プロローグ

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プロローグ

 浅緑の若葉が、足下に集まって咲く名前も知らない薄紫色の小さな花々を、そよそよと吹く風から守っているようだった。  足元に何かがコツンと当たったような気がして、男はふと顔を下げた。そこで初めて、すねのあたりまで水に浸かっていることに気がつく。水面は木漏れ日でキラキラと揺れて、じっと見つめていても一向に自分がどのような顔をしているのかすらわからない。  今見ている映像は記憶の隅っこにあるような気はするのに、ここがどこなのか男には全くわからない。もしかしたら別の誰かの記憶をずっと見させられているのかもしれなかった。  ざあっと大きく風が木々を揺らした。  枝枝から離されてしまった鮮やかな若葉たちが目の前を駆けてゆく。再び顔を正面に向けると、知らない少女が、花たちの中でこちらに背を向けて立っていた。  銀色の、糸のような細くて柔らかい髪が、風に揺れて木漏れ日に負けじとキラキラとなびいた。腰まで届く長い髪も、真っ白なワンピースから覗く細くて白い足も、男の記憶の中には存在しないはずだった。  それなのに、思わず右手が少女の方へ向かって伸びて、喉元に突っかかっている形にならない言葉を少女に伝えたくなった。しかし男の意識と体はうまく接続できていないのか、本来持っているはずの声の出し方を忘れたかのように、ただ風のわんぱくな足音だけが辺りに鳴り響いていた。  少女が髪を耳にかけ、男の方へゆっくりと振り向きかけた。と同時に、また大きく木々が揺れて、今度は若葉だけでなく、花びらも、水も、風に乗って男の視界を埋め尽くした。  日の光が一層強く輝き、光と色が混ざり合って男の視界を狂わせる。思わず男は目をつぶった。漸く薄くまぶたを開けた時、まだそこには、今にも消えてしまいそうな少女のシルエットが、ぼんやりと鮮やかな色彩の中でたたずんでいた。
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