を気にくわないっていうんならしかたない」 亮は一言づつを確かめるように言葉を区切った。 「わかんない。」と、紗綾がぽつりと言ってうつむいた。 「わからないっておかしくないか、簡単なことなのに。何をためらってるんだよ」 「だって、わかんない」と繰り返し言って、紗綾がうなだれた。 「そうか。じゃ、わからせてやるよ」 「え?」 「おまえみたいな赤ん坊に、こんなやり方したくないけど、そんなに自分の気持ちにしらを切るなら、俺が教えてやるよ」 「ど、ど、どうやって?」 強引な亮の態度に圧倒されたまま、紗綾は成りゆきにごっくりとつばを飲み込んだ。体を締め付けていた腕を片方をはずすと、その手で亮は紗綾の顎に指をかけた。近づく亮の顔を見つめられず、紗綾は顔を横に向けた。顎にかかる指の優しさとは裏腹に体を締め付ける腕には力が入っていて、紗綾の自由にはならない。横に避けた唇に亮の吐息がかかった。 「うわあ、うわあ。やめて」 紗綾は亮の片腕の中でもがいた。 「やめない」 亮の声が耳元で低く響いた。顔を僅かに離したが、まなざしはまっすぐ紗綾の目の奥底を覗いている。 「わかった。わかった…」 紗綾の言葉が途中で亮の唇に妨げられた。 「素直になれるか」 紗綾はうつむいたままうなづいた。亮は腕を放して、紗綾の前に立った。 「ごめん」と亮がぽつりと言った。 「どうしたらいいの。あたし、香理さんの気持ち聞いちゃったし。聞いておきながら亮さんとこうして会ったりして、もう自分がいやになる」 「すわれよ。俺にもいわなきゃならないことがあるんだ」 紗綾はおとなしくベンチに座った。すっかり日の暮れた公園には水銀灯が白く冷たい光を射し始めた。 「俺が初めておまえを迎えに行った日、本当はあることを言いにいったんだ」 「あることって?」 「これのこと」そう言って亮は両方の口の端の傷を指した。 「ああ」 「知ってんの?」 「だいたい」 「誰から聞いたの?」 「香理さんから。自分のせいで、あんな事になったって」 「そう。でもそりゃ違う。俺がいるからあの不良がいきり立ったんだ。お母さん何か言ってた?」 「お母さんて?あたしの?何で?」 「これ縫ったの、紗綾のお母さんなんだ」 「え?そうだったんだ。よく縫えてる?」 「ああ、知らずに飛び込んだ病院で、出てきたのがおまえのお母さんでさ」 「驚いた?」 「ああ、驚いたし、都合悪かったぜ」 クフッと紗綾が笑った。 「で、ちょっとは見られるようになってから、おまえに会いに行ったんだ」 「どうして」 「自分の口から説明したかったんだ、おまえに。お母さんはきっと不良に絡まれるような男に近寄って欲しくはないだろうしな。タイミング悪いよな」 「ふうん。でも何で言わなかったの」 「言いはぐっちまったんだ。おまえの顔見てたら言えなくなって」 「そう。意外と弱気なんだ」と、大人びた口をきく紗綾に、亮が笑った。 「でもおまえは俺が好きだ。それには自信あるぜ」 「そんな」 亮は今度はゆっくりと右手を紗綾の後ろから肩に回し、左手で顎をそっと掴んだ。顔を近づけていきながら、紗綾が逃げないことを確信していた。 「目を閉じろよ」 「え?」 「見られてるとやりにくいよ」 瞬時考えるように首を傾げたあと、紗綾は目を閉じた。亮は紗綾の小さなサクランボウのような唇にそっと自分の唇をつけた。そんなに長いことではなかったはずなのに、亮が唇を放したとき、紗綾がふうっと大きな息をついた。亮が色白なのに精悍な面立ちなのは、上がった眉と、鋭い目なのだと紗綾は近くで見て思った。洗い立てのワイシャツから石鹸のにおいがする。亮がそばに近づいてきて感じたのは、不思議な安心感だった。忍び寄る獣のような恐ろしさを感じたこともあった。しかし一旦捕まった草食動物がその身をゆだねるしかないように、まして小さな生き物の紗綾は、亮の腕の中でおとなしくなった。 「ごめん。泣くなよ」と亮が紗綾を見おろして言った。 「何で泣くの?」と、紗綾はぽかんと口を開けて聞いた。 「さあ、泣く奴もいるから」 「え?泣く奴もいる?何で知ってるの?」 「さあ」 亮は公園を横切る人影に気を取られてうかつな返事をした。 「しらばっくれないでよ。女の子と二人っきりでお茶も飲んだことないって言ったじゃない」 紗綾は亮の胸から顔を上げた。 「だから初めてだって」 「でも、ファーストキスで泣く奴もいるって何で知ってんの?それに妙に上手だった。初めてじゃないんだ」 亮は気まずい顔をして黙りこくった。 「そうだよね。バカだった。こんないい男がデートしたこともないなんて鵜呑みにして。へえ、意外とまじめなんだなんて思ったあたしが馬鹿だった。だって十七だものね。それ以上のことだって、あって不思議はないよね。週刊誌にも書いてあったっけ。何たって、ゲーセンのプリンスなんだから」 紗綾は言いながら身をひいて亮を上から下までじろじろ見た。 「待てよ。悪かったよ。言わないのは俺が悪い。確かに初めてじゃない」 亮が紗綾の方に向き直って、事態の深刻さを打開しようとした。 「初めてじゃないって、一体何回目?」と、女の詰問が始まった。 「三回」 「ほんとに?」と言いながら、紗綾は野良猫のように疑い深そうな上目遣いをして亮を見た。 「五回、十回。わかんないよ、数えちゃいないんだからそんなこと」 亮は面倒くさそうに言った。濃い眉と、通った鼻筋が水銀灯に照らされて、亮の横顔が突然と冷淡に映った。ぞっとする気分を紛らわそうと紗綾はまくしたてた。 「数え切れないってわけ。日常茶飯事なんだ。何だ、何だ。こんなもったいつけて、何のことはない、あなたにとってはほんの挨拶程度ってわけなんだ。こんにちは、チュッ、さようなら、チュッ、いいお天気で、チュッ、チュッ、チュッだ」と紗綾はネズミのように口をとがらせて続けた。 「そんなことないって。おまえとのことは一大決心なんだ」 「じゃ誰としたの?香理さんとは?」 「あ、あいつとはやってない。やってないって。本当に」と、何度も言って亮が慌てた。 「ふうん。もう信じない。あなたは嘘つきだわ。あたしみたいに素朴な団子娘は気をつけないと」 「嘘なんか言ってないって」 「じゃ、何でデートもしたことないのにキスだけは五回も十回もしたことあるの」 「もののはずみだ」と亮が煩わしそうに答えた。 「もののはずみでそんなことするんだ。じゃもっとはずむとどこまでやるの。」 「俺が好きでやったわけじゃないよ」 「じゃ、誰が好きでやったの」 「相手が」 「相手って誰」 「忘れた」 「うっそうお、忘れたの。ひどいわね。あたしのことも明日になれば忘れるってわけね。誰でしたっけ、その団子はって」 「そんなことあるはずないだろ。だから、若かった頃の話だよ。つきまとってくる奴がそうしたがったから」 「もう若くないんだ。あたしはじじいとつきあうのはいや」といいながら、紗綾はだだをこねるように身をよじらせた。 「じじいはないだろう、じじいは。でも、分別はついたよ」 「じゃ、分別ついたとこで、その人達とつきあえば」 紗綾は丸い鼻を上に向けて口をとがらせた。 「やだ」ときっぱり言って、亮はうつむいた。 「何で。つきあうのやなのにキスはするの?」 「だから向こうがしたがったから。でも、そうしただけで我が物顔されるのいやだったんだ。泣いて人の気をひいてみたり。おまえみたいに減らず口きいてる方がずっと好きだ。」 「へ、へ、へらず口ですって。悪かったねだ。キスぐらいしたからって人の気持ち確かめられると思ったら大間違いだからね。好きでなくったって、キスぐらいできるんだから」 「え?」亮がいぶかしげに紗綾の顔をのぞき込んだ。 「…」紗綾は両手で口を押さえて大きな目をキョロリと亮に向けた。 「どういうこと?」 「何でもない」 紗綾の顔がぷうっと膨れた。亮は気分を変えようとベンチから腰を一旦上げて座りなおし、神妙な顔を作って切り出した。 「どうしたらいい?」 亮が顔を精いっぱい紗綾の方に向けて黒い瞳がまっすぐに紗綾に届くようにした。 「どうしてもダメ」と言うだけでは足りずに、紗綾が鼻にしわを寄せた。 「アイスでどう?」 亮はまっすぐに向き直ってちらっと紗綾を見てから勝負にでた。 「え?」 紗綾の目が亮の方を向いた。 「シュークリームもつけるよ」 亮が更にさりげなく言った。 「アイスに、シュークリーム?人をなんだと思ってるのよ。うーん」 そう言いつつも紗綾に迷いのあることは隠せなかった。 「じゃ、アイスとシュークリームにぬいぐるみでどうだ」 亮は手応えを感じて紗綾の顔をのぞき込んだ。 「え、ほんとに?あのクレーンゲームで取ってくれる奴?いくつ?」と言って、紗綾は思わず体ごと亮の方に向いた。 「じゃ、三つ。それで許してくれる?」 「どうしようっかな」と言いながらも紗綾の顔がすっかり緊張を失ってゆるんでいた。 「仲直りしようよ」 亮は紗綾のふっくらとした手をとった。 「うん。じゃ、ぬいぐるみは三つね。色を変えてね。ピンクはもうあるから、白と黄色と水色」 「厳しい要求だな。でもいいよ。おまえがそうして欲しいなら、そうする、必ず。じゃ、もう一度、挨拶させて」 亮はいいながらもう紗綾の顎に指をかけていた。 「いいけど。それからうちに遊びに来てくれる?」と紗綾が小首を傾げながら言った。 「おまえのうちへか?」 亮が驚いたように目を見張った。 「そう」 紗綾はこっくりと首を傾けた。 「いいのか?」 亮は紗綾の意向を確かめたかった。 「いいよ。お母さんにまた会ってよ」 「ほんとにいいのか?お母さん、俺の怪我のこと知ってるぜ。それに、君には不似合いだと、お母さんは思うだろう」 「いいよ。お母さん、いい男には甘いから大丈夫。傷のアフターケアしてくれるかもよ」 「わかった。何言われてもいいや。殴られるのにも慣れてるしな」 「殴ったりはしないと思うよ、たぶん。じゃ、明日、三時頃」 「うん」 亮が紗綾を見てにっこりと笑った。 亮の気持ちは紗彩を見ていると不思議に和らいだ。思い出すと嫌なこともある。そう思って、亮はいやな思い出を頭から吹っ切るように顔を二、三回横に振った。そして圭一との出会いを思い返した。  まだ幼さの残る目元に、爛々とした光をたたえて自分を見つめる圭一。無理矢理似合わないリーゼントにまとめた髪、剃り込みを入れた額、傷跡のある口角、高くした学生服の襟元。しゃくりあげる顎の先で、亮はそのまなざしをまっすぐに受けて立っていた。長めではあったが横分けにした髪、濃いままの眉、セーターにスラックスという出で立ちの亮は、さしずめ不良に絡まれたまじめな中学生だった。 「何だよ。ここじゃ見かけねえ顔だな。何しに来たんだよ」 初めてはいるゲームセンターでとぐろを巻いていた圭一とその仲間が亮を取り囲んだ。 「金がいるんだ」亮はこれと目星をつけた圭一に向かって言った。 「金?まじめな坊ちゃん面して何が金だよ」  後ろに控えていた小物のガクランが、圭一に耳打ちした。 「へーえ。第三中のたらしかよ。金がいるのか」圭一がゆっくり亮の周りを回ってジロジロと眺めた。  知れることのないように選んだはずのゲームセンターでおしゃべりガクランに身元を明かされた亮は、舌打ちしてその小物をにらみつけた。小物は首をすくめて圭一の陰に隠れた。亮は何も言わずに顎で脇のゲーム機を指した。 「いいだろう。じゃいくらでやる」  椅子に座りながら言う圭一に、亮は人差し指一本を指した。 「よし。何回?」 「七回」 「よし」  小手調べで圭一の力を図るように一回の勝ちをを与えた亮は、次の三回をとった。 「ちくしょう、やりやがるな」あせりを見せた圭一がゲーム機を蹴った。 「落ちつけよ」亮が口元にぴくりとした笑いを浮かべた。 「言われるまでもないや」 圭一がふてくされたようにコインを投入した。一時間もしない内に勝負がついた。 「おめえ、つええなあ。二回わざと負けたろ」圭一が亮を見て感心したように言った。 「そんなことねえよ」 「俺の顔つぶさねえようにと思ったのかよ」 「そんなことないって。おまえが強かったんだ」勝負に勝った亮が差し引き三回分の千円札をまとめながら溜息をついた。 「それに、おめえ、一本一万のつもりだったろう」と溜息を聞き逃さない圭一が亮を覗き込むようにして言った。 「え?まあな」札を財布に押し込めながら亮が上目遣いに圭一を見やってから苦笑いをした。 「わりいな。入り用な用事から考えてそうだろうとは思ったんだけど、俺にもいろいろ都合ってものがあってな」髪型に似合わせない無邪気な笑顔を見せて圭一が言った。 「そりゃそうだろう。あわよくばって思っただけさ」 一勝負で事を済まそうとした亮は、先のことを考えて再び眼差しを落とした。 「金いそぐんだろ?」 「まあな」 付き合っていたマリアの顔が脳裏に浮かんだ。わかれるために必要なカネだった。 「俺と組め。そうすればちょろいぜ、そんな金」  こうして二人は不良のたまり場を荒らしては小銭を稼いだ。僅かな間に二人は目的の金額を達成し、あたりでの風評もたち始めていた。いつの間にか二人のあとにはギャラリーの中に必ずいた一太が従っていた。亮は注目されるのを嫌ったが、好むと好まざるとに関わらず、三人は人目を引いていた。  そんなある日だった。 「おい、亮、まずいぜ」息をきらして入ってきた情報通、一太のただならぬ様子に、亮が立ち上がった。 「いくぜ」 「おう」  亮は、ゲーム機の上に広げられた小銭と千円札をがさっと集めるとそのゲームセンターを走り出ていた。 「一太、左へ行け、俺はこいつのこの格好を何とかする。でないと逃げ切れない」 「よし。でも大丈夫かい。今日のは不良じゃないぞ。マッポを巻くのは難しいぜ」 「心配するな。またな」 「おう。いつものとこで待ってるぜ」  一太と別れた二人は人ごみを求めて大きなスーパーマーケットに足早に入り込み、洗面所に直行した。誰もいないことをちらっと見た亮は圭一を個室に押し込んでから自分も入り、鍵をかけた。 「そいつを脱いでこれを着ろ」亮が圭一のガクランを顎で指しつつ、鞄から自分の学生服を取り出した。 「早くしろ。こんなとこは一番にねらわれる」狭いトイレで圭一はあわてて亮の学生ズボンにはきかえ、上着も脱ぎ捨てた。亮は学生服を羽織った圭一を便座に座らせ、鞄から取り出したヘアブラシでリーゼントを崩し始めた。 「なにすんだよ」圭一が腕で亮のブラシをよけた。 「俺の上品な学生服にこの髪型は似合わねんだよ。亮は圭一が朝小一時間はかけて念入りに解かしつけたであろう髪に無遠慮にブラシをいれた。 「早くボタンをかけろ。それにしてもでかい図体だな。ズボンがつんつるてんだ。それに、この剃り込みがどうやっても隠れねえ」  人の気配を察して亮が便座に飛び乗った。 