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コマーシャル・ランナー
リイナは走るのが好きだった。どうしようもなく好きだった。
けれどリイナの住む国にはスポーツやエクササイズの概念がなく、昼夜を問わず街を走るリイナに、人々は奇異の眼差しを向けた。
走るリイナに人々は問いかけた。「どこへ行くの?」「なぜ走っているの?」「追われているのか?」「悪いことをしたの?」
リイナは答えた。「どこまでも」「走るのが好きだから」「追われてないわ」「悪いことなんてしてない」
もちろん人々はその答えに納得しなかった。それは彼女が通う学校のクラスメイトたちも同様だった。
「リイナって見てくれは良いのに、ちょっとおかしなところがあるわよね」
それがクラスメイトたちの共通見解だった。
しかし彼女にも一人の理解者がいた。いじめられっ子のゼムだ。
ゼムも走るのが好きだった。二人は幼いころから街中を走り回り、数えきれないほどの邂逅と別れを繰り返していた。
二人は一言も言葉を交わしたことはなかったが、互いに互いを唯一の理解者と信じて疑わなかった。
そんなリイナに、ある日、転機が訪れる。
リイナが街外れの道を走っていると、いくつもの立て看板の前に立ち、それらを見上げ、「うーん」とうなっている男を見つけた。
リイナは珍しく走るのをやめ、その男に話しかけた。
「看板が、どうかしたんですか?」
リイナは男の隣に立ち、同じようにその看板群を見上げた。どの看板も、これといって変わったところはない。
「いやね、私はある広告会社の者なんだが、どうにかもっとたくさんの看板を立てられないかと思ってね。看板を立てたいって人はたくさんいるんだ。でも市の決まりがあるから、ところ構わず看板を立てるわけにもいかないし……けれど今のスペースだけでは限界があるしでね。なにか良い案はないかと、考えていたんだよ」
男はそう説明した後で、リイナにお決まりの質問を飛ばす。
「ところできみは、なぜ走っていたんだね?」
この広告マンとの出会いが、彼女の大きな転機だった。
その日以来、リイナは着ている服のあちこちに広告シールを貼りつけて走るようになった。
広告マンは、貼りつけるシールの大きさや、貼りつける部位、貼りつける期間を厳格に管理した。
リイナには少なくないお金が支払われた。でも彼女にとっては、お金のことよりも、晴れてこれで人々の納得する理由ができたということのほうがうれしかった。
「なぜ走っているの?」と訊ねられたら、服に貼りつけられた適当な広告シールを指さし、こう答えればいいのだ。
「宣伝のために走っています。こちらの商品を、よろしくお願いします」
それで人々は誰もが「なるほど」と頷いた。「賢い商売を考えたね」と褒めてくれる人もいた。「でも走るのは大変だろう、がんばって」と労いの言葉をかけてくれる人も。
唯一の不満といえば、胸元やお尻に貼られるシールの広告料が、特に高く設定されているということだった。
まあそれはともかく、リイナはコマーシャル・ランナーとして、瞬く間に街の人気者となった。
リイナが学校を卒業すると、活躍の場は街の外にまで広がった。
リイナは様々な広告をその身に貼りつけ、顔や腕には広告ペイントを施し、広告料を糧に国中を走って旅した。目にするもの全てが輝いて見えた。
でもそんな幸福な時間は長くは続かなかった。テレビジョンの急速な普及により、広告の場はブラウン管の中へと移っていった。
皮肉にも、リイナは長らく、その胸元に格安テレビの広告シールを貼りつけて走っていた。一般家庭へのテレビの普及に、リイナ自身が一役買っていたのだ。
そうしていつしか、リイナに広告シールを貼りつける会社はなくなってしまった。
間もなく資金が底を尽き、リイナは仕方なく故郷の街へと帰っていく。
けれど、リイナは走るのをやめなかった。
その身に広告シールを貼りつけることもなく、昼夜を問わず街を走るリイナに、人々は奇異の眼差しを向けた。
……そしてリイナは、ある小雨降る日に、あのいじめられっ子のゼムと、久しぶりの邂逅を果たす。
リイナの姿に気付いたゼムは、走るのをやめ、彼女に訊ねた。
それはこれまで、理解のない人々から、幾度となくリイナに投げかけられてきた言葉だった。
「きみは、なぜ走っているの?」
ゼムにそう訊ねられたのが、リイナにとってはひたすらに悲しく、また、今さら「走るのが好きだから」などと、そう答えることは……彼女にはとてもできないのだった。
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