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飯尾連龍が駿河で殺害され、彼の本拠の遠江引馬城内は混乱した。
連龍は駿河に召集される前、留守役の二人の家老、江馬安芸守泰顕と同加賀守時成に「ワシに不測の事態があらば、三河殿に頼め」と言付けていた。
連龍は、この呼び出しにそれなりに危険を感じていたのだ。だが、まさかその言葉が遺言になるとは思っていなかった。
しかも、飯尾家家中も一様ではなく、この加賀守が松平(徳川)派であるが、安芸守は武田派だったのだ。
加賀守は連龍の言い付け通り、家康に文が送られ、さらには領地の安堵と、もし今川方が討伐の兵を送ったら、『必ず後詰め(加勢)を送る』と約束を交わした。
加賀守はこの言葉を信じたに違いない。
そして、もう一人の家老、安芸守は、主の遺言を無視し、最近書状で加担を催促していた堀越氏延を介し、甲斐の武田信玄と連絡をつけていた。
翌永禄九年(一五六六)二月、氏真は大軍を引馬城に寄せた。
期待していた家康の援軍は現れなかった。
安芸守、加賀守の両者は、氏真と和睦して、引馬城は今川方に接収される事になる。
(三河殿(家康)、話が違うのでは?)と江馬加賀守は思っただろう。
だが、家康には動けない理由があった。
この年(永禄九年=一五六六)、家康は三河統一を為し得つつあった。
当然、隣国の遠江が視界に入ってくる。
そこに引馬城の加賀守から起請文が来た。そこには飯尾家の徳川家臣従と『領地の安堵』の要請、今川方討伐軍への援軍約束の要請があった。
これに家康は、『必ず後詰め(加勢)を送る』と約束を交わした。
と、同時に遠江の動乱を感じ、(…主のいない国ならば)と家康の気持ちが動いた。
だが、ここで存外な情報が入る。引馬城の家老、江馬安芸守泰が甲斐の武田信玄と連携を始めたという一報である。
(…よりによって、信玄“坊主”を引き込むとは)
家康は陰鬱さを愁眉を隠せなかっただろう。
この時期、氏真はまだ僅かばかりに信玄と結んでいた。駿河甲斐相模の“三国同盟”は義元が死んでもまだ効力が切れたわけでは無い。微妙な時期であった。
同盟者の織田信長から「東は任す」と要望され、確かに主のいない遠江は欲しい。
たが、やはり信玄とは揉めたくない。
そこで引馬に援軍を送れば、『待っていました』とばかりにあの信玄が来るだろう。
しかも、その信玄と家康の同盟者である尾張の織田信長もまた同盟しているのだ。
つまり、今川と戦うのは、信玄ならずも信長に対する“離反行為”になる。大戦に発展したらなら、織田からの援軍は見込めない。
これで家康は動けなかったのである。
江馬安芸守が信玄と繋がった事が、家康を足止めさせた。
この頃の家康は微妙な他国関係の中で生きており、そうした関係性を加味しながら、兵馬を進退させなければならなかった。
忍従の時だったのだ。
翌永禄十年(一五六七)、遂に信玄と氏真の決裂が表面化して、家康はようやく遠江侵攻を開始を準備するのは、こうした理由である。
そして、それは何かと信玄の顔色を窺いつつの侵攻だった。
なので、武田軍が駿河今川舘を急襲した日に、陣座峠を越えたのだ。
徳川軍が井伊谷から侵攻して、頭陀寺城から引馬城に近付くと、城内では異変が起きた。徳川派の加賀守が、武田派の安芸守に殺害され、その安芸守もまた加賀守の家臣に討たれた。場内にいたもう一人の家老、垣塚右衛門は浜名湖西側の白須賀に逃げ出した。
引馬城内で、内紛が起き、凄惨な斬り合いが行われたのである。
徳川軍が引馬城に接近すると城から出撃したのは、亡き飯尾連龍の正室、お田鶴と侍女らであった。白袴にヒドオシの具足に薙刀を携えた彼女とその侍女らは近接する徳川兵に襲いかかった。
これを見て、家康は驚嘆した。
そして、討った。
彼女は亡き夫から「三河殿を恃め」と言われていなかったのか。
それは分からない。
だが、彼女の中に、独立独歩の国衆の気質があり、夫亡きあと、動乱する飯尾家中を見て、「恃むは徳川に有らず」と判断したのかもしれない。
国衆としての矜持を一番持ち得ていたのは、彼女かもしれない。
また、彼女は“龍”を見たのだろうか。
もし見たなら、薙刀を携えて突進などしたであろうか。
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