「学生風の男二人が来ませんでしたか」足早に入ってきた男が声をかけた。 「クソ、出ねえな。あ、切れた」圭一が息んだ声で言った。 「失礼しました」男は恐縮して出ていった。  しばらく息を潜めていた亮がそっと便座から降りた。 「そろそろいくか。そのガクラン、これにいれろ」圭一は察して観念したように亮が差し出した紙袋に脱いだ服をつめた。鍵を開け、誰もいないことを確かめると亮が先に出た。 「いいぞ。その袋捨てろ」亮がごみ箱を指していった。圭一が惜しそうに紙袋をごみ箱に押し込んだ。 「拾いにくんなよ」亮が横目で圭一を見た。 「こねえよ。しかし、ひでえ髪型だな」洗面台の前の鏡を見ながら圭一が前髪を指で整えようとした。 「せっかく隠した剃り込み、出すんじゃねえ」 「ちぇ、おめえ、美容師にだけはなるじゃねえぞ」 「なんねえって。ご忠告ありがとうよ」  亮は着ていたグリーンの編み込みセーターを裏返して腰に巻き付けた。セーターは表とは様変わりの地味な色を見せ、白いワイシャツにグレーのスラックスは、どこにでもありそうな組み合わせだった。二人は目立たぬようごく平凡な青少年として町を歩いた。 「後ろ暗そうに下向いて歩くなって」亮がうつむいて歩く大柄な圭一を見て言った。 「だって、こんな妙竹林な頭じゃよ」 「そうか。それにどいつも私服に見えるな」 「ああ」  亮は電車を乗り継いで自分の家がある駅に着いてから圭一と向き合った。 「なあ、このままじゃおまえ、ダメになっちまうぞ」 「女妊娠させて、堕す金ほしさにカモ狙ってたおまえにいわれる筋合いかよ」圭一がふてくされたようにポケットに手をつっこんだまま言った。 「そりゃそうだけどな。でも、今のままじゃ早晩俺の二の舞だ」 「俺はおまえと違って硬派だからな。女、はらませたりしねえぜ」圭一が自慢げに高い鼻を上に向けた。 「そうかもしれないけど、はらませるかどうかじゃなくて、もっと根本的なとこだよ、俺が言ってんのは。おまえ、このままでいいのかよ」 「このままもどのままも、なるようにしかなんねえじゃねえかよ」圭一が目をむき、口をとがらせた。 「そんなことねえよ。少なくとも今のままじゃまずいぜ」 「俺にどうしろっていうんだよ」 「まず髪を切れ、切るところはな。伸ばすとこは伸ばせ」 「なんだよ」圭一がまなざしの奥に僅かなおびえを見せて呟いた。 「その剃り込みと眉のことだ」 「気に入ってやってんだからほっといてくれ」圭一は横を向いて、亮の視線を避けた。 「俺はおまえとこのままやっていきたい。ただし金をかけるのはやめる。俺は生活を変える」 「女、はらませるのもかよ」 「そうだ。こんなこと金輪際お断りだ。どんなによくったって、俺は決めた。でもおまえのその格好は目立ちすぎる。おまえと歩いてて、三回に一回はガンとばされるしな。それに、マッポに追っかけられたって目印みたいなもんだ、図体の大きなおまえがそんな格好じゃな」 「やり方変えるんなら、逃げる必要ねえじゃねえかよ」 「強いってだけでやられることもある。目立つってだけで叩かれることもある。俺はおまえと楽しくやっていきたいんだ。でも俺達は目立ちすぎる。もしおまえがこのままなら、コンビは解消だ」 「金の切れ目が縁の切れ目ってわけかよ。」 「そうだ」亮は何を言われても動じるつもりはなかった。 「つめてえ奴だな。そうやって女も切ったのかよ」 「そうだ」男であることの自信が、はれぼったい目にあどけなさを残す圭一を蹴散らした。  「どうする?」亮は圭一と初めて会ったときのように正面から見据えた。 「どすりゃいいんだよ」圭一の視線が自信なげに揺らいだ。 「まず髪を切れ」 「切るってどんな風に」 「剃り込みに長さを合わせるんだな」亮はきっぱりと言った。 「あわせるって、そりゃ、頭丸めろってことかよ」圭一があわを食った。 「そうなるかな。それが一番無難な方法だ」 「どこが無難なんだよ。何で俺が坊主になんなきゃなんねえんだ」圭一が不満そうに亮を見たときだった。 「おいおい、ここまで来てるぜ」亮が駅の改札に目を走らせた。視線の先に、私服警官とおぼしき体格のよいグレースーツの二人の男を認めた。鋭い眼光を改札の四方に走らせている。 「なんだっていうんだ。しつっこい奴等だ。よれたスーツ着込みやがって」圭一が舌打ちした。 「俺達もやりすぎたんだぜ。こりゃ、おまえが頭でも丸めるしかないぞ。それで済みゃおんの字だ」圭一を従えて、亮はゆっくり二人組に背を向けて歩き始めた。 「畜生」圭一は観念した。  亮は理髪店の前まで来て歩みを止めた。 「いいな」亮が圭一の肩を叩いた。 「ああ」  亮と圭一は理髪店の中に入った。石鹸の香のする明るい店内に先客はいなかった。 「よう。こないだ来たばっかじゃないか」剃刀を研いでいた理髪店の若い主人が気軽に声をかけた。 「うん、伸びがよくって。お客連れてきたよ。切り甲斐あるから、先に丸めてやって」  椅子に座った圭一の髪を手で撫でて剃り込みを確認すると、理髪店の主人が圭一に声を掛けた。 「どうします?」 「任せる」圭一が憮然として言うと、主人が笑った。 「おまかせですね」  僅かに伸びた剃り込み部分を丁寧に見てから主人は櫛とバリカンを手に、長い前髪から一気に落とし始めた。鏡に映る隣の妙な光景に、洗髪を終えて椅子に座った亮が歯を噛みしめた。 「いかがですか」出来上がりを刷毛で仕上げながら主人が満足そうに言った。 「しかたねえ」 「つるつるじゃねえじゃねえかよ」 亮が圭一の坊主頭と言ってはもったいない精悍な髪型を見ていった。 「それじゃあんまりだから、短いところから少しずつ長めにもってったんだよ。なかなかいいだろう」主人は出来映えに見ほれるように目を細めた。 「ほんと。いいよ、それ」  理髪店の主人が、店の前をあわただしく行き来する人影に眉をひそめた。おもむろに箒を取り出すと圭一の回りに落ちた長い髪を亮の方に掃き寄せて散らした。 「お流し」主人が片目を閉じてから若い手伝いの女の子に言うと、お下げ髪の女の子は手際よく圭一が掛けていたケープをとってはたいてから洗髪に促した。倒した椅子の裾に目をやった女の子は、短いズボンからニョッキリと出るすねを隠すように長いタオルを圭一の膝にかけた。店の主人が鋏と櫛を持って亮の脇に立ったときだった。 「御免下さい。二人組の若い男を捜しているんですが、来ませんでしたでしょうか。一人は長髪、リーゼントにガクラン。一人は何とも特徴のない緑色のセーターとねずみ色のスラックス。どちらも大人っぽく見えるが中学生といったところなんですが」姿勢の良い二人組のうち、一人が黒い手帳をかざしながら言った。 「二人組は来ませんでしたね。ご覧になっていただくとおり、一人はもうお仕上げのバレーボールの選手、ここの中学じゃ評判の子。控えじゃないんですよ、控えじゃ」主人がにっこり笑うと、圭一が洗っている最中の頭を愛想良く上げた。 「もうおひとりはここらの坊ちゃんで、やっと長髪を切る覚悟のついた高校生で、お母さんもお喜びでしょう。ねえ、坊ちゃん」言われた亮が決まり悪そうに笑ったので、二人の格幅のよい男は黙礼をして店から出た。 「おじさん」亮が言うと主人は笑って亮の肩を叩いた。 「いいさ。リーゼントの男も消えちまったしな。もういくら探しても無駄さ。俺が消したから。おじさんが昔っから知ってる坊やのことだ。その友だちだろ?二人ともいい目してるよ。洗髪を終えて再び椅子に座った圭一の頭をタオルで乾かしながら店の主人が言った。 「まゆげ。」亮が言うと、主人が笑いながら既に手にしていた眉墨を圭一の顔に当てた。 「そこまですんのかよ」 「大丈夫、すぐ自前が生えてくるから。できるだけ実物に忠実に描いとくよ」使い終わった眉墨をお下げ髪の女の子に投げると、女の子はひょいと受け取ってポケットにしまった。女の子の髪の先は金色だった。まっすぐに切りそろえた前髪の下の大きな目を圭一と亮に向けて女の子が大きな声で言った。 「毎度ありがとうございます」釣り銭を受け取る亮は、店の主人の手の甲に並んでついた丸いケロイドに目をやった。気づいた主人はもう一方の手で四つのケロイドをさすって言った。 「若いってのはね、いいよ。やり直しがきくからね。俺も若い頃は、ちょうどそのお兄さんみたいな髪してたんだ」 亮は目を見張って七三にわけて裾を刈り上げた店主の髪を見た。 「剃りなんかもいれたりしてな。でも今じゃそんなもん入れなくったって、天然の剃り込みだあ」主人が額を叩いて笑った。 「それに、このあたりの青少年育成担当なんだぜ。笑っちゃうよな」 「ふうん」亮が主人を見つめた。 「でもさっきの刑事さんたちは、担当違いだな。きっとなんかの間違いだ。暴力団担当だもの。きっと、小金賭けてた子供を、暴力団予備群と勘違いしたんだろうよ。今度少年係に会って言っとこう」 「ぼ、暴力団?」亮と圭一が声を合わせた。  それから亮と圭一の平凡に努める中学生生活が始まったのだ。  そんな亮にとって自身の暗い部分を忘れさせる何かが紗綾の中にはあった。紗綾は髪を染めた女の子達との大人っぽい世界とは対局の清らかさを持っていた。紗綾と過ごす時間は亮にとって、生まれ変わったようにさえ感じさせる新しい経験だった。決していうなりになるのではないのだが、紗綾はじっと亮を見つめていた。紗綾は光に照らされることのないどんなに醜い自分を見せても見守っていてくれるだろう。 八、写真  紗綾はまめまめしくクッキーを焼いたり、応接間を片づけたりしていた。 「おや、精が出るじゃないか。彼氏でも来んのか?」 信幸が紗綾を見おろして言った。 「ほっといてよ」 紗綾は兄を見上げず、おろしたての白いエプロンドレスをなびかせながら片付け作業に熱中した。 「そうだよな。悪いこと言っちゃったかな。彼氏なんて、おまえにいるわけないもんな。万一そんな奴がいたら、連れて来いよ、顔を拝んでやるから」 東京の下宿先から戻った信幸は、洗いたての白い綿のシャツを着ていた。色白だった顔は、自立した学生生活ですっかり大人びてたくましくなっていたが、濃い眉の間に時折走るしわが表情の繊細さを残していた。 「うっるさいわねえ。たまに帰ってきて、それしか言えないの。かわいい妹の顔見て。」 「かわいい団子の顔見て、これしか言えなくって悪かったな」 信幸は紗綾の丸い顔を両手に挟んで団子を転がすようになでた。 「なにすんのよ、医者の卵だからっていって、うら若き乙女に気安くさわらないでよ。患者さんに嫌われるよ。スケベ医者って。それに今なんて言った。まっさか、まさかまさか、だとか、んとか、ごとか言わなかったでしょうね。あたしの一番気にさわる、団子って言葉、その口からはみ出さなかったでしょうね」と言いながら紗綾は持っていた雑誌を振り回して兄を狙ったが、信幸が軽く身をかわしたので、空振りを連続した。 「まあ、まあ、まあ。二人しかいない兄妹なんだから、仲良くしなさいな。それに、お兄さん、驚くなかれ、今日来るのは正真正銘、紗綾のボーイフレンドですよ」 割って入った母、信子が眼鏡の枠を軽く持って引き上げながら言った。 「おかあさん。その驚くなかれって何なのよ。それにボーイフレンドじゃなくって、お友達でたまたま男の子だってだけ」と紗綾が訳知り顔をして、人差し指を横に振った。 「そうだろうな。でもそのたまたま男だったそいつの顔も拝みたいもんだ。殊勝な奴だ、いい心がけだ、誉めてやろう。これも人助けだ」と言いながら信幸が健康的な並びのいい白い歯を見せた。 「人助けって何よ。いちいち妙な言い回しするんだから。ほんとにお友達なだけだから、兄さん顔ださなくっていいからね。ばかニイが顔出すとめんどくさいもの」 「へえ。俺に会わせたくないんだ。どんな奴なんだよ。興味わいてきちゃったな」と言いながら、信幸は向かい合って両手を壁につき、紗綾の逃げ道をふさいだ。 「何よ。どんなってそりゃ背が高くってさ。かっこいいに決まってるじゃない」と、逃げ場を失った紗綾は兄を見上げながら必死に言った。 「ふうん。それでどんな顔で、どんな奴なんだよ」とさらに信幸は長身を紗綾の方にかがめ、意地悪そうに笑いながら顔を近づけた。 「どんな顔って、うーん。そうね。色は白くって、鼻は高くって、面長の顔で。顎はすこおしとがってて。兄ちゃんなんかよりずっとかっこいいよ」 「そいつはごちそうさまだな。で、どんなとこがかっこいいんだよ」 「そうね、背高いし」と紗綾が繰り返した。 「ほう、俺も高いが、高いってと三メートルぐらいあんのか?」と信幸が半分鼻から息を抜いて言いながら、からかうように濃い眉を上げた。 「バッカじゃないの。百八十欠けるくらいかな」 「何だ。じゃ俺と同じくらいか」 「背丈だけじゃないでしょ、人間は。色は白い方かな、鼻は高くって、眉濃くって、目がなんていうかキラリと鋭くって」と言いながら兄の顔を眺めつつ、紗綾が悩んだ。 「それに、そうだ、バカ兄ちゃんと違って優しいし」と紗綾がやっと思いついて言った。 「そうか、そりゃ悪かったね、優しくなくて。で、どう優しいんだよ」と言う信幸の目に光が走った。 「えっと、そうだ、ぬいぐるみくれたり、学校のかえりに待っててくれたり」 「おいおい、貢ぎ物に、学校帰りの待ち伏せか。穏やかじゃないよ、かあさん。大事な妹なんだからな。それに、ぬいぐるみで釣れるところが情けないな、我が妹」 紗綾を囲む手はそのままにし、顔を母親に向けていった。信子は笑って受け流している。 「うーん。お兄ちゃん。そういうんじゃないのよ。なんて言うのかな」 紗綾は説明に窮して小首を傾げた。間近に迫る兄の顔を見て悩んだ。色の白さといい、鼻の高さ、きりっとした口元といい、亮に兄よりまさっている顔の美点を探すのはなぜか困難だった。 「で、おまえのことなんて呼んでんだ、そいつ。だいたい下心なしにおまえみたいな奴のことをかわいがる男といったら、この兄ちゃんぐらいなもんなんだからな、あと父さんと。一体どんな奴なんだ、こんないたいけない団子をからかうのは」 「そんなんじゃないって。だからお友達だってば。兄ちゃんが女の子と見れば下心丸出しで近づくから、みんなそうだと思うんだよ。ばっからしい。なんて呼んでるかって言うと、ええと、あ、今団子って言った?」 「言ったよ。それとも大福がいいか?」と信幸が追い打ちを掛けるように言った。。 「し、失礼な。言うに事欠いて、大福だって。くそおっ。あ、ああ、あああ、母さん、母さん、大変。解った。誰に似てるか」と、兄の顔を見ながら紗綾が叫んだ。。 「何ですか、いきなり大きな声で」と言いながら、信子が一緒に片づけていた雑誌を書架にしまってからゆっくりソファに腰掛けた。 