③ 龍を見たか?

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 武田を頼る、とすれば、遠州堀越の堀越氏延もそうであるが、彼は少し事情が違った。  彼は、今川一門であり、今川了俊の血統なのだが、主家である駿河今川家に反抗する気持ちを常に持ち続けていた。  今川義元の横死に際し、いち早く『反今川』を顕し、遠州国衆らを離反させようとした。    その氏延に乗ったのが、浜松引馬城の飯尾豊前守連龍である。  飯尾氏は、古くから浜松荘の奉行として遠州に居住しており、連龍の曾祖父、長連などは、まだ駿河にいた頃の今川義忠(義元の祖父)に従い、今川家の遠州制圧に協力し、ともに塩買坂の戦いで討ち死にしている。 連龍の父、乗連も今川家に従っていた。  だが連龍は、曾祖父らとは違い、桶狭間後、まだ家康が三河にいた頃の永禄六年(1563)から反今川の旗色を鮮明にして、反抗を繰り返し、度々氏真に許されてきた。  そこに氏延から話が来た。  『共に甲府殿(武田信玄)に従わぬか?』というものである。  南信濃に侵出していた信玄は南の遠江駿河を狙っている。ここは名門甲斐源氏の武田家に頼るが、良策という勧誘である。  さらに、暫くして三河の家康からも書状が来た。  『暫時、遠州へ討ち入るので、こちらを助けよ…』であった。  飯尾連龍は悩んだ。  (信玄と家康。果たしてどちらが恃める人物か?)  驕名だけならば、無論、信玄である。  しかし、同時に武田には虎狼の質がある。  下手に傘下に加わると、所領を奪われる恐れはないか。虎穴に自ら飛び込む羽目になりかねない。  対して、家康はどうか。  彼は、噂通りの龍なのか。今は三河で一向一揆に手こずっているのは何故か。  家康は、果たして頼るに足るのか。元は今川の人質だった小倅ではないか。  連龍は迷った。  (…どちらに従うか?)  彼は、この後、徳川家康がこの日ノ本を統べる覇者になるとは、とても想像できない。  彼だけではない。  遠江中の国衆がそんな夢想を抱いてはいない時である。  永禄六年(一五六三)十二月、連龍は引間口飯田で今川軍と戦った。  事前に氏延からは謀反催促の文が届いており、それに乗じての行動であった。  だが、武田に靡くつもりも無かった。ただ今川方に従う気もなく、今川勢力からの離脱が目的であった。  といっても、徳川に恃む心持ちも薄く、ただ、『反今川』と旗色を表すだけの戦いだった。  なのでこの時、連龍はすぐに氏真に詫びを入れて、赦免された。  無論、これは形式上の謝罪であり、連龍は今川に従うつもりは無い。ただ、駿河からの“支配下”から『いつでも離反する気はある』と見せておいたのだ。  実のところ、今川氏真からしても、揺れ動く連龍の気持ちを理解していた。  保庇と独立不羈の担保が欲しい飯尾氏のような国衆を無理に繋ぎ止めるのは、禍根となりかねない。  ここは、形だけの帰順を許し、緩慢な関係性を敷いておけば、向後、改めて紐帯を徐々に強めて、改めて今川方の支配下に組み込めると踏んだのだろう。  そして、翌永禄七年(一五六四)五月、連龍は再び、今川に叛いた。  昨年の謀反の裏には堀越氏延の書状があり、氏延の後ろには、武田信玄の影が色濃くあった。  今回の造反は、その信玄から働きかけはなく、徳川方への加担と、連龍独自の考えによるものであった。  何故なら、前月の四月八日に連龍は家康自身と対面したからである。  遠江成子の東漸寺で連龍は家康と会見をしている。 家康は密かに遠江に来ていたのだ。  連龍は初めて“龍”を見た。  この頃、家康は三河の一向一揆との深刻な戦闘がようやく収まりだし、改めて三河統一を行っている最中である。この時期に家康は既に遠江侵攻を考えていたのであろう。  対面した連龍は家康を見た。  柔和な顔をしていた。目が大きい。そして、魚眼のように丸い。体躯は中肉中背で大きくは無い。威圧感は少なかった。  だが、強い威福を感じた。目容こそ柔らかいが、その親しみやすい視線の中に胆力を感じた。驍名こそ無いが、剛愎さがあった。  (このお方ならば…)  これが、連龍に謀反の決心をさせた。    この造反に際し、氏真は連龍の姉婿である二俣城の城主、松井山城守宗恒を仲介役にして和睦している。  松井氏は、桶狭間以前から今川方の重臣であり、以後も変わらず今川家に従っていた。  ちなみにこの松井宗恒は、後に徳川家に頼るが、後々には武田信玄が二俣に来訪すると、今度は武田方に寝返る事になるが。
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