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ただ、そんなムテキ君のおかげで、命を救われたこともあるのである。
彼は霊感を持っているのではなく、第六感が異常に鋭いタイプなのではないか?そう思うようになったエピソードがこれだ。
「あああああと五分!五分しかないいいい!」
その日、私は寝坊したせいで、会社に遅刻しそうになっていた。その日は両親の方が先に家を出る日であったため、うっかり誰にも気づかれなかったというのもある。まあ、二十代も半ばをすぎた社会人にもなって、両親に起こしてもらうのはみっともないとはわかっているが。
私の家は、駅まで十分と非常に近い。とはいえ、真横ではない以上、電車がやってくる時間の十分前には必ず家をでなければならないということでもある。しかも、この十分、という計算には信号で引っかかったり忘れ物をして取りに戻る時間なんてものは含まれていないわけで。とにかく、次に来る電車に乗らなければ遅刻確定であった私は、非常にわたわたとしながら会社に行く準備をしていたのである。
私の最寄駅はさほど小さなものではないので、電車の本数も多いが。問題は、乗り換え先の電車である。マイナーなローカル線であるために、ラッシュ時でも十分に一本しか電車がこない。最大の問題は、これを逃すとその乗り換え先の電車の発着時間に間に合わないということだった。
あと五分で家を出発しなければ、間に合わない。私はギリギリのギリギリで食事をし、髪を整え、家を出ていこうとしていた。玄関で靴をつっかけようとした、まさにその時である。
「ちょ、ムテキ君!そこ、めっちゃ邪魔!どいてえ!」
よりにもよって、ここでムテキ君の盛大な邪魔が入った。私がいつも履いている靴の上にどどーんとパグにしてはでかい身体を載せて、靴を履くのを阻止しようとしてきたのである。
飼い主に出かけて欲しくない犬が、靴をどこかに隠して出発を阻止しようとする、という話は時折耳に挟んだことがあるが。しかし、よりにもよって我が家の、“飼い主?ああ餌くれる人?”としか認識していなさそうなムテキ君にその行動を起こされるとは思ってもみなかったのだった。しかも、よりにもよってこのクソ忙しい時間帯に。
「その靴じゃないと駄目なんだってば、他に革靴持ってないんだから!お願いどいて、どーいーてー!」
「むふっ」
「え、なんでそこで身体伸ばすの、邪魔する気満々なのねえ!?」
ムテキ君、耳が動いてるから聞こえていないはずがないというのに。靴の上で伸びをして、精一杯の抵抗をしてくるのが始末に負えない。抱き上げてどかそうとしたら、今度は靴を咥えて家の中を猛然とダッシュし始めた。そのまま居間をぐるぐると回り始めるムテキ君。まるで美味しい御飯を見つけた時のようなスピードに、私はあっけにとられるしかない。
一体、何がそんなに気に食わなかったのだ。
自分が飼い主として愛されているがゆえの行動だとは到底思えなかった私は、遅刻しそうな状況もあって完全に涙目だった。愛犬に、嫌がらせされているとしか思えなかったためである。
「お願い靴返して、返してよおお!」
居間での不毛な鬼ごっこは、約五分ほどで終了した。
私が靴を取り返したのではない。五分ほど経過したら、ムテキ君が何故か突然興味を失ったように、ぽいっと靴を捨てたのである。
「何がしたかったのよ、アンタ……」
涎と歯型がついてしまった靴を片手に、私は茫然と呟くしかなかった。
確かなことは一つ。電車はもう行ってしまった。私は今日、会社を遅刻確定ということである。
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