「だって、だって、亮さんが誰に似てるか」 その勢いに信幸は驚いて身をひいた。その拍子に紗綾は囚われの身から解放され、母親のとなりに勢いよく座った。 「だれなんです」と言って信子は紗綾の顔を覗き込んだ。 「こいつ、こいつ、このバカ兄ちゃん。信じたくない、こんな奴に外見だけでも似てるなんて」 「バカ兄ちゃんとは何だ、バカ兄ちゃんとは。ちゃんとお兄さまと言いなさい」と伸幸が口を挟んだ 「うるさい。バカお兄さま。今大事な話してんだから」と言ってから、紗綾は信幸にちらと意地悪そうな一瞥をくれた。 「バカはつけなくてよろしい。それにだ、この俺に似た奴なんて、そんじょそこらにゃいないぞ、なんか肖像権を侵害されたようで、気分悪いな。気軽に言うな。そっちこそ失礼だ」 「そういえば、そう、あの人、確かに似ていると思ったのよね」とつぶやきながら、信子が思い出して姿勢を正した。 「ええ、母さんまで。そんなに僕に似ているんですか、そいつ」 「いいえ。私が思ったのは、あなたの叔父さん」と言って、信子は記憶を確かめるように眼鏡の奥の目を細めた。 「ああ、母さんの弟の」 意外な答えに、信幸は憑き物が落ちたように鎮まった。 「そう、あの人を見たときふっと、だれかのイメージが重なったの。弟の若い頃だったんだわ。あなたは母さん似で、母さんと弟はおじいさん似だから、紗綾があの人を見て信幸さんに似ていると感じても無理はないはね」 「そうですか。でそんなに似ているんですか」と言って、信幸が観念した。 「うん、そりゃもう、ウリ二っつ、中身は全然違うけどね」と、紗綾が最後を強調した。 「いや、そんなに似ているんなら、中身もいい奴に決まってるさ。ねえ母さん」 「そうね。でも中身に関しては、顔かたちと違って、弟とあなたは似てはいないの、幸い」 「そうですか、で、どうして幸いなんです。叔父さんも医者でしょう、順調に開業医してるじゃありませんか」 「ええ、まあ、でも、若い頃ねえ。ちょっと、素行が芳しくなくって」 「ふうん、つまり、女癖が悪かったって訳ですね」と伸幸が無遠慮に言った。 「ええ、まあ、はっきり言えば」と信子が柄にもなく口を濁した。 「じゃ、叔父さんに似ている、俺に似ているそいつはどうなんです。」 「さあ、どうで…しょう…かしら」と信子は考え込むように言葉をきった。 「で、そいつは誰に似ているんだい。お父さん、お母さん」信幸が紗綾を振り向いていった。 「さあ、お父さん、いないし、お母さんには似ていないって」と紗綾がぼんやりしながら言うと、信子はゆっくりと立ち上がった。 「どうしたの、母さん」 「私もうっかりしていました。あのときに何で気づかなかったんでしょう」 信子は考え込んだまま、二階へ上がると一冊の古びたアルバムを持って降りてきた。 「年代ものですね」と信幸が言った。 「ええ、これ」と言って信子が指さしたのは、紗綾にも見覚えのあるモノクロの写真だった。 「あ、これ、ブルージュに行った時の」と、紗綾が無邪気に笑った。色の変わった写真には父親に抱かれた紗綾の隣で、信子の弟が男の子を抱いている姿が映っていた。 「そう。あなたはあまり覚えていないのね」 「うん。だって、歩かされたことばかりで、それになんか馬糞臭くって。兄ちゃんは覚えているでしょ」 「覚えてるよ、よおくね。僕は学校休めなくて、おじいさまとおばあさまのあのかたっくるしい家に預けられたんだ」 「ええ?だって、写ってるじゃないの、この写真に」 「こりゃ俺じゃないよ。ばっかだなあ、おまえが三歳だろう、この時。そしたら俺がこんなに小さい訳がないだろ。おまえと俺は四つちがいだぞ」 「あ、そうか。じゃこの子は誰なの。叔父さんが抱いてるこの男の子。あたし、今の今までこの子はバカ兄ちゃんだと思ってた。なあんだ、違うのか。あはははは」と紗綾が笑った。 「おまえ、笑ってる場合か。」 「何で。何で笑ってちゃいけないの」 「おまえ、何で今の今までこの見も知らぬガキを俺だと思ってたの?」 「うん。似てるから。だって、兄ちゃんのの小さい頃の写真にそっくりじゃないの」 「で、今その俺に誰が似てるって話をしてたんだっけ」 「叔父さん」 「それと?」 「え?ええ?そうだ、なんですって?そんな、バカな事って。やだ。嘘でしょう。そんなの絶対、違う」 その時だった。電話のベルが鳴った。 「もしもし」と紗綾が出ると、相手は亮だった。 「ねえ、相談したいことがあるんだけど、少し早めじゃダメかって、うちに来るの。お母さんに相談したいんだって」 「いいですよ。それから」 「そうそう、それから写真持ってくるように言えよ。」と信幸が脇から口を挟んだ。 「そうね。あの写真。」と信子がぽつりと言った。 「わかったわ、ブルージュの写真ね」と紗綾もさすがに飲み込んでいた。  一時間後、約束の時間ぴったりに、亮は木下家の呼び鈴を鳴らした。その音に三人三様の思いを抱いていた。信子と信幸は応接間に導かれた亮の一挙一動を見つめていた。亮が静かにソファに座ると、紗綾が口を開いた。 「あの、兄の信幸です。」 「初めまして」 目は亮に釘付けになったまま、信幸は頭を軽く下げた。二十歳の信幸の体は、思春期を過ぎてたくましさを増してきていたが、数年前にはちょうど亮のようなほっそりした長身だった。男にしては白い肌、穏やかだがじっと見入るようなまなざしと彫りの深い面立ち、すべて異様に自分と共通するものがあることを感じて、信幸は身震いした。 「初めまして。あの、ちょっとご相談が。お兄さんもいらしてちょうどよかった」 何より似ているのは声だ、と信幸は思った。 「相談って?」信子が穏やかにきりだした。 「それが、詳しいことは言えないんですが、僕の進路についてなんです」 「進路」と信子が畳み掛けた。 三人の思いを知らず、亮がきりだした。 「ええ。僕の今行っているのは進学校じゃありません。成績も、特に良くありません」 「喧嘩もお盛んなようですわね」と信子が言うと紗綾が舌を出して首をすくめたが、亮は素直に軽く頷いた。 「そうなんです。いや、別に今のままならよかったんです。ところが、ある人から突然の申し出があって。ところが今の僕にはとても無理難題だと思うんです」 「無理難題とは?」と信幸が身を乗りだして割り込んだ。 「僕にいきなり、医者になれって言うんです」と言って、亮はいつになくはにかんで赤面した。 「医者に」と信幸が驚いて繰り返した。 「ええ。僕だって、バカじゃありません。医者になるのがどんなに大変なのかぐらい、いくら三流高校に通っていたってわかります。あと一年半で、一体僕のような者が医学部に入れるようになるものなのかどうなのか。紗綾さんのお母さんにご相談したくって。医者の知り合いっていったって、いないし。今日はお兄さんもいらしてちょうどよかった。こんな相談って恥ずかしいんですが、でも、援助してくれるっていう人にもダメならダメで早く返事をしないといけないと思って。いくら行かせてやるって言われたって、無理なものに賭けさせられはしません」 「で、あなたはどうしたいの」と信子が亮を見つめて静かに言った。 「わからないんです。いままで自分の判断力には自信がありました。瞬間的に判断して動けば大抵いい方に転がってたんです」 「ゲームの話ね」と信子が言った。 「ええ、つまんない物の話で申し訳ありません。でも、これまでの僕の生活って、こんなもんだったんです。僕よくわかりました。瞬時に決まって楽に生きてこられた。ところが今回、どうしても自分では答えが出せないんです」 「データが不足してるからだろう」と信幸が言った。 「そうですね。詳しくは言えないって言いましたけど、実は僕にもどうしてこんな話になったのかよくはわからないんです。もしかすると、母が頼んだのかもしれない。そうしたら、母に肩身の狭い思いをさせるのかもしれない。母はどう思っているのだろう。僕にどうして欲しいのか。あるいはその人はどう考えているんだろうか。母に頼まれて、半ば迷惑に思っているんだろうか。それともそれくらい義務だと思っているのかとか。僕は僕で、一体頑張れば出来ることなのか、それとも望むのもばかげているくらい無理なことなのか、わからないんです」 「君は、可能ならやってみたいの?大事なことは、君はどうしたいかっていうことなんじゃないかな」と信幸が見かねていった。 「そうですね。本当のことを言うと、もし可能性のあることならやってみたいとは思います。今までのように運を天にまかせるのではなくって、自分の力で切り開いて行くって事をしてみたい。ただ、僕には出来ることと出来ない事、というより、していい事と、しちゃいけない事ってのがあるんです。もし母を困らせたり、悲しませたりすることなら出来ない。母は決してそうは言わないと思うんです。今度のことも本当のことは言わないでしょう。援助してくれる人がなぜ僕を医者にしたいのかさえ僕にはわからない」 「そうか。済まなかったね、勝手に君のしたいようにすればいいなんて無責任なことを言って。僕の方こそ恥ずかしいよ。僕は何の迷いもなく医学の道を選んで、差し障りなく生きてこられたからね。君のように自分のしたいことが他の人にとってどんなかなんて考えたこともなかったよ」 「僕、決められないんです。こんなこと初めてです。夕べからずっと考え続けました。寝ていません。情けないですが。決めて下さいなんて言いません。ただ、少し教えて欲しいんです」と亮はうつむいて言った。 「出来ると思うよ。一年半で。でも僕がそう答えても、次の問題が君を苦しめるんだろう」と信幸が言った。 「そうです」 亮は相変わらずうつむいたまま、寝不足で充血した目をかくそうとしているようだった。紗綾はいつもより憂いを含んでいる亮の彫りの深い横顔を見つめた。 「僕は母を不幸には出来ません。父が母を不幸にしました。それは僕が償います」 亮は初めて顔をあげてきっぱりと言った。 「それなら、事実はどうなのか確かめりゃいいじゃないの」と紗綾が幼さを残す声で言った。その唐突な紗綾の言葉に信子が答えた。 「そうですよ。確かめたらいいんです」そう言うと立ち上がって電話の所まで行きゆっくり受話器をあげた。思い出すのに少し時間をかけたが、覚えているナンバーを押し、相手が出るといつものように冷静な通る声でいった。 「もしもし、しばらく。元気かしら。あら相変わらずの若い声ね。クリニックは繁盛している?ところで用件だけど、今あなたの息子さんが来て、たいそう悩んでらっしゃるわよ。あなたは相変わらず、勝手をしている様ね」  亮は目を大きく見開いたまま信子を見つめていた。 「亮さん。写真見せて」と紗綾が促すと、亮は信子のやりとりに気をとられながらも、挟んできたバインダーから色の変わった写真を大事そうに取り出した。 「あ」 紗綾が信子の出してきた写真の隣にそれをおいたとき、三人の口から声とも息ともつかぬ音が同時に漏れた。 「どうして」と亮がいち早く問いかけた。 「こういうことだ」と信幸が確信を持って言うと改めて二枚の同じ写真に見入った。 「君の持ってきたこの写真に写っているのは、君のお父さんで、その隣に写っているのは僕たちの父、抱いている団子は、ここにいる紗綾だ」と信幸が説明した。 「団子はないでしょう、団子は」と上気した赤い顔を信幸に向けて紗綾が言った。信幸は意に介さずに続けた。 「そして、今母が電話をしている相手は、母の弟、つまり君のお父さんだ」 「何ですって」 亮は目を見張った。電話を切ると信子が席に戻って会話に参加した。 「亮さんには本当に申し訳ない思いです。あなたのお父さんは、私の弟です。私の弟はあなたのお母さんという人がいながら、別な人と結婚しました。それ以来私も弟とは疎遠になってしまいましてね。女性観とか、人生観が違うんですのよね。あたしは、好きな女性と結婚する方が大事だと思ったんですよ。まして相手の方が信じていて下さるのに、それを裏切るなんて。しかも、あなたが生まれたことを知ったのは、この旅行の時。四歳にもなる子がいたなんて、学会に連れてきていたあなたを見て初めて知ったんです。弟の奥さんは開業医のお嬢さんで、しばらくは弟に大学病院で研究をさせてくれる経済力があったんですわね。それから奥さんのお父さんが引退して弟がそのクリニックを継いでやってきたの。ところが、弟のところには子供がいなくて、つまり跡継ぎがいないってわけ。それで、あなたを今更のようにあてにして、この申し出をしたのね。本当に申し訳ないわ」 「母は一体どう思っているんでしょう」と亮が言った。 「きっとあなたのやりたいようにして欲しいと思っているでしょうね。母親というのはそういうものです」 「少なくとも母が言い出した事じゃないんですね」と言って亮が食い入るように信子を見た。 「そのようですわね」 「僕を援助する見返りは何なんでしょうか」 「そりゃ、クリニックを継ぐことだろう」と信幸が言った。 「父と一緒に、つまり父の奥さんと一緒に住んで、つまりは養子になるって事なんでしょうか」と亮が一つ一つをはっきりさせにかかった。 「そうなるでしょうかしら。弟がどこまで考えているか確かめませんでしたが、ききましょうか」 「いえ、もし許されるのなら、僕が直接伺いたいと思います。僕がしたいことは決まりました。僕はやります。医者になれたら、父の医院を手伝っても、継いでもいいです。跡継ぎがいなくて父とその奥さんが困るなら、僕がなります。でも、母のことも僕がやります。仕事でお役には立っても、母に必要なことも僕でなければできません。その条件をどう考えてもらえるか、僕自身の口から父に確かめた上で、父に決めて貰おうと思います。」  亮が帰ると三人はしばらく黙って座っていた。信子が冷えた紅茶をすすって言った。 「いい男だわね」 「うん。なんかちょっとがっかり」と紗綾がしょぼんとして言った。 「なんで」と伸幸が紅茶をごっくりと飲みながら言った。 「だって、あんなかっこいい人が、従兄だったなんて。何か、歩いている地面をガタガタに揺るがされたみたいな、変な気持ち」 「そうだな。おまえにとっちゃ、大地震だな」 「あらいいじゃありませんか。お近づきになれて」と信子がさらに紅茶をすすりながら言った。 「近づきすぎだよな」と信幸ががっくりと肩を落とす紗綾を見おろして言った。 「うん。だって、一緒に歩いててお友達に見られても、あ、あれは従兄なのよ、なんて言い訳しなくちゃなんないし。それでいて、見え透いた嘘でしょとか言われてさ、ほんとなのに。嘘ならまだしも」と、紗綾がしょんぼりと落ちたなで肩をさらに落とした。 「そんなもんさ。だいたいおまえみたいな団子に、俺そっくりないい男がただでくっついてくるわけないぜ。