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剣をカレントに渡し、ライエはため息をついた。
結局なにも進展がないまま、はじめての訓練は終わってしまった。
おかしそうに笑っている弟はこんなことなんて朝飯前で、さぞやうまくやっているに違いない。
「時間がありましたら、いつでも来ていていただいて構いません。……兵士たちには、よく言っておきますので」
エドワードは周りを厳しい目でながめて――向こうで数人が慌てて背中を向けて剣を振りはじめた――ライエには事務的にそう言った。
「よろしくお願い致します」
せっかくの好意だ、無駄にするわけにもいかない。
頭を下げて、ふと、気がついた。
遠巻きにしている兵士たちよりは近くに、毛色の違った男が立っていた。
すでに鎧は着込まれており、その裾も黒ではなく赤い長衣だった。
エドワードも気づいたようで、彼を見遣って、会釈をする。
「――カドレマンス殿」
「パーランド殿。いや、お邪魔するつもりはなかったのですが」
近寄ってきた男は、まだ若かった。とはいってもライエよりは年上で、アテイよりは少し下だろうか。エドワードが丁寧な態度をとっているところを見ると、どうやら地位は高いようだ。
遠慮なくライエをじろじろと見る視線は、他の兵士たちとは違い興味以外見当たらなかったので、首をかしげた。カドレマンスと呼ばれた若い男は、失礼した、と後ろ頭をかいた。濃い金髪で、ウェーブのかかっているのをきれいにまとめ、顔立ちは甘い。
「貴方がライエ殿ですね。私はシドニア・カドレマンスという者です。以後お見知りおきを」
やわらかい、人好きのする声だ。差し出された手を握り返して、どうも、と返すと、シドニアは笑った。この国に多い青い色の目をすがめ、歯を見せながら口の両端を引き上げる、普通の笑みだった、と思う。
だが、ライエは、
(……!?)
背筋に冷たいものが走る。
汗が伝うような、そんな違和感。
けれど、それは一瞬だった。まぼろしのような感覚で、すぐに消え去ってしまって追いかけることはできなかった。気のせいか。
「カドレマンス殿は、外近衛第一隊の、副隊長でいらっしゃる」
エドワードが説明をしてくれるが、まだ城のことも知らないないライエには、彼がどんな人物かはちょっとわからなかった。それが分かったのか、シドニアは気負うふうでもなく、外回りの兵士ですよ、と言ってくれた。
「ただ、こことは所属が違います。戦には行かずのんびりと城を散歩するのが日課の、まあ楽な仕事です」
「すごい方なんですね」
周りの反応を見ていればわかる。黒のチュニックの兵士たちは今度こそ隠れるつもりもなく鍛練をやめてシドニアを見入っている。
「王の覚えもめでたい。すぐに近衛隊に配されるだろう」
「パーランド殿も冗談をいうんですね。まだまだ若輩者ですよ」
エドワードの称賛に困ったように笑って、それでは、とシドニアは会釈し、訓練所を出ていった。
「……なんというか、雰囲気がすごい方ですね」
「カドレマンス殿は、一般兵として入隊したのだが、すぐに王直轄に配属になられた。今後もお会いすることでしょう」
やはり淡々とエドワード。その背後に立っているカレントは、まだシドニアの背を目で追っている。
「将軍はお戻りになりません。配下のものを付けますので、お気を付けてお帰りください」
「ありがとうございました、パーランド様」
彼も忙しいのだろう。しかしおくびにも出さずに丁寧に礼をして、きびすを返して兵舎のほうへとカレントを引き連れて戻っていった。代わりに駆け寄ってきたのは、同い年くらいの兵士だった。とくに話もせず、仕事をしているというそぶりの彼と柳枝宮に戻って、やはり一言も交わすことなくわかれた。
「おかえりなさいませ、ライエ様」
エントランスに入るなり、出迎えてくれたのはクラリスとハリスだった。
「いつから待ってたの。自分の部屋でいてもよかったのに」
退屈そうなハリスを見て苦笑した。どうやら貴族は絶対にお供を付けないといけないらしいのだが、ライエは貴族ではないのだ。
「いいえ、私の務めです。今後もぜったいにお待ちしますから」
つんと澄ましてみせるクラリスに笑い、根城にしている珠水の間に三人一緒に戻る。他の部屋も好きにしていいと言われているのだが、せいぜい王や王妃を迎えるときに、1、2度使ったくらいだ。なにせ、広すぎる。
「浴場の準備はしております。汗を流されてはどうでしょう」
「そうだね」
不思議なもので、前は気にならなかった汗の臭いだとか、そういうものにも敏感になった。臭いかな、とそっと袖口を鼻に押し当ててみるが、新品の服のせいかさほどわからなかった。
「では、お衣装を――」
言いながらクラリスは、扉を開けて――そのまま、固まった。
「?どしたの、姉」
ハリスがそっと様子をうかがい、部屋のなかを見て、あ、とのんきな声をあげた。
「カエルだ」
びくっ、とクラリスの小柄な体が揺れた。
「カエル?」
そんなものがこんな王宮で?と、ライエが中を覗くと……たしかに、いた。
薄い緑のふかふかしたカーペットが敷き詰められた床を、その色に擬態したちいさなカエルが数匹、ぴょこぴょこと跳ねている。
「うーん、ちっちゃいなー」
さっそく足元で跳ねていたカエルをなぜか残念そうに捕まえて、ハリスは口を尖らせた。
「毒はないな?」
「うん、よく畑の近くで跳ねてるやつ」
不用意に触っているが、そこはちゃんと見極めていたらしい。他のカエルを踏みつけないようにハリスは部屋の少し奥にある窓際の丸いテーブルに近寄っていき、しゃがみこんで、あっ!と先程よりも大きな声を出した。
「ねえ、ほら、兄!これ!」
うれしそうにテーブルクロスをかき分けて潜り込んで、すぐに出てきたかと思うと、その手に持っているものをぐっとつきだした。
茶色い、紐のようなものがうねうねと動いている……
「ヘビ!」
貧民として育った自分や弟分には、貴重な食料だった。思わず拍手しようと思った矢先、くらりと侍女の体が倒れてきた。
「クラリス?クラリス――!」
真っ青な顔で彼女は気絶していた。
お嬢様は、ヘビやカエルは大の苦手だった。
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