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波風
なぜか部屋にカエル事件から、たびたび不可解なことが起こるようになった。
カエルは逃がしても逃がしても何度も現れるし、大きな羽虫が飛び回っていたこともあった。ドアに紙がはさまっていて、陰口でよく使われているような言葉がたくさん書いてあったり、小さなガラスの欠片がくっつけてあったり、ソファが水浸しになっていたり。
「けど、男の俺に、ブスとはどういうことだろう?」
「大丈夫だよ兄!兄は普通だよ!」
「慰めるなら男前って言ってほしいなあ」
つまり、「男のクセに生意気な」という、お怒りの文である。
丁寧に畳んで裏は真っ白なままの手紙をテーブルに戻し――手習いに使えそうだ――、ライエは少し困ったように眉を寄せた。自分達はこのように全然平気で、次は何が来るかな、とのんびりと待ち構えているくらいだが、クラリスが毎回泣きそうになっているし、最近は本当にまいってしまっているようだ。休んでいていいよ、と声をかけても、私の仕事ですと気丈に侍女の勤めをがんばっている。
一応部屋を空けないように誰か残らせたりしたが、やはり全員忙しいから完全にとはいかない。柳枝宮を仕切っている侍女のメドレーヌに相談したが、まったく眉ひとつ動かさずに、衛兵をお増やしになっては、と言い放ってライエを苦笑させた。
「でも、たぶん犯人はこの宮の誰かなんだよな」
「なんで?」
「回数と、一回一回の日にちが短い」
多いときは2、3日で次の手が来るのだから、さすがにそんなに部外者が出入りするのは不審がられるだろう。メドレーヌみたいなのもいるが、中には好意的な侍女や侍従がいて、それとなく見てくれているのだが、それらしい人間はいなさそうだ。
「メドレーヌさんでは……?」
顔色の悪いクラリスが、彼女らしくないことを言った。
彼女とハリスも同じテーブルについている。お偉方が来るようなら彼らの手前壁際でかしこまってもらっているが、普段はそんなことをさせるわけにはいかない。誰もいない時は、こうやって一緒に話したりするのがライエは好きだった。
今は、話が話だけに空気は重い。あからさまな嫌がらせをされて、気分はいいわけがない。
「もともと、この宮に主人が入られることをよく思っていなかったようですから。私がライエ様に付くようになって、でも私だけなのは、そういうことなんです。役に立たない侍女を付けて、困らせようって」
気まずげに言う彼女は、それをまるごと信じているようだ。けれど、あいにくとライエはこれっぽっちもその話に共感できなかった。
「ああ、そういうこと。完全に計算違いしたようだけど」
「え?」
「クラリスで本当に良かったよ。良くしてくれるし、優しいし、無作法をしても怒らないし、勉強も見てくれるし」
笑いかけると、クラリスはうつむいた。どうやら照れているらしい。
その横でハリスはなぜかあきれたように首を振っている。
「兄はまたそういう……」
「え、なにかまずった?」
ハリスは答えずわざとらしくため息をつく。
「……で、あの人なわけ?」
「いや、メドレーヌさんじゃないと思う。クラリスのことはともかく、こんなこそこそとちっちゃいイタズラをするような人じゃない。犯人を知ってて、隠してるかもしれないけど」
「じゃあ、聞き出せばいいんじゃねえの」
「うーん、……たぶん逆効果だなあ……」
こそこそはしないが、堂々とはしそうだ。疑われたと思えばたとえば、生まれの卑しい者は考えも卑しい、なんて言いふらしそうだ。
「こういうのは、放っておくのが一番だよ。ネタも力もいつか尽きるだろ」
ライエがそう結論を出すと、クラリスは消え入りそうなため息をついて、部屋の隅をちらりと見る。そこには水瓶があり、木の蓋がしてある。中にはカエルが数匹、悠々と飼われていた。
あれを置いてから、少なくともカエル被害だけはなくなった。
「クラリスは、ごめんね。本当につらかったら休んでていいんだよ。必要なときに呼ぶから」
「大丈夫です。お願いですから、お側にいさせてください……」
必死な顔で、大きな目に涙をうかべるので、ぎょっとした。
「えっ、泣かないで、どうしたの」
「あーあー、兄が泣かしたー」
「俺?俺のせい!?」
「よしよし、姉はオレが守ってやるからなー」
適当なことを言って隣のふわふわとした髪をぐしゃぐしゃとするハリスに、クラリスはむっとしながらも何も言わず、肩を落とした。
ライエは訳もわからず、慌てた。完全に悪者である。
ついにここまできたか、と目の前で真っ青になっている侍従を見て失笑した。
彼が珠水の間に運び込んで来た化粧箱。その中に入っていたのは、もとはきれいに仕立てられているが、無惨にも赤い大きな染みに汚された衣装だった。
「こ、これは……! なにか手違いが、」
慌てている侍従は、本当に何も知らなかったらしい。
ついでにいうと、手違いではない。これはたしかに数週間前に、ライエのために仕立てられた服だ。やたらこだわる王をなだめすかし、出来るだけシンプルに動きやすく作ってくれとお願いした、側室としてはじめて城に向かうための服。
王には謝らなければ、と思いながら、まずは見知らぬ侍従を落ち着かせることにした。
「大丈夫です。あなたは悪くない。聞いてみますが、この荷物をこの宮に置いて、一度離れたりしましたか?」
「え、いえ……あっ。一度中を見させてくれと、ここの侍女たちが……え、」
ライエがこんなことを聞いている意味を理解したらしい侍従は、なんとも言えない気まずげな表情になる。
「問題はないです。他の人には言わないでください。ありがとうございました」
ためらったあと、人の良さそうな侍従はおどおどと頭を下げ、部屋を出ていく。
控えていたハリスはあきれたと言わんばかりの表情で、クラリスは顔を真っ青にして震えている。
「クラリス、大丈夫?」
「こんな……信じられません……!」
「怒ってたのか。落ち着いて、しょうがない」
良い子だな、とライエは少し感動してしまう。ライエの近くにいるせいか、側室になると認められたときの王の喜びようも知っていたし、ライエがかなりほっとしたのも彼女は見ていた。
「ここまで良識を欠くなんて……この宮にいる資格はありません」
「言うね、リリィ姉。けど、どうすんの、兄」
「うーん、……ま、着ていこう」
あぜんとした二人の顔が面白かった。
テーブルの上に置かれた箱から、一番派手な汚れがついたコートを取り上げる。赤茶色の生地で、かなり薄く織ってもらった。手触りは良くて、本当にもったいないと、すこし良心がうずいた。
「なんか、きつい臭いがするな。乾いてないね」
「……これは、油絵の具だと思います。油のにおいです」
クラリスが近くによってきて、においをかいだ。あまり好きなにおいではないのか、顔をしかめている。
「え、着るの兄」
「うん。まあ、なるようになるだろ」
「それは、どういう……?」
「まあ……陛下は怒らないだろう」
嫌な予感でもしたような、疑わしそうな目でハリスとクラリスはライエを見た。
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