何のことはない、従兄だったってわけ。血が呼んだんじゃないのか。」 「黙って聞いてりゃ、団子とか、ただでとか、もう聞きずてならん」そう言っていきりたった紗綾が立ち上がったものの、勢いを失ってソファにへたりこんだ。 「何だ、相当がっくりきてんだな」 「なんかね、あたしも変だと思ったの、他人とは思えないっていうか、ボーイフレンドにしちゃ、なんか変な。兄ちゃんに似てたからだね。本能的に感じてたのかな」 「かわいそうだなあ。こんないい男を兄に持つと、いい男という男が兄貴に似ててな。」 「バッカバカしい」 九、家出  紗綾が亮に対して持っていた気持ちを整理しきれずに、眠れないままピンクのねこのぬいぐるみを抱いてベッドに入ってしばらくした時だった。携帯のベルが鳴った。紗綾は自分では思わず、亮からの連絡を期待した。その気持ちを自覚させたのは、電話の主が弥生だとわかったときのストンと深い穴に落ち込むような落胆だった。 「何だ、弥生か」 「何だはないでしょ、何だは。それより御免ね、こんなに遅く、まだ起きてた?うちの人が起きるんじゃないかって心配だった」 「うん、私は起きてた。うちのみんなは寝たと思う。どうしたの?」 「そうそう、それがたいへんなの」 「何が」 その日に紗綾に起こった大変なことを思い返すと、この先少々の事件には動じない自信があった。 「環、紗綾の家にいないよね」 環の名を耳にしたとたん、紗綾の胸の中で心臓がごそっと動いたように感じた。環の行動はいつも予想外で、のんびり紗綾が慌てさせられることはよくあるのだ。 「うん。いないよ。」と紗綾がおそるおそる答えた。 「それがね、環が家出したみたいなのよ」 「ええ!家出?」 大人になった気分でいた紗綾は一瞬にしてもとの団子顔の子供に戻って携帯を持ったままベッドに座り込んだ。 「門限はとっくにすぎてるし、環の家も厳しいから、遅くなったことないし。お母さんが血相変えてうちに電話してきたの」 変わった血相が電話でどうしてわかったか疑問を抱く余裕もなく、紗綾はうろたえた。 「で、どうしよう」とか細い声で紗綾が言った。 「探すっきゃないと思うけど、こんな時間じゃ、どうしたものか。もう十一時半よ」 「どこ行ったんだろ。それに何で」 「さあ、それがわかりゃ苦労はないって」 「そうだよね」と言って紗綾がしおれた。 「あたし達だけじゃ、無理だよ」 「うん、でもうちのバカ兄ちゃんは、叔父さんのうちに行っちゃったし」 「ねえ、こうなったら、あんたの彼氏に頼んでみたら」 「彼氏って?」といやな予感にかられて紗綾が声を落とした。 「ほら、プリンスよ、プリンス。こんな時には強いんじゃないかな、あの手は。それに、環、なんかゲーセンにいるような気がするのよ」 「何で。ゲーセンなんかに?それに何で、亮さんがあたしの彼氏なのよ。彼はねえ、彼氏じゃなくって」と紗綾は説明しようとして溜息をつきながらやめた。 「どうせこうなるのよね。わかったわよ。電話してみる。きっと力になってくれるとは思うの」  電話を切った紗綾は、心なしか亮の声を聞くのが楽しみであることに良心の呵責を感じた。 「もしもし、あの、宇佐見さんですか、亮さんはいらっしゃいますでしょうか。私、木下と申します。夜遅くに申し訳ありません」 亮の母の声は、優しい女性的なものだった。紗綾の叔父がしたことに対して、亮が一人で償う気でいるのかと思うと、紗綾は言葉が出ないほどに気が咎めた。 「どうしたの、こんな遅くに電話してくるなんて、珍しいじゃないか。僕のことなら心配するなよ、今日は眠れそうだから」 「え?うん。もう寝てたよね。そうだね。あの」 自分のことが心配で電話をしてきたと思っている亮に、環の話をするのがためらわれた。 「どうしたんだよ。よゐこはもう寝る時間だぞ」 従兄妹同士だとわかったとたんに、女性としても除外されてしまったようで、紗綾は、がっかりするとともに妙に腹立たしくなって黙った。 「おっと、どうしたんだ。わかったよ。御免、御免。おまえが赤ん坊とか、団子顔とか言われると怒るの、今日わかったよ。兄さんにさんざんやられてるってわけだ。ほんとに御免。もう言わないから」 亮の自分に対する察しの良さが嬉しくなって、紗綾はすぐに機嫌を直した。 「あのね。それが、環が家出しちゃったみたいなの」 「え、佐藤環が?」 「うん。どうしたらいいんだろ。弥生が、ゲーセンにでもいるんじゃないかって言うんだけど、根拠があるわけじゃないし、でも、他に心当たりもないし」 「そうか。ちょっと待っててくれるか。圭一にあたってみるよ」 「うん。でもなんで?」 紗綾の疑問は亮からの電話でさらに深まった。五分後、圭一と連絡をとったあとすぐに紗綾に電話を入れた亮は、環の家出の原因にまで踏み込んでいた。 「親父とお袋がうまくいってなくって、くさってたらしいぜ」 「そんな。環のお母さんは美人だし、お化粧もうまいし、おしゃれだし。お父さんは弁護士でまじめな人で…それに何でそんなこと圭一さんが知ってんの」 もごもご続ける紗綾を亮が遮った。 「子供にはわかんない事情ってもんがあるんだよ」 「悪かったわね。でどうしたらいいのよ、子供は」と紗綾が膨れっ面で言った。 「今から、圭一と探しに行く」 「あたしも行く。連れてって」 「ダメだ。こんな時間のあんなとこは、お嬢さん方の行くとこじゃないって」 「じゃ、いいよ、弥生と二人でこのあたりのゲーセンというゲーセンをあたってみるから。変な兄ちゃん達に絡まれて、人さらいにあっても、心配しないでね」 「バカなこと言うんじゃない。わかったから。じゃ、いつものとこで三十分後に待ってるよ。でもどうやって家を出るんだよ」 「こっそり」 「そりゃそうだろうが。せいぜい、目立たないようにやってくれよ」  弥生と紗綾がゲームセンターに足を踏み入れた時には、既に亮が圭一と一太を従えていた。亮は黒いワイシャツにグリーンのネクタイを締めている。濃いグレーのスラックスは亮の体を細いが精悍に見せていた。やはり黒い半袖シャツを着ている圭一はボタンを第三まで外して金のネックチェーンをかけた胸を開いていた。一太だけはいつもの黒縁眼鏡のまま、白い開襟シャツに黒い学生ズボンのような黒いスラックスをはいている。 「どうしてそんなこと言ったんだよ」 亮が低い声だがいつになく咎め立てする口調で圭一と対峙していた。圭一はうつむいたまま、やはり低い声で答えた。二人の周囲の空間で、ゲーセンの騒々しい雑音が消えていた。 「俺、そういうのにが手なんだ。おまえと違って、硬派なんだよ。おまえはいつも女を連れて、優しくできる器用な奴だけど、俺にはそれが出来ないんだ。面倒くさいって言うか、いつも、なんか傷つけるって言うか。それで泣かれたりしてもやだし」 「でも、彼女、悩んでたんだろ。それをおまえに打ち明けたんだろう。何で答えてやらなかったんだ」 「だって、親が不仲ってぐらいで何でくよくよしなきゃなんねえんだよ。俺んちなんかけんかがこうじて離婚だぜ。それに何で俺があいつと駆け落ちしなきゃなんないんだ」 「駆け落ち?」と紗綾と弥生が驚いて声を合わせた。 「うっそう。なんで環があんたなんかと駆け落ちしなくちゃいけないのよ。いい加減なこと言ってるんでしょう、ここにいないからって。あとで環が聞いたらどうなることか。おお、恐ろしい。くわばら、くわばら」と言いながら弥生が両手をこすり合わせた。 「嘘なんか言ってないさ」と言ってあげた顔が圭一らしくもなく、子供のように無防備だったので、二人とも信じざるを得なかった。 「でも、何で、よりによって、あんたなんかと」 茶髪のてっぺんから始まり、片耳にした金のピアス、ネックチェーンをかけた胸へと順番に弥生がじろりと圭一を眺めた。 「俺にだって、わかんねえよ。何で俺があんな気の強い女と駆け落ちなんか、好き好んで」 「まあ、いいから。それでおまえはそう言ったんだな。誰が好き好んでって」と亮が仲裁に入った。 「そうだよ。それ以外なんて言えばいいんだよ」 「他につべこべ言わなくったっていいけど、そういう言い方もないんじゃないの」と弥生が言った。 「しょうがねえだろ、いっちまったもんは」と圭一が言うと亮が肩を叩いた。 「まあ、いいさ。とにかく探そう」  あたったゲームセンター十軒を数えたところで亮達が足をゆるめた。 「この時間にひとけのありそうなゲーセンていったら、あと残ってんのは、あそこぐらいだぜ。ちょいやばいんじゃない」と言って一太が眉を寄せた。 「ああ。」と亮がじっと遠くを見つめたままうつろに答えた。 「やばいって何なのよ」と弥生が尋ねると一太が声を潜めて答えた。 「なわばりって奴」 「なわばり?」と繰り返してから、穏やかならぬ言葉に弥生が眼を見張った。 「ゲーセンでもいろんな雰囲気のとこがあって、ちょっとやばい系のとこでさ、前に荒らしてやられちまったとこがあるんだ」と一太が言った。 「荒らしたって?」と弥生が声を潜めていった。 「圭がバトルしまくって、亮が取りまくって、俺がコマンド破りまくったの」 「ど、ど、どういうこと?」と言って、方向性のつかめない話をする一太をよく見るために、弥生が下がる眼鏡をずりあげた。 「亮が、デイトナ、スカッド、ありとあらゆるレーゲー破りして名入れした上に、すくえるもんはすくいきって、ゲーセン空っぽ状態。圭は、バトルで爆発。スリーディーであんまり手が早いもんだから相手がついてこらんなくって、酔って吐きまくるしさあ。ひでえの」 「それであんたは何したって?」と弥生が暗号のような言葉の並びに戸惑った。 「コマンド使って隠しキャラ出しまくったの」一太が黒縁の眼鏡を指で上げた。 「どいうこと?」 「アーケードゲームのファイトものの中じゃ、電源投入時間とか、一定の条件で隠しキャラが出て有利になるのがあるんだけど、そいつを決まったコマンドでひょいって出せるんだ。レバーを右右下下上上上とか決まった動かし方して。たまたまそういう風に動かして出てくることもあるけど、そういう時にはどうやったかなんて覚えちゃいないだろ。そいつを破りまくって、隠しキャラ乱入狂乱状態にしたんだ。コマンド使いまくられたら手も足も出ないよ」 「あんたはどうやってコマンドを破ったのよ」 「俺、そういうの一回で覚えられるんだ。レバーの動かし方、体で覚えられるんだな」 「ふうん。動物的勘て奴?」と弥生が一太を野良猫でも見るような目つきで眺めた。 「ま、そんなもんかな。でも一発でそこ仕切ってたちんぴらと、ゲーセンの怪しい支配人に放り出されちゃってさ。恐かった」 「脅かされたの?」と紗綾が心配そうにきいた。 「脅かされるなんてもんじゃないよ。殴る、蹴る」と言いながら一太が手と足を使って模様を再現した。 「ほんとに?」と弥生が一太の意外な武闘派の一面を知って聞いた。 「ああ、多少の覚悟はつけてやってるけど、あのとき位やられたことなかった。もうこんなこと俺は絶対できないと思った」 「少しは懲りたの?」と弥生が心配そうに言った。 「ああ、少しどころじゃないよ。それもあって大人しくしてんだ。いい勉強したよ。世の中いろんなとこがあって、いろんな奴がいるって」 「ふうん。あんた意外と見た目よりは色々わかってんだ」と弥生が一太を見直していった。  「わかってますよ。やだなあ。あのゲーセンに再び到着だ」と一太がフラッシュバックする思いに照らされるかのように目を細めて、顔を横に向けた。  一太は緊張で額に汗をかいていた。 亮の横顔がゲーセンの蛍光灯の明かりで白く浮き立ち、圭一の目が鋭く光り始めた。 紗綾と弥生が入り口に立つと、今まで行ったことのあるゲームセンターとは明らかに違うにおいがした。タバコの煙と人いきれと脂ぎった大人のにおいだ。  亮は両手で髪を掻き上げてから、背筋をまっすぐにして、挑みかかるような目で中を見回した。圭一は亮の後ろから鋭い視線を投げている。一太が開襟の襟を立て、黒縁の眼鏡の代わりに胸ポケットから出したサングラスをかけるると、一瞬にして学生然とした雰囲気をなくした。ゲームをしている連中は顔に幼さをかけらも残しておらず、青白い顔を活気なくゲーム機に向けている。亮達はゆっくりとゲーム機の間をぬって進んだ。振り返る者には一瞥も与えず、氷のような視線でまっすぐ前を見ている。三人は一角に人の輪ができているのを認めた。 その輪の真ん中には、環がゲーム機を挟んで、短い髪を真黄色に染めた男と向かい合って座っている。男の顔は青白く、頬がこけ、細い鼻は薄い唇とともに冷酷そうに曲がっている。それを見た圭一がつぶやいた。 「まずいぜ、あのマシン。穴があるんだ。いつか俺がやって環を怒らせた奴」 「終了のコマンドがあって、そいつをきかすと突然終わっちゃうんだ。しかも圧倒的に不利にファイトしててもそのコマンド使ったえば勝って終わるんだ。のってるときにやられるとマジ、ブッチすること間違いなしだぜ。」と一太が弥生に言った。 「そいつをかます気だ。しかも相手が悪いぜ。チョーみじかい、癇癪玉みたいな奴、その後ろがヘンタイ、その隣が…」 「もう説明はやめて。つまりとんでもないとこに来ちゃったってわけね。」と弥生が一太を遮って頭を抱えた。 「どうする、亮」と言って圭一が亮を見た。 「仕方ねえだろ。何とかするっきゃ」と言ってから、亮が後ろにいた紗綾と弥生の方を向いた。 「いいか。何かあったら、振り向かずに逃げろ。ここの連中は誰一人助けちゃくれないからな。そんなことになんないようにするけど、相手が相手だから、何があるか見当もつかないから」 紗綾と弥生がうなずいた。 歩み寄った三人を飲み込んで封じ込めるように、人の輪が割れて再び閉じた。亮は環の後ろに立って、癇癪玉の後ろ側に立つボス風の大柄な男を臆した風なくじっと見つめた。その男も、亮をにらみ返した。 「この勝負俺に譲ってくれないか」と言いながら、圭一が環と癇癪玉の間に入って言った。環は圭一を見ると驚いたようだったが手を休めようとはしなかった。 「譲るったってなんたってさ、この勝負に賭かってんものは大きいんだぜ。俺が勝ったら、このねえちゃん頂くってことになってんだから」と癇癪玉が頭のてっぺんから声を出した。 「ね、ねえちゃんを頂く?」と弥生がびっくりして口を挟んだ。 「そうだよ。何ならおまえでもいいかなっと。ほらドッカーンと。俺なんか喋っててもできんぜ。でもやっぱこの姉ちゃんの方がいいな。でっかくて迫力あるもんね。ごちそうさんと」 「しっつれいね。だれが」と弥生が膨れっ面をした。  とその時だった。急に画面が真っ暗になり、ゲームオーバーとなった。癇癪玉が眼を見張ったまま凍り付いたように動かなくなった。コマンドを入力してゲームを強制終了させた環はその顔を見据えて不敵な笑いを浮かべている。 