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度々に渡って裏切った飯尾連龍を成敗しなかった氏真は遠江国衆から冷視を浴びる事になる。
氏真は凡愚と見られていたが、それほどではなかった。だが、こうした果断の躊躇が後々の印象になってしまった。
猜疑心が強く、果断を以て家臣らを治めていた父の義元に対し、治法と知力と威権を以て領国を治めようとする氏真は、「生まれる刻」を間違えたとしか言えない。
翌永禄八年(一五六五)十二月、連龍は氏真から駿河今川館に呼び出された。氏真から(…臣従の誓書でも取らされるのか)と連龍は軽く思った。
それも“形だけ”であり、家康に気持ちのある連龍はまた造反する気持ちで安易に駿河に向かった。
だが、今回は違った。
「度々までも裏切りおった連龍をそのままにしておいてはならぬ…」と氏真が思わぬまでも、今川方の家臣が鬱々と待ち構えていたのだ。
また、連龍が徳川と内応した噂も漏れていた。
連龍にも油断があった。
家康の容貌を見て、今川からの離脱を誓った彼は「…ならば、太守様(氏真)の尊顔を眺めようか。こちらの真意など読めまい」と安穏した気で駿河に向かった。
彼の中にも、犬居の天野藤秀のような国衆の狡猾さがあったのだ。心中は既に徳川方だが、今川には素知らぬ顔で従っておきたかったのだろう。まさか家康との会見が漏れていたとは思いもしなかったのだ。
駿河にあった飯尾館は百騎の今川兵に攻められて、そこで連龍はあっけなく誅殺された。
この時、館には連龍の妻、お田鶴(たづ)殿がいて、夫の殺害に憤怒し、今川兵と争ったという。恐るべき女傑である。
お田鶴殿は近くで夫の連龍を見ていて、国衆としての意地を見ていたのであろうか。芯の強い女性だったようだ。夫から『何者にも従っても、混ざらない胆力を持て』と訓示されていたようであった。
何年もの間、現地に生居してきた彼ら国衆は、他国からの風声鶴唳に怯えても、寄るべき大樹を違わず、不羈すべき道を見つけなければならない。
飯尾連龍はそうして生きてきた。
家康が龍ならば、『龍と生きる』方法を考えるのが、国衆の気質であり、それを謀言でも、擬態しても守るのが国衆としての生き方である。
そんな気質をお田鶴は見ていたのだろう。夫の生き方を見ていた。
その後、彼女は駿河を離れ、遠江に戻り引馬城に退避した。
女城主として暫くは夫、連龍の位牌を守る事になる。
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