「なんでえ、これ。終わっちまったよ」 事の次第が飲み込めないらしく、男は雨に濡れて湿気った癇癪玉のように元気を失った。予想外の反応に圭一が驚いた。 「よう、こりゃプリンスさんじゃねえか。しばらくぶりじゃねえのよ」 癇癪玉の後ろのヘンタイの隣にいた大男が口を開いた。ボスらしい貫禄を無精ひげで見せようとしている。短く刈り上げた髪は所々緑に染まっていた。汗の滲んだ体に、袖のないTシャツがぴったりとくっついている。 「これ、ほんとに終わっちまったの?何で?勝ったの、負けたの?」と、癇癪玉がまだ状況を把握できずにぼやいていた。 「負けたんだよ、馬鹿野郎。とっとと失せろ」とボスが低い声で怒鳴ると、突風に吹き飛ばされた紙屑のように、癇癪玉がふっ飛んでいった。  「ここんとこいい子にしてたようじゃねえか。とんと姿も見せず。感心してたってのに、今日はなんだい。まずこの姉ちゃんが様子見ってか。姉ちゃんが勝負しようって言い出してさ。この列なんだと思う?勝ったらごちそうにありつけるってんで集まった挑戦者ってわけ。おまえみたいなむさい男じゃこの勝負は買えねえよ」とボスが圭一をギロリと睨んで言った。 圭一は歯ぎしりするように何度か歯をかみ合わせた。じりっとにじり寄ろうとする圭一を亮が右手で遮って、口を開いた。 「ところで、もう大分来てないけど、俺の名前残しといてくれたりして。気に入ってくれたんだ」 「うるせえな」と言い、ボスがいらだって髭の中の口をゆがめた。 「え?もしかして、消せないの。まさか。なんで?」 「うるせって言ってんだろ」 「お宅で暴れようとは思わない。いじめられちゃったりしてさ、またお宅の顔にひっかき傷作っても悪いしさ。俺、腕力ないから、爪立てちゃうのよ。殴るときはパーだしさ。お顔にあと付いちゃうじゃない。それより相談なんだけど。俺が自分で名前全部消してくから、今日のことはなしにしてもらえないかな」 「消す?」と言ってボスが短い首を伸ばした。 「そう、今から全部。自分で自分のスコア破ってお宅の名前入れるよ。それで俺、もうやめる。二度とこのあたりには近づかないって約束するよ。どう?」 「いいだろう。気に入った。このねえちゃんと引き替えでいいんだな」 「ああ。」 亮は紗綾に紙幣を渡して両替機に視線を送った。紗綾は紙幣に一枚の硬貨が乗っていることを見て、両替した後コーヒーの自動販売機に走った。 「サンキュ。気が利くな」 「だって。寝てないんだものね。大丈夫?」 「圭と一太がいれば何とかなるだろう」  浴びるようにコーヒーを飲みながら三人は、自分たちのスコアを書き換えていった。  三時を回った頃、前日も眠っていなかった亮が目を閉じて、こめかみに指をあてた。一太の指示通りのコマンドがいれられず、焦燥したのだ。 「ちょっと早すぎる?」と一太が遠慮がちに言った。 今までどんなに早く指示しても、亮がついてこないことはなかった。 「わりぃ。寝てねえんだよ、ゆうべ」そう言って亮は両手に顔を埋めた。 紗綾は亮の後ろに回って、首筋から肩を両手でマッサージした。亮は驚いたように首をすくめたが、次第に力を肩から抜いた。 「ありがとう、紗綾。楽になったよ」 「兄さんが受験の頃、こうしろってよく言ってた」 亮が後ろを振り返って口角をピクリとあげた。 「兄さんか。負けられねえな」と言ってから亮は両手で頬をぴしゃりと叩いた。  一太は対戦する亮と圭一の二人にコマンドを指示し、高得点でどちらかを勝たせた。終わる頃には空が白んでいた。二十数台のゲーム機の最後から名前を消すと、亮がボスに言った。 「これでもう会うこともないな。元気でな」  「おう。もう来るんじゃねえぞ」 ボスは亮をじっと見つめたがそれ以上は何も言おうとしなかった。明け方のゲームセンターは薄明るい窓の外に蛍光灯がすすけた光を投げかけていて寂しげだった。  外に出た環が圭一と向かい合って立った。 「ばか」と圭一が環に言った。 「あんたに言われる筋合いないわよ」 環は強がる口とは裏腹にうつむいた。亮は黙って向かい合っている圭一に環を送るように言って、二人の後ろ姿を見送った。  「あの大男を引っかいたって本当?」と弥生が一太に小さな声で聞いた。 「いや、殴ったんだ。三発ほどお見舞いしてさ。マシンから名前は消されるわ、子分の前で殴られるわで、ボスがチョー機嫌悪くしてさ。俺達、何が自慢かって、日頃から逃げ足は鍛えてんだ。三人で三方に逃げて振り切るんだよ。相手殴ってると逃げ遅れるからね。でもその時何が気にくわなかったのか、亮があいつを殴ったんだ。それが一番恐かったよ。」 「そうなの」  一太が弥生と二人で亮達に別れを告げた。 「ああ、恐かった。ははははは」と紗綾が緊張から解き放たれて、笑い出した。 「ごめん、恐い目に遭わせて」 「ううん、ほんとはちっとも恐くなかった。だって亮さんがいるんだもの。あれでよかったの?」と紗綾が亮を見て言った。 「ああ、丁度いい潮時さ。あんな生活。むなしいだけだ。あいつもきっとむなしいんだと思うな」 「あいつって」 「あの大っきな男、さっきのゲーセンのボス。前に来たときあいつ見て、何年後かの俺を見るような気がして。何か腹たっちまったんだ。だから殴ったりして。俺、人を殴ったりするのほんとはやなはずなのに。俺自身に腹立ててたのかもしれない」  紗綾の家の前まで来たとき、亮はにっこり笑った。 「じゃあな。今日は一日寝てようっと。おまえの夢でも見るかな」   十、それぞれ 「どしても、いいたかったんだ」 雨に濡れることも気にせず、亮は立っていた。黒い前髪から雨の滴が落ちて、高い鼻筋を伝わった。  二階から何気なく窓の外を見た紗綾が、家の前の電信柱にもたれて立つ亮の姿を見つけたのは、十一時も回ったところだった。十一月の冷たい雨が降る夜。いつからそうしていたのだろう。すっかり濡れそぼっている。かろうじて水をはじくウールのセーターも半ば水浸しだ。スラックスのポケットに両手をつっこみ、街灯に横顔を向けている。うつ向き加減の顔に憂いを漂わせ、足で道路の水を蹴っていた。その姿に驚いてしばし見入っていた紗綾がやっと窓を開けると、その音に亮が顔を上げた。 「紗綾」 聞こえないほど小さな声で亮がつぶやいた。紗綾は、小さく手を振ってから家にはいるように手招きした。亮は首を横に振った。それを見た紗綾は急ぎ足で階下に降り、洗面所でタオルを何枚かつかんで玄関を出た。 「どうしたの。すっかり濡れちゃって。風邪ひくじゃないの」 差し出したタオルを受け取ろうともしない亮に、紗綾は戸惑った。亮はうつむいたまま、何もいわない。仕方なく紗綾は大きなタオルを亮の肩に掛け、ハンドタオルで亮の髪と顔を拭い始めた。亮は突然紗綾の手首を掴むと、体ごと引き寄せた。亮の冷たい手が紗綾の両手を包んだ。 「どうしたっていうの。こんなに冷たい。病気になっちゃうじゃないの。何かあったの?」 見上げる紗綾の顔に、亮は冷たい頬を押しつけた。両腕を紗綾の体に回すとぎゅうと抱きしめた。紗綾はことばも無く、抱き人形のようにじっとしていた。どのくらいたったろう。紗綾は頬に亮の髪から伝わってくる明らかに雨水とは違う温かい滴を感じた。温かい流れは次から次へと続き、止めどなく伝わってくる。 「どうしたの」と言って紗綾がやっと見上げると、亮は濡れた顔を隠そうともせずに紗綾を見つめていた。 「どうしても、言いたかった」 「何を」 「おまえのことが好きだ。かわいい。こんなに素直に人を好きになれたのは初めてなんだ。なのに、誰もそれを望んでない」 「誰もって?」 「おまえのお母さんも俺がこれ以上おまえに近づくことは望んでいないよ。どうしておまえと俺に血のつながりなんてあったんだろう。俺がこんな生活で誇りに思ってきたのは、どんな時にも熱くならないってことなんだ。何を賭けても、どんなきわどい勝負でも、熱くなれば勘が狂うからな。なのに、おまえのことをあきらめようとすると、どうしても落ちつかなくなるんだ。離れるなんて考えられない」 「離れるって?」と言って紗綾が首を傾げた。 「しばらく会えない」ぽつりと言って亮がまなざしを雨に濡れる道に落とした。 「どうして?」 「昨日、父と話をした。今のままじゃとても父の気持ちをかなえることは無理だから、地元に移って、学校もかわれって」 うつろな目を落ちてくる雨粒に向けるように力無くあげた。 「叔父さんのとこに行っちゃうの?」 亮は何も言わずにうなづいた。 「そうなの。遠いわね」と紗綾は寂しそうに言った。 「俺はいやだ。おまえと離れるなんて、どうしてもできない。いっそ、おまえをどこかに連れていってしまいたい。どうしても」 そう言って亮は紗綾を強く抱きしめた。 「ごめん。解ってるんだ。おまえをこんな風に苦しめたり傷つけたりしちゃいけないこと。俺、どうしちゃったんだろな。自信あったのに。感情ぐらいコントロールできるって。クールにいけるって。父がいるってこと、おまえが従妹だったってこと。そこまでは、大丈夫だったんだ。でもいざ、おまえを本当に失うってことになって、俺、大切な物が何か解ったんだ。おまえとか、おまえを大切に思う気持ちとか。そういった物を守りきれたらって、本当に思うんだ。でも、今の俺にはできない」 熱い流れが再び亮の顔から紗綾の髪を伝わった。 「今できなくてもいいよ」 「え?」 「今それができなくっても、いつかそうしてくれれば、それまでずっとそう思っててくれれば、それでいいよ。人にはできることとできないことがあるし、しなくちゃいけないこともある。そう教えてくれたじゃない。いいよ。今できなくても。ずっと心の中で大切にしてくれれば、それで嬉しい。亮さんみたいな人に大切に思ってもらえて、嬉しい。たくさん親切にして貰って。こんなハンサムな人に、ゲーセンで初めて声掛けられて、ぬいぐるみ貰って、こんなに好きになってもらえて」 「おまえは?」 「好きだよ。すっごく」そう言って紗綾はにっこりと笑った。 「会えなくても?」 「うん」  二人が会ったのはそれから半年後、それぞれの進級前の春だった。初めて紗綾達が亮の仲間の圭一や一太と話らしい話をしたグランドホテル。亮はすっかり私立校の学生らしい柔らかな物腰を身につけていた。ソファに深く座り、組んだ片ひざを軽く両手で抱えていた。真っ白なワイシャツにグレーのブレザーを掛け、その下のVネックの白いセーターに入る紺の縁取りが色白の顔を引き立てている。濃い眉の下の目は、紗綾の姿を認めると、その丸顔が面長な大人びた顔になりつつあることに驚いたようだった。長いまつげに伏せがちの目が隠れ、はにかむように笑った口元だけがかつての紗綾を思わせた。亮の前まで来ると紗綾は初めてまなざしをあげて、大きなキラキラと光る瞳で亮を見た。白い頬は紅を差したようにピンクに染まっていた。白い柔らかなウールのコートを脱ぐと、亮の向かいに座った。短かったサイドの髪はのび、両わきにあげていた。長い後ろの髪は、プールの水で色が抜け、栗色に近くなっている。ピンクのワンピースは、大きな花柄で、長めの丈がもう子どもっぽさを感じさせはしなかった。 「待った?」と紗綾が小さな声で言って亮の隣に座った。 「ああ、ずっと待ってた」と亮がいうと紗綾が長いまつげを伏せてクフッと笑った。 「お上手ね。あか抜けちゃって。うわさは聞くわ。附属高の星って言われてるんですって?星は星でもいっぱい惑星を従えてる恒星って」 「そんなことないさ。俺は相変わらずおまえの周りを回ってるぜ」 亮が紗綾をじっと見て笑うと、紗綾はその鋭い目に吸い込まれそうな気がした。 「そんな風に惑星達を惑わせてるんでしょ。評判よ。セントテレサの情報網はかなりな物なの。首都圏の進学校、附属高の目立つ男の子については、すべてデータバンク入りよ。そういう情報集めのクラブがあるの。三十人ぐらいが殿堂入りしてるのよ。その中でもあなたについての情報は結構豊富。セントテレサにもファンがいるくらい。写真を売ったらひともうけよ。でも持ってないから」 「情報って?」 「本人も驚くようなことよ。突然、彗星のように教大附属に現れた謎の美男子って。転校してきたとたんに結成されたファンクラブ、会員は附属高のみならず、短大、大学の女子学生を含むって。裕福な開業医の子弟だが、野性的な目をしていて、その彫りの深い横顔にはかげりがある。それまでの生活歴は不明だって。全く、プリンスとは別人」と紗綾は情報の内容をそらんじてから、手を伸ばして、姿勢を正して聞いていた亮の袖を摘んで引っ張った。 「変わっちゃいないさ。あれからずぶ濡れで泣きっぱなし」と言って、亮は袖に添えられた紗綾の手をとると両手で包んだ。 「元気そうで何よりだわ。お口も達者。そろそろいかなきゃ、環と圭一さんが待ってるわ。何も婚約披露パーティだなんて大袈裟にやることないのにね。全く、いつまでも反抗期なんだから」 「おまえ大人になったな」 「ええ、おかげさまで」 「やせたな」 「ええ、それもおかげさまで」 「何だよ」と言って、亮は立ち上がると紗綾を見おろして笑った。 「暇になっちゃったから週三回泳いでるの」 「そうか。俺は相変わらず。ゲーセン通いやめてから、健康のためにバスケット少々。」 亮は黒いダブルのコートを羽織った。 「すてきなコートね」 「そう?なすがまま。人形みたいなものさ」 「誰が選ぶの?」 「あっちの母。選ぶの楽しそうだぜ」 「そりゃ着せ甲斐のある男だからね」 「ま、好きにするさ。何であれ、とりあえず着る物があればな」 「とりあえずにしちゃ、素敵よ。気に入られてるんだ。良かったね。その美貌だから」 「どうでもいいのさ。おまえも綺麗になったな、たった半年見ないうちに。こうして歩ってると、いいカップルに見えるだろうな」とゆっくり歩きながら亮が紗綾を見て言った。  客船の一室を型どったパーティルームに入ると、すでに環と圭一が招待客を迎えていた。大柄な環はブルーのオーガンジーのドレスを着ていた。圭一は茶髪に第一礼装だったが、大柄な体がタキシードにぴったりとはまっていた。ピアスははずしていた。 「紗綾、亮さん。来て下さってありがとう」 「亮、しばらくじゃねえかよ」と言って圭一が恥ずかしそうにうつむいたまま上目遣いに亮を見た。 「黙って行っちまって悪かったな。いろいろあってな。おめでとう。環を大事にしろよ」 差し出した亮の手を、圭一ががっちりと握った。 弥生と一太がにぎわしく到着した。 「環、おめでとう。もう、あたし何て言っていいか。感激だわ」そう言って、小さな白いハンカチを目頭に当てた。 「弥生こそおめでとう。留学が決まって。全学で一人しかない枠を獲得するなんてすごい。いつから行くの?寂しくなるけど」 「あたしもちょっと寂しい。でも一年だし、手紙書くから。夏休みに出発」 「俺もいつか行くから」と一太が言うと、弥生が素直に笑った。 「早く来ないと、帰って来ちゃうからね。何ていってもたった一年なんだから」 「大丈夫だよ。冬の研修にアメリカ行く目途ついてんだ」 「研修?」と環が尋ねた。 「そうなのよ。この人、もう就職が決まってんの。そこで、研修させてくれるの」 「どこ?」環が言った。 「ナメコってソフトの開発会社」 「ナメコ?」とみんなが声を揃えた。 「だから言いたくなかったんだ。なめこじゃなくてナメコ、エヌ、エイ、エム、イー、シー、オー、ナメコ。新進気鋭の開発会社なんだ、アメリカの。試しに作ったソフト送ってみたら、声がかかったんだ。卒業まで待ってくれるっていうから決めたんだけど、それまでにも、もう研修とか始めるんだ」 「すごいね。とりあえず、ナメコでもナマコでも、外国の会社から声がかかるなんて」と紗綾が言うとみんながうなずいた。 その時、会場がざわめいた。 「わあ、相変わらず綺麗だ、香理さん」と一太が振り向いて言った。 香里はほっそりした体の線に沿ったインド綿のロングドレスを着ていた。ハイヒールも履き馴れて、まっすぐにのびる脚線は美しさを増していた。長い艶のある髪が肩から背中へ、まるでシャンプーのコマーシャルフィルムのように流れていた。歩く度に髪が揺れ、ほんのりとした甘い香りを漂わせた。 「まあ、本当に」そう言いながら、紗綾は亮の顔を見た。 亮は表情を変えずに、香理の方を見ている。香理は遠くから亮を見つけると、戸惑いながらも招待者の環と圭一を目標に足早に進んだ。 「今日は、本当におめでとう。お招き下さって嬉しいわ。それに、幸せそうで、羨ましい」そう言って明るい笑顔を振りまいた。 「スカウトされるなんて、夢みたいだわ。本当にあるのね。お忙しいんでしょう。学校とモデルのお仕事の両立で。それなのに本当によく来て下さったわ」と環がうれしそうに言った。 「いえ、環さんと圭一さんのお慶びですもの、どんなに忙しくってもお祝いさせていただきたいわ」 香理はすんなりした腕を伸ばして環に握手を求めた。環はその手をしっかり握り返した。圭一が目配せすると、香理は初めて気づいたかのように亮を振り向いて頬を赤らめた。 「しばらく。お元気そう」と小さな声でそれだけ言って、香理がうつむいた。 「ああ、君も元気そうだね。紗綾も来てる」と言って、亮は紗綾の肩に手をおいて引き寄せた。 「従妹の紗綾です」と言いながら、紗綾は肩にのっている亮の手を指ではじいて落とした。 「こんな素敵な人の従妹だなんて、羨ましいわ」と言って香理がにっこりと笑った。その笑顔には、亮と紗綾の間に入り込めない寂しさが漂っていた。 「従妹でも何もいいことはないわ」と紗綾がそっけなく言った。 「従妹でも恋愛は可能だ」と言って、亮が紗綾を見下ろした。 「ええ、もちろん。でも可能だとしても、相手をよく見てからにするわ。従兄であれ、他人であれ」と、紗綾はできるだけ冷淡に表現した。 「紗綾さん。あたし、この仕事、たまたま人に言われてやってるだけで、本当は、一年でやめようと思ってるの。契約はしちゃったから仕方ないけど。そのあと、看護師になろうと決心したの」 「看護師さんに?」 「ええ、そして、亮さんが医者になったら、一緒に働くの。どう?」と香理が悪戯っぽい目をして片目をつぶった。寂しげな香理の顔が、華やかに思えてきて紗綾はほっとした。   十一、夏 「さっきの彼氏?」 部屋に入るなり、亮は紗綾を壁に追いつめた。 「ええ、いけない」 紗綾は謎めいた微笑を浮かべたまま亮を見上げた。 「俺のことは忘れたの?」 亮が紗綾に顔を近づけた。 「じゃ、どうしてあんなに長く連絡もくれなかったの。春、環の婚約の時に会ったきり、連絡もなし」 壁を背にした紗綾は亮の目をじっと見つめ返した。 「素敵な部屋ね。座らせて」 亮の視線をかわして、紗綾が部屋の中を見た。亮は頷いて、部屋の奥に進んだ。ソファがおいてある部屋には、亮の父が入れさせたデスクがあった。デスクの前には椅子が二つある。そのひとつは紗綾が訪ねてきた時に出ていった若い女の家庭教師用の椅子だ。  家庭教師は、紗綾を頭のてっぺんから足の先まで眺めてから言った。 「亮君のお勉強の邪魔しないでね」 「ふふふ、邪魔しちゃおっと」 紗綾は髪を染めた女の医学生を向こうに回して笑った。丈の短いスカートから見える露な素足ですれ違ったその医学生は、むせかえる様な香水の香りを漂わせていた。縄張りに臭い付けをして存在を誇示するかのように、医学生の香は部屋の空気に染み着いていた。  亮と紗綾はソファに並んで座った。亮は両肘を膝の上について手を組み、じっと前を向いたきりまなざしを落とした。 「夏休みには、あの家庭教師て名前のナマアシ超ミニねえちゃんとホテルで缶詰。もういい。言い訳も聞きたくない。楽しかったんでしょ。附属校でモテモテでさ。あたしはこっちで団子のくせに彼氏がいるらしいって、じろじろ見られて、学園祭でだって、男の子もよってきやしない。さっきのは幼なじみよ。兄さんの同級生で、ヒロっていうの、大って書いて。兄の親友。横浜に住んでるから、勉強教えてくれたりしてるけど、すっごいまじめなひと。話も退屈だし。そうだ、亮とあたしの予備校の申し込みも大がしてくれたんだ。兄さんが頼んでくれて」 亮が思わず笑って以前のように頬を膨らませて不平を言う紗綾に視線を向けた。しかし、次の瞬間亮の顔からほほえみが消えた。 「聞きたいか、俺が連絡しなかった理由」 紗綾は大きな瞳を向けてうなずいた。 「釘を刺されたんだ」 亮は再び手を組んだまま、うつむいた。 「誰に?うちのお母さん?」と言って紗綾は亮の顔を覗き込んだ。 「誰なの」 答えようとしない亮に業を煮やして紗綾が詰問した。 「おまえの兄さんだ」 冷たく言い放ってから、亮は振り返って紗綾の目をじっと見たまま黙った。紗綾は驚いて大きな目を見開いた。 「何て言ったの?」 「おまえに必要以上に近づくなって」 黙って見おろす亮の視線の中に一条、確信に近い光のあることを紗綾は見て取った。 「気にしなくていいよ、あんな奴の言うこと。そんな権利ないんだから」 「そういうわけにいかないさ」 「何で。じゃ、兄の言いなりになって連絡しなかったの。そうじゃないでしょ。やっぱり私に会いたくなかったんでしょ。結局どうするかなんて、自分で決めることじゃないの。人にどう言われようが」 「違う。あの人にそう言われたらそうするしかないんだ」 「どうして」 「気持ちが解るから」 亮は紗綾を見た。 「そんなの断ればいいでしょう」 「できないよ。俺達、似てるんだ。だから俺のことを嫌っている」 「似てないって。全然違う」 「おまえに対する気持ちのことだ」  亮の言葉と視線は心の奥まで突き刺さり、忘れようとしていた出来事を紗綾の脳裏に鮮やかによみがえらせた。  信幸が入試を控えていたある日のことだった。名前を呼ぶ声に部屋に入った紗綾は目を見張った。床中に参考書の細かくちぎられた残骸が散らばっていたのだ。 「紗綾」 うつろな目をして立ちすくむ信幸は、今までの自信に満ちた兄の姿ではなかった。 「どうしたの」 紗綾が声をかけると信幸は手をさしのべた。紗綾がその手をとると信幸は乱暴に引き寄せて抱きすくめたのだ。紗綾は驚いて体から力が抜け、抵抗できなかった。 「何するの?」 それだけ言って兄の顔を見上げた。見おろす鋭い目は冷酷な光を発していて、紗綾の声など耳にはいっていなかった。 「誰にも言うな」 低い声で言う兄に、紗綾はただうなずくだけだった。伸幸は息もできないほどの力で紗綾を抱きしめた。 「どうしちゃったの」 紗綾はただ驚くばかりだった。参考書の散らばる部屋で、その力が自分に向いてこないことが幸いだった。ただ、息ができなかった。それでも、能力限界ぎりぎりのパーフォーマンスで走り続ける兄の姿には切ない思いがあった。  それから兄は紗綾を避けるようになり、東京の大学にはいると独立生活を始めたのだった。  ただ受験に疲れた兄が、病的になってフラストレーションを妹にぶつけただけだ。大暴れして、妹を抱きしめてみた。 兄は一体、今さらなぜ亮に釘を刺したのだろう。亮はその兄に何を思っているのだろう。深い意味あいのあったことではないのだ。 「あのひとはおまえを」 「ばかばかしい、やめて。あなたもどうかしてるわ。恋愛なんてそんじょそこらにごろごろしてると思ったら大間違い。あなただって愛情なしにキスぐらいしたでしょう」 「キスしたの、あのひとと?」 紗綾を振り向いて亮が改めて言った。紗綾は一瞬言葉に詰まったがそれを隠そうとして頭に浮かぶありったけを放った。 「え?してない、してない。キスはしてない。あなたの話よ。あなたが変なこというから。兄があたしを思ってるなんて。ほんとにあなたもどうかしてるわ。受験勉強で変になっちゃったんじゃないの。みんなそう、受験って不健康なのよね。叔父さんも叔父さんだわ。いくら受験する医大の学生だからって、あんなお色気ムンムンの家庭教師つけるなんて、刺激が強すぎて勉強どころじゃないわよね。だから変なこと考えるのよ」 「意欲がわくと思ったんだろ」  「ふうん。で、湧いたの、その意欲って奴、ムラムラッと」 「やめろよ、そういう卑わいな表現」と言い、亮が我慢しきれなくなって、ニヤッとした。 「だって、あの人卑わいな雰囲気なんだもの。ナマアシに超ミニで、誰だってあれじゃ変なこと考えるわよ」と紗綾があたかも目の前にある短いスカートをめくるかのような手つきをしながら言った。 「俺、あの手の女ってダメなんだ。それにあの臭いも苦手。まだにおってる」 「ああ、外国製の香水ね、臭い強いのよね」 「空気換えよう。窓、開かないんだ。飛び降りるとでも思ってんのかよ」そう言って亮が換気扇をいれた洗面所のドアを開け、新聞紙を振って空気を追い出した。時折手を口元に当てて、顔をしかめている。 「何もそんな顔しなくったって」と紗綾が笑った。 「外へ行こうか、この臭いが抜けるまで。なんか食べにいこう」 「そう?あたしは気にしないけど」 「俺はやだ。吐きそうになる」 亮が本当に吐き気を催して手を口に当てた。 「大丈夫?一体どうやって勉強してるの?そんなにいやなのに」 「息止めてんの」  「ずっとってわけに行かないでしょう」 「ずっと。」 「ばかばかしい、死んじゃうじゃな」 「あの臭い嗅ぐくらいなら死んだ方がましだ」 「ひどい」 紗綾が笑った。 十二 ドライブ  帰り道、信幸が紗綾に言った。 「ドライブしないか」 「何で兄さんなんかとドライブしないといけないの」 「こんないい男とドライブできて喜べ。」 「どうしてこう、根のない自信がもてるんだろ。信じられない」 「俺はどうも内陸はダメだ。時々海を見ないと」信幸が独り言のように言って、神経質そうに眉間に立て皺を寄せた。そういうときの信幸は、より亮に似てはいた。  車は横浜を通り過ぎて、夜の海岸沿いの道に出た。  紗綾は亮の家での食事を思い返していた。 亮の家に荷物を運ぶと、両親が迎えに出た。紗綾の叔父は診療を早めに切り上げて亮の帰りを待っていたのだ。亮の義理の母洋子は、かげりのない笑顔で亮達を迎えた。 「まあ、まあ、いらっしゃい。信幸さんも紗綾さんも、お久しぶりですこと。お元気そう。お食事用意しましたのよ。上がって下さいな。亮さん、お帰りなさい。痩せたんじゃないかしら。二週間、無理したんじゃないの。おいしいものたくさん作ったのよ」亮の義理の母は、亮を抱えんばかりにして、玄関から居間に進み、紗綾達がそれに続いた。洋子は多い髪を栗色に染めていたので、増えてくる白髪がまるでメッシュをいれたように見えた。肩に掛かる長さの髪は艶を失っていない。色白な肌は、夏だというのに藤色の薄いシルクのシフォンで手首までを覆われていた。薄紫に僅かに色が付いていると思われる大きめの眼鏡は、色白の顔に付き物の目尻の小皺をすっかり隠し、年齢より十歳は若く見せている。 「信幸さんも、紗綾さんも、大きくなったらとんとご無沙汰で、まあすっかり変わってしまって、道であってもわからないわ」洋子が食事の用意ができているダイニングの席に皆を案内して座ると信幸と紗綾を交互に見ながら言った。 「兄さんはわかるでしょう。だって亮さんにそっくりですもの」紗綾がサラダにフォークを進めながら言った。 「そうそう、本当にね。わたくしびっくりしたわ。亮さんを見たとき、もちろん写真でですけど。信幸さんの写真を見せられているのかと。からかわれてると思ったわ。あたくしが信幸さんのような息子が欲しい欲しいって言ってたものだから。うまいこと騙されてるんじゃないかって。わたくしだって、内心穏やかならぬものがありましたよ。ねえあなた」 隣に座っている叔父の信高を覗き込みながら洋子が意味ありげに抑揚をつけた。 「うん、まあ、そうか」 叔父がしどろもどろになるのではないかと期待して紗綾はじっと視線を固定させた。期待に反して叔父は余裕の笑みを見せている。目尻の笑い皺に年月に培われた生き方への自信が刻まれているように思えた。 「でも、亮さんを見たとき、ああ、この子は神様がわたくしに与えられた宝物だって感じられたんですのよ。わたくし、信子さんが羨ましくって、羨ましくって、仕方なかったんですもの」 「なんでです?」 紗綾には、すべてに恵まれているように見える叔母に何の不足があるのか不思議だった。母信子は生活のために小さい二人をおいてあくせくと働いていた。決してキャリアをつけるためにそれを望んでいたのではなく、仕方なかったのだ。母こそ、洋子のような家庭的な生活を望み、密かに羨んでいたのではないかと紗綾は思っていた。小さいときはよく遊びに行った叔父の家と疎遠になりがちになったのもそのためなのではないかと疑ってさえいた。 「だって、信子さんたら、立派なお仕事を持ってる上におきれいで、しかもまじめな夫に恵まれて」 そこで洋子はまたちらっと不真面目な夫信高を見やった。 「そのうえ、いい子に二人も恵まれて。世の中の不公平を恨んだわ。神様にも文句を言ったし。わたくし何度、子供を抱く夢を見たことか。でも子育てって大変よね。その苦労なくして、わたくしが羨ましくって仕方なかった信幸さんのような息子がうちに来てくれるっていうんですもの。亮さんのおかあさまもよく手元からお放しなさったと思って、本当に感謝してますのよ」 洋子は目を細めて亮を見た。亮は顔を赤らめ、うつむいた。 「信幸さんと僕じゃ、比べものになりませんから、お母さん。信幸さんが気を悪くしますよ」 「あら、そんな。わたくしには宝物なのだから、信幸さん、お気を悪くしたりはしないわよね」 洋子は如才なく言って、信幸に卵サラダを盛りつけた。 「これお好きだったわよね、小さい頃から。亮さんもそうなのよ」 洋子が亮を見て目を細めた。 「ふうん。そうなんだ」 紗綾は信幸が卵サラダを好きだなど、知らなかった。まして亮が同じ嗜好だなど思ってもみなかった。ちらと亮を見るとまさに卵サラダを口に運んでいた。亮と信幸が並んでいるのをつくづく見るのは初めてだったが、誰が見てもよく似ていた。 「並んで卵サラダ食ってろだ」 紗綾が小さい声で言うと、うつむいていた亮が上目遣いに紗綾を見上げて笑った。 「いや、僕も好きなんだよ、これ。洋子のサラダは特にうまい」 叔父が口を挟んだ。言われて三人を眺めると、まさに発達の過程を見るようだった。亮はまだ細身で線の細い初々しさを感じさせるが、信幸はすっかり骨っぽくたくましくなっており、これが三十年すると叔父のようになるのだろう。叔父は、濃い眉と鼻筋の通った高い鼻が二人に似ていたが、ゴルフ焼けした肌は浅黒く、柔和に見せる目尻の笑い皺が消えることはなかった。若い頃は、亮のようだったのだろうか。 「ホント、そっくり。使用前、使用後みたい」紗綾が鼻の頭にしわを寄せ、亮と信幸を指さして言った。 「おいおい、使用後はないだろう。せめて使用中てとこにしろよ」 信幸が紗綾に向かって文句を付けると、紗綾が口を大きく開けて笑いながら言った。 「何使用してんだか」 「じゃ、私は使用済みってとこかな」 信高が追い打ちをかけると信幸が我慢できないと言うように体を反らせて笑った。紗綾が屈託なく笑うのをみて、赤面していた洋子が控えめに笑った。 「あらやだ、紗綾さんまで。おもしろい人たち。こんなおかしい事って滅多にないわ」  そんなやり取りを、紗綾は思い出していた。 「兄さん、卵サラダ好きだったんだ」 紗綾が黙って運転を続ける信幸の横顔に話しかけた。 「そうだよ。知らなかった?」 信幸が前を見たまま答えた。 「全然。だって興味ないもん、そんなこと」 「あいつも好きだってとこが気に入らないがな」 「何でそう嫌うのよ。それに何で亮に変なこと言ったの?」 「変て?」 「しらばっくれないでよ」 「何のことかな?」 「近づくなとか」 「ふうん。」 「何の権利があってそんなこと亮に言うのよ」 「俺はおまえの兄だからな。母さんはおまえには甘々だし、父さんは忙しいうえに、雲上人だから下界で何が起こってるか知らないし。おまえのことを心配できるのは俺だけだ」 「よけいなお世話よ。そうじゃなくって、亮のこと何で嫌うのよ」 「何でかな。わからないよ。何か鼻につくんだ。あの抑制的な態度が」 「抑制的?」 「そう、じっとこらえているような」 「我慢強くっていいじゃないの。兄さんだって、辛抱強くお勉強して医学部に入ったんでしょ」 「じゃあいつは何を我慢してるんだ。何を狙っているんだろう。草むらに身を潜めて獲物を狙ってる猫科の動物を思い出すんだ。あいつの目」 「鋭いってこと?兄さんの目も同じだよ。人のこと言えないって。なんったって似てるんだから」 「似てる似てるっていうな。胸くそ悪い」 「ひどい言い方」 「車止めるぞ。海でもみよう」 「何も見えないじゃないのよ」 「よく見てみろ、白い波頭が見えるだろ。この音、この匂い。それがわからない様じゃいかんな」 「いいけど、どうしてこう人気のないとこに兄さんといかなきゃならないとよ。変なことしたら、母さんに言いつけるから」 「ばからしい」 「へえ、そうですかね」 紗綾はじろっと信幸を見てから、シートベルトを外した。車から降りて堤防の方へ向かう信幸について紗綾はゆっくり歩みを進めた。兄の言うとおり海風には鼻の奥に柔らかく当って心を落ちつかせるものがあった。ただままならないのは、前に歩いているのが兄信幸で、亮は叔父の明るい家で洋子達と過ごしていることだった。信幸は外見は似ているものの、その歩き方からして自信に満ちていて、亮のナイーブな傷つき易さを全く持ち合わせていない。亮は静かに一直線を歩くのだ。確かに兄の言うとおり、亮の身のこなしは雹やチーターといった猫科の動物を思わせることに紗綾は気づいていた。そういった生き物は、草食動物が振り向いたときには音もなく背後に忍び寄ってきているのだろう。 「こうして、兄ってのは弱みを握られて、妹に牛耳られて行くんだろうな」 「何言ってんのよ。普通の兄はそんなことないわよ。兄さんが変だからじゃないの」 「変とは失礼な、変とは」 「じゃ何で、亮に変なこというのよ。あたしは兄さんのものじゃないのよ。あたしにはあたしの意志があって、ことの善し悪し、好き嫌い、自分で決めるんだから」 「いいだろう、じゃ決めろ。ただし、あいつはやめておけ」 「焼き餅焼きの父親みたいなこと言うのやめなさいよ。あいつだけはやめておけ、だって。決まり文句よだね」 紗綾は兄の方を向かず、確かに見える白い波頭に目をこらした。 「おまえのことが心配なんだよ。あいつは危険だ。あいつのいたところは俺達が育った環境とは違うんだ。価値観とか、人生観とか、基盤にするものが違ってる」 「だって、叔父さんの息子よ。兄さんの従弟。何でそんな風に他人みたいに言うのかしら」 「三つ子の魂百までさ」亮に似た鋭い目で信幸が紗綾を見た。 「何でそんな偏見を持つの」 「じゃ、あいつはじっと何を狙っているんだ」 「別に何も狙ってなんかいないわよ」 「いや、おまえはあいつのことを知らない」 「亮のことって、何?」 「言いたくないね」 「なによ、もったいぶって」紗綾が動揺を隠せず、揺れるまなざしを信幸に向けた。 「聞かせたくないな」そう言いながら信幸はちらりと紗綾の目を覗いた。 「言いなさいよ。そこまで言ったんだからどうせしゃべるつもりなんでしょう」 「どうするかな。聞きたいか」 「べ、べつに。兄さんこそ、言いたいんでしょ、言えば」 「おまえの知らないあいつのことだ」 深淵にたたずむような不安を感じて、紗綾が身震いした。 「寒いのか」 「いえ、寒くは」 紗綾が小さい声で答えた。 「ふうん」 信幸が紗綾の不安を察した。しかし、信幸に手綱をゆるめる気などなかった。紗綾の亮に対する気持ちを完膚無きまでに叩きのめすつもりだったのだ。そうせざるを得ない何かが信幸の心の奥底からわき上がっていた。兄として妹を思う気持ち、そう信幸は自ら割り切っていた。  紗綾はいつか環の言っていたことが、一つ一つ暴かれていくのだと直感した。 「紗綾。あの人、今はおとなしいけど、気をつけた方がいいよ。それだけは言っとくからね。何たって勝負師なんだから、あんたみたいなお嬢さんはひとたまりもないよ、あいつが本気だしたら。いい?心を許しちゃダメよ」環は子供に言い聞かせるように言ったのだ。 「うん、でも難しいね。心を許さずに仲良くするって。何か、嘘ついてるみたいで」 「だから心配なんだ、紗綾は。いいの、心なんか許さないで。たとえ体許したとしたって」環は紗綾の両腕を掴んだ。 「か、か、からだ?」紗綾が環の思い切った発言に度肝を抜かれ、裏返った声で繰り返したのだった。 「兄さん、もったいぶんないで言いなさいよ。どうせおしゃべりだから、我慢できないんでしょ」 「紗綾、おまえたちのようなお嬢さん学校じゃ想像もつかないことなんだぞ」 「で、なんなの」 紗綾が冷静を装って話を前に進めようとしたが、堤防の欄干を掴む手が冷たくなり、それでいて汗ばんでいた。 「顔、蒼いぞ」 そう言いながら持っていた薄いジャケットを紗綾に羽織らせた。 「ありがとう。大丈夫よ。」 「あいつ、不良だったんだぜ」 「そう、ゲーセンのプリンスだったんだからしょうがないでしょ、何と言われようが。そんな驚くような大物だったのかしら。どんな不良だったの?」 動じない振りをして紗綾が信幸を横目でちらりと見た。 「女子高生たちを妊娠させたりしたに決まってる」 信幸は、紗綾の横目に気づきつつ、それを無視して前を向いたままでいた。 「に、にんしん」紗綾はついくるりと首の向きを変えて信幸を見た。 「そう、妊娠」信幸はゆっくりと紗綾の方を向いた。 「うそー」紗綾は丸い目を大きく向いて叫んだ。 「本当だ」信幸が低い確信に満ちた声で言った。 「本当なんだ」紗綾があっさりと認めたので、信幸が拍子抜けした。 「い、いや、たぶん、ほんと。何で驚かないんだ?」 「だって、ゲーセンのプリンスだよ。いくらなんだってまともな中学生のわけないじゃない」 「おいおい、中学生時代にだよ、そんな、けしからんことしてもいいのか、まあ、たぶんだが。しかし、おまえの倫理、道徳観はどうなってるんだ、一体全体」 「女子高生たちって、そう何人もじゃないでしょ、種馬じゃあるまいし」 「まあ、そりゃそうだろうが、何人かなんて問題じゃないだろ。そういったことを中学生がするか?」 「する子もいるでしょう。しない子もいるでしょう。兄さんこそ、兄さんの行っていた私立の受験校じゃ、想像もつかなかったってわけね。そんなことでびっくりして、あたしにいつ言おうかなんて悩んだりして」 「おちょくるんじゃない。そういう中学生がいてもいいが、妹の身のまわりを物欲しそうにうろついてもらいたくないって言ってるんだよ。変か?」 「別に変じゃないかも知れないけど、どうするかは、あたしが決めることでしょ。それに、亮はジェントルマンだよ、あたしには。兄さんのように女と見るとスケベな気持ち丸だしにして寄ってく男とは違うのよ」 「男なんて、同じ様なものさ。経験のあるところまでは、早いんだぞ。あっという間さ。どうするんだ、おまえが妊娠でもしたら。ジェントルマンだって、男だ。男なんてみんな一皮むけば同じだ。それに、その妙に紳士的な態度が気に入らないんだ。不良は不良らしくしたらいいんだ。何のために欲望をこらえて本性を潜めているんだろう」 「人生を変えるためじゃないの」 「人生を変える?」 「そうよ。そのためにああいう選択をしたんじゃないの」 「上昇志向ってわけか」 「上昇って言うより、切り替えたかったんだと思うよ。全部を」 「そんなことできるか。していいわけがないだろう。今までにやってきたことの責任をとらずに全部を捨てて、新しくやり直すってわけか。そんな無責任なことがあるか」 「あってもいいんじゃないの。出くわすには僅かなチャンスですもの、掴んだら放すべきじゃないと思う」 「まあ、百歩ゆずって、それが彼の星だとして、人生切り替えて、どんな道を生きたいってのかなあ」 「さあ、そんなこと、自分にだってわからないでしょ」 「そうだな。それにそんなことあいつの勝手だ。だけど、その道筋におまえがいることが問題なんだ」 「大丈夫だって。それに、夏休みが終わったら、またもうしばらくは会えないもの」 「そう残念そうに言うな。会わない方がいい。おまえには俺がふさわしい奴を見つけてやるから。大はどうだ。こないだ会ったとき、奴、おまえのこと気に入ってたみたいだ。気心も知れてるし、頭もいい。医者としても有望だ」 「そういうの弱気っていうのよ。男なら賭けなくっちゃ。ま、兄さんのように根のない自信ってのもあるけどね」 「やめろよ、その賭けるとかいういい加減な言葉。あいつを思わせていかん」 信幸が神経質そうに再び眉間に皺を寄せた。 「いいでしょ。それにあの人優しいのはわかるけど、何か物足りない。だいたいペットの掛け合わせじゃないんだから、こっちの牝とあっちの牡がちょうどいいみたいなやり方やめてよね」 「そうかあ?いい奴だと思うけどな。俺が女だったらああいう奴を選ぶぞ」 「じゃ兄さん結婚したら」 「そうか、そうするか」 「ばかばかしい」 十三 勝負 「受かったんですって?おめでとう」 「ありがとう」 「嬉しそうじゃないのね」 「嬉しいよ。でもこんなんでいいのかなって」 「どういうこと?」 「いや、いいよ。こんなにうまくいってってことさ」 「いいじゃないの。お祝いするわ」 「ありがとう。そのうちな」 「どういうこと?会いたくないの?」 「ああ」 「どうして?また兄に何か言われたの?」 「ああ、楽しい学生生活を前にきつーい一発」 「なんて?」 「想像に任せるよ」 「そう。わかった。じゃ、さよなら」 「さよなら」 (さよなら。紗綾。こうしないと)  亮は、合格祝いの第一声を信幸から受けるつもりはなかった。当然、紗綾からと期待していた。しかも訪ねてきた信幸の口から直接祝福を受けることなど、予想だにしなかった。 「おめでとう、亮君。私学は教育が結構きついかも知れないが、それでも大学生だ。時間はある」 応接間のソファに座って紅茶を口に含みながら、信幸は亮に続けた。 「それに、東京は交通の便もいいからね。線を引こう、僕のいるこの地下鉄線より南下してこないように。横浜には一人で近づくな。わかったか?」 「どうして?」 「どうしてかは君の胸に聞け。君が横浜に来る必要はないはずだ。お母さんももう横浜にはいないだろう。叔父が用意したマンションに移った。生活も困ってはいない。君も大人になって、横浜なんかじゃなく、もっと広いところを見るんだな」 父は診療所で仕事をし、母洋子は気を利かせて席を外している。向かい合って座る信幸には、明らかに亮をしのぐ気迫があった。 「見てますよ」亮が口をとがらせて横を向いた。 「いや、君が見ているのは紗綾だ」 信幸が、亮の心を見すかしたと言わんばかりにことの核心に触れてきた。 「何でそうこだわるんです」 不意打ちを食らった亮は、逃げ切れないことを悟った。明らかに信幸は勝負を挑んできている。 「こだわっているのは君だ」信幸がきっぱり言った。 「そんな」亮には多くの言葉がなかった。 「紗綾に近づくことは許さない、俺が。俺を紗綾の兄だと思うな」信幸の目に燃えるような光を見た亮はとうとう、紗綾が隠している部分を眼前に突きつけられるような恐れを感じて身を引いた。 「どういうことです」 「想像に任せるよ」信幸が体をかわした。 「それに、紗綾の両親も君が今の紗綾に必要以上に近づくことは望んでいない。そんな状況だ。もし何かあればスキャンダルだ。狭い世界だからな。君の入る上品な私学の医大にはふさわしくない。はっきり聞くが、君は紗綾を気に入っているな」 「ええ、気に入っています。どこのだれよりも」亮は振り切って逃げる事をあきらめた。そして信幸と正面切って対峙することを余儀なくされた。 「自分のものにしたいんだろう」信幸が逃げ道をふさいだ上で追い打ちを掛けた。 「そうです。ずっとそう思い続けてきました。いけませんか」追いつめられて覚悟を決めた野生動物のごとくに牙を向いた顔を見せた。 「ああ、いけない。気の毒だが、俺が紗綾を我がものにすることができないのと同じくらい、いけない。君と僕とはイーブンだ。でもこの勝負はそれまでだ。判ったか」 (想像に任せるって、何だっていうんだ。イーブンって何なんだ) 十四 昔みたいに 「亮君、暴れているそうじゃないか」 「まあそうですか」  バタートーストをほおばっている紗綾を母信子かジロッと見た。紗綾はそれに気づき、目を大きく見開いて右手を鼻の前で振った。 (し、知らない。知らない。)ぱさぱさ音を立てんばかりに振った手をいぶかしげに父が見た。父は近視用の銀縁眼鏡を鼻の先に掛け、老眼の遠目を紗綾に向けた。 「そうなの。ちっとも知らなかった」という紗綾の声がうらがえった。  亮が賭けをして、同級生のスポーツカーを拝借しているという噂は、紗綾の耳にも入っていた。 「遅い反抗期なのかしらね」と信子が今度は紗綾を見ずに言った。 「さあ。じゃ、行って参ります」残りのパンを牛乳で流し込んでから紗綾は鞄を引っ提げ、ダイニングルームから玄関に走った。 (くわばら、くわばら。こんなところにまで噂が流れるなんて。恐ろしい世界だわ。このあいだの夜のことだってばれたらなんて言われるか)  その日紗綾はぼんやりと一人で校門を出た。ぼうっとしていた紗綾の目に、赤い西日を受けて壁にもたれ掛かる人影が目に入った。いつか見た景色だった。その人影も以前と同じだった。違っていたのは、彼が学生服を着ていないことと、その脇に黄色いスポーツカーが止めてあることだった。 「やあ」 初めて亮が紗綾を待っていたときのように、僅かにはにかみながら声をかけた。紗綾は二人をまじまじと見つめて通り過ぎる後輩達を気にはしなかった。 「亮。どうしたの?学校は?」 「休んだ」 「休んで大丈夫なの?」 「ああ、待ってた。行こう」   紗綾が車に乗り込むと、亮は穏やかに車を発進させた。 「どこ行くの?」 「さて、どこにしようかな。この車の乗り納めしようと思って」 「ふうん。返すんだ」 「ああ」 「その方がいいかもね。うちのお父さんの耳にも入ってるみたいだよ」 「そうか。そりゃまずい」  しばらく高速を下りに走った時だった。 「なんかやらしいな、あの車」 亮がフェンダーミラーに目をやりながらうっとうしそうに言った。 「あの車って?」紗綾が亮を見た。 「ずっと着いてきてる。煽るわけじゃないんだけど、もうずうっとだ。気分悪い」 「そう」紗綾が心配そうに言った。 「おっと、もう一台合流したぜ。クソ。来やがるな」 「何なのよ、それ。」紗綾が思わず声のトーンをあげた。 「紗綾、こんな時に御免。このあいだから確かにくっついてくる奴がいて、その度に巻いてたんだ。今度は二台だ。挟まれたらおしまいだ。とばすよ。シートベルトきつくして、つかまってて」 「うん。でもどうなっちゃうのお」 「大丈夫だ。こっちはこの車が人質だ。くそ、並ばれた」 「どういうこと?」 「寄せればわかるさ」そう言いながら亮が急にハンドルを左に切って走行車線に並んでいた車に幅寄せした。寄せられた黒い車は、驚いたように急ブレーキを踏んだ。 「これさ」 「え?」 「あいつら、脅したいけど、この車に傷は付けられないのさ。お坊っちゃんにそうきつく言われてるんだろう。特注でお高いからね」  亮は再び並んだ車に城の黄色いスポーツカーを大胆に寄せて、決して前に出さないようにした。何回か繰り返してから亮がいらだちを表した。 「しつっこいな。いい加減にしろ」 亮はアクセルを思いきり踏んで二台を出し抜いた。しかし二台も思い出したようにスピードを上げて付いてきてまた車間を縮めた。 「紗綾、しっかりつかまってろ。体突っ張らせて、首を後ろにくっつけてろよ」 「うん」  中央分離帯が途切れた瞬間だった。亮が一気にブレーキを踏み込んでからハンドブレーキを僅かにひいて車の尻を振らせた。 「わあ」紗綾は目を閉じたまま亀のように首を伸ばした。  亮の運転する車は対向車線に入り、追ってくる車とすれ違った。二台は急ブレーキを踏んだらしく向きをあちこちにしながらあっと言う間に亮達の後方へと消えた。 「びっくりした」 紗綾が目を大きくあけてやっとそれだけ言った。 「ごめん、ごめん。ちょっとスピード出すよ。それから、乗り捨てだ」 「乗り捨て?」 「そう。この車持ってる限り、あいつらに追われそうだし、だんだん奴等本気出してくるし、もう脅しだけじゃ済まないかも知れないしな」 「そう。そんな危ないんなら、すぐ捨てちゃいましょうよ、こんな車。命あってのもの種だから」 「そうだね。でも粗大ごみじゃあるまいし、捨てちゃうわけにもいかないからね」  亮は高速を走って横浜で降り、ホテルの駐車場に入れた。 「急いで手続きするか。」 「なんの?」 「延命願いみたいなものさ。そうだ、あの城が写ってる写真をダッシュボードから持ってきて」と、紗綾に言った。 亮が紗綾の持ってきた写真入りの封筒に車の鉤を入れて受付嬢に言った。 「この封筒、あとでこいつが取りに来るから、渡して」  それから携帯電話をとりだし、城を呼び出した。 「車、返すよ。横浜のホテルに預けてあるから。貸してくれてありがとよ。乗り心地よかったぜ」 途中で紗綾が電話を亮から取り上げた。 「ちょっとあんた、負けたくせに男らしくないじゃないのよ。悔しかったら自分で取り返したらどうなのよ。もし亮に今後手を出したら、お父さんに言いつけるから。あたし?誰だっていいでしょ、でも教えてあげる。木下の娘よ。木下は、あんたのお父さんよりもっと恐い人知ってんだから」 言い終わるが早いか紗綾は電話を勢いよく切った。 「すごいね。ありがとう。おまえに守って貰うなんて思ってなかったよ」と言って亮が笑った。  亮は、平凡な国産のレンタカーに乗り換えて紗綾の家の方に向かった。途中、亮は車を公園のわきに止めた。 「俺達やり直せないのかなあ」 ベンチに座ってから亮が言った。 「やり直すって?どこから」 「あのときの俺達から」 「あのとき?」 「そう、初めてここであって、デートしたあのとき」 「どんな風にやり直したいの?」 「あのままでいたら俺達恋人になれたんじゃないかな。普通の」 「そうかな」 「ああ、俺の父親が変な申し出をせず、あるいはしてきても俺が興味を示さず、従って、おまえのお母さんが俺の父親のことを弟だと気づかず。そうなればおまえは俺の従妹だなんてお互い知らずにいた」 「そうね」 「そうしたら、俺達、平凡な恋人同士になれたのに」 「そうかもね」 「そうじゃないかも?」 「そうじゃないかも」 「そう、そうじゃないんだ。今ここにいるただ一つが現実なんだ。俺が選んできたただ一つのな」 「そうね」  亮は数日前の環との約束を心の中で繰り返した。 (言わない。決して言わない) 「圭一が心配してる」  久しぶりに連絡を取って会った亮に、環は単刀直入切りだした。 「なにを」 「亮が変わったって」 「どんなふうに」 「無軌道になったって」 「無軌道?圭に言われる筋合いないぜ」 「そう。俺がやるならわかるけど、亮らしくないことばかりだって」 「そうか」 「そう。心配してる。どうしたの。何不自由ない生活でしょ。何の不満があるんだろうって」 「いろんなものが手には入るんだけど、肝心なものがダメなんだ」 「肝心って?」 「一番欲しいもの」 「どうしてダメなの。やってみたの?」 「ダメ、絶対ダメ」 「一体何がそんなに欲しいの」 「圭は知ってるだろう。誰にも言ってなかったけど、俺、あいつのこと知ってたんだ」 「あいつって?紗綾?」 「そう。君たちが思っている以上前から」 「え?いつから」 「君たちがまだ高校に上がる前。あいつが家から出てくるとこを見たんだ。白い門から、髪の長い紗綾が、学生鞄を持って。冬だったな。丸い顔を白いマフラーに埋めて。紗綾の家は俺の通学途中だったからな。あいつのまわりだけ明るく見えるほど、あいつは幸せそうに見えた。俺とは大違いだった。あの頃の俺は君たちには想像もつかない生活してたからな。紗綾は誰と会ってもにこにこ笑って挨拶してた。帰りにあったこともある。友達と一緒だったな。たぶん、今思えば君と弥生だろう。俺はあいつしか見ていなかったから。紗綾を見ると気持ちがやすらぐ様な気がしたんだ。あいつのような子がそばにいたらどんなにいいだろうって、ずっと思ってきた。だから、ゲーセンで紗綾を見たとき、驚いたんだ。ずっと見てた。紗綾がしていること、しそこなっていること、欲しそうにしているもの。だから猫をとってやったのさ。でも、もう会うことないと思ってた。あれが俺のしてやれる精いっぱいだと思ってたんだ。もう一度あったときにはもっと驚いたよ」 「知らなかった」 「そりゃそうだろう。あいつのことをずっと思ってたんだ。だから香理とも進まなかった。なのに、君と圭があんなで、もうダメかと思った。紗綾も俺の気持ちにはお構いなしだし」 「御免。でもしょうがないじゃない。あたし圭一があなただと思ってたの」 「なんで」 「あたし、あなたの噂聞いてたの」 「誰から?」 「あなたと少々親しかった人から」 「親しかった?」 「ええ」 「誰?」 「あんまり言いたくないし、きっと聞きたくないと思う」 「いいから言えよ。どうせいい評判じゃないことぐらい判ってるよ」 「その子のためにあなたがお金集めたってこと」 「え?マリアか」 「お金が入り用になって、それでゲームで賭けをして集めたんだって」 「何で知ってるんだ」 「あたしその子とちょっとした知り合いで」 「そう。同級生ってわけないよな。俺が二年の時、もう高校生だったからな」 「ええ、彼女カソリックだったの。教会が同じで」 「カ、カソリック?で、マリアか」 「そう。彼女のミドルネームよ。聖母マリアじゃなくて、マグダラのマリア。娼婦よ」 「カソリックにはみえなかったけど」 「そうね。あたしも彼女も幼児洗礼だったから。親が決めた信者なのよ。教会に来てた時には日曜によく一緒に遊んで貰ったの。彼女は髪染め出した中三ぐらいかな、教会には来なくなっちゃって。来なくなってしばらくしてだと思うんだけど、会ったのよ。あたし、柄が大きいから目立つじゃない。中学に入ったばっかりの頃、メタリックな格好して歩ってたら、ヤンキーに絡まれて、その中に彼女がいたの。あたし驚いちゃって。でも彼女も驚いたらしいの。相手の格好があんまり変わっちゃってたんで、お互い心配したりして。教会へ行こうってさそったら、行けないって」 「そうか」 「でも、引っ張って連れてったのよ。よかった、あの時行っといて」 「あの時?」亮が聞きとがめるのを環が聞き流した。 「神様の前に出られないって涙ぐんでたんだ。でも、神父様が優しい顔して慰めてくれたの。神様にも許されたかなあって言ってた」 「で?」 「でって?」 「何でその時行っといてよかったんだ」 「え?何でって、深い意味があるわけじゃないけど。信者って、許されたいのよ。それだけ」 「言ってくれよ。彼女どうしたんだ」 「わかったわよ。言う。死んだ」 「そうか」 「でもあなたのせいじゃないわ。そのあとしばらくしてから、暴走族のバイクの後ろに乗ってて大破したの」 「俺のことを彼女から聞いてたのか?」 「少しね。好きな男が年下で、冷たくされたって。でも自分のために賭けでお金稼いでくれたって言ってたっけ」 「自分のために?」 「そう。そう思いたかったんじゃないの」 「そうか。で、俺のこと知ってたのか」 「それが、勘違いしちゃって。二つ年下のゲーセン通いしてる不良っていうから、てっきり圭一だと思ったの。ちょっと頭来ちゃって。だって、イメージが違ったのよ、あなただなんて思いもしなかった」 「そう。で、いつわかった」 「ずいぶん経ってから」 「圭一に聞いたのか?」 「ええ、大事なことでしょ」 「まあな。でなんて聞いた?」 「身に覚えがないかって」 「そのボタン突きつけて?」 「そう。これ。きづいてた?」 「ああ、それ俺のだ」 「そうだったのね。詰め襟の第一ボタン。彼女の」 「形見か?」 「そう。ずっと持ってた。キーホルダーに作りなおして。このボタンにかけてきっと復讐してやるって思ってたの。でも敵だと思いこんでた圭一は、血相変えて否定するし。それにこのボタンは第三中学のものだって。圭一は第一中。じゃ、誰かっていうことになると、あなたしかいないってわけ。でも、圭一がこの話は絶対亮には言うなって言うから、今まで黙ってたの」 「そうか。君が俺のボタンを大事そうに持ってるからどうしてかとは思っていたんだ」 「直接あげたんじゃないんだ」 「ああ、卒業の時、彼女のお友だちに取り囲まれてとられた。さんざん殴られて、ぶつかったあとがあるだろう、そのボタン」 「あら本当だ。痛々しい。でも彼女、このボタンを俺だと思って大事にしてくれって言われたって」 「仲間が見かねてそう言ったんだろう。許されないのは俺って訳だ。俺はふさわしくないな、紗綾に。でも俺、決めたんだ。それまでも、狙ったものは外したことなかったからな。あいつを俺のものにするって。それにはふさわしくならないと。そこに親父の話だったから。俺の人生をかえるチャンスだと思ったんだ。誤算だったね。人生最大」 「今幸せじゃないの?あたしには間違いのない選択だったように思えるけど」 「そうだね。ある意味ではね。でも、一番愛しているものを引き替えにしたんだ」 「そう。で、どうしたいの」 「今でもずっと紗綾をあきらめられない。でも、それをだれも望んでいない。だから、仕方ない」 「それがわかっているなら、答えに近いわね。今の話、紗綾には絶対しちゃダメよ」 「ああ、わかってるよ。そんなめめしいことしないよ」  亮が我に返って紗綾に続けた。 「俺、今の学校やめようと思ってるん」 「な、なんですって?で、どうしようっていうの」 「受け直す」 「受け直すって、何を」 「医学部を。今度は実力でやりたいんだ。いまのとこ、父親の骨折りで入ったことは知れてるからな。人生、変える。自分の力で。ここまでも自分でやってきたと思ってたけど、そうじゃなかった。それに車返したけど、理事の息子いじめすぎて居づらくなったしな。妙な噂もたっちまったし。」 「どこ受けるの?」 「さあ、どこにするかな。運はいいからな。あとは実力だけ」 「お父さんは?いいって?」 「これから説得」 「そりゃ大変だ」 「頑張るよ」 「そうね」  紗綾は亮の目を見つめた。  それぞれは、選んだ道を歩き始めたのだ。 振り向くこともあるかもしれないが、もう歩みを止めたりはしないだろう。  道を照らす明かりがなくとも、恐れを知らずに進むことは、若者の特権。              終
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