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④ 犬と猿は戻るのか?
水野藤十郎忠重の許に、信長から急使が来た。
天正八年(一五八◯)の事である。
忠重の主君である徳川家康もそれを認知しているらしい。織田信長が呼んでいる、という。
安土に呼び出された忠重に、いきなり尾張刈屋城を授けられた。刈屋は忠重の兄、水野信元の居城であった。
「……」
忠重は伏して賜ったが、内心は(…何故か)という疑問を感じずにはいられなかった。
だが、信長が直接「授ける」と言えば、それに対し忠重は心中を述べる機会などない。ただ畏まって受けるしかないのだ。
これにより、水野忠重は家康の家臣から一躍、大名として織田家の家中に入った事になる。
正確には織田徳川の『両属』という少し複雑な存在になった。所属は織田家であるが、行動指示は家康から受ける。
その忠重は天正九年(一五八一)、遠州横須賀の守りに加わった。武田方が籠る高天神城の包囲戦に加わったのである。
この水野忠重の織田家“移籍”とそれに纏わる一連の出来事が家康に少しばかりの影響と、後の家康の思考に多きな枷を与える事になる。
水野家は奇妙な家である。
本拠地は尾張の小河(緒川)である。忠重の父、忠政は早くから隣国三河の松平清康(家康の祖父)の勢力拡大と武威を見て、それに隷属する事を決めた。
娘の於大(忠重の同母姉)を清康の嫡男、広忠(家康の父)に嫁がせる事にし、さらに自身の側室で美人の誉れの高いお富(お留)を清康に譲るという未聞の譲渡をして清康に従った。
だが、忠政の嫡男、信元(於大、忠重の異母兄)は父のこのやり方に反発し、清康が不慮の死を迎えると、三河松平と手切れを切る決断をした。妹、於大を広忠と離縁させ、西隣の尾張織田家と結び、その麾下に入ったのだ。
一気に松平から織田に移籍したのだ。
そういう事をして稼穡を行ってきた家であった。
しかし、これの水野家の動きを見れば「向背離心の信義無き家」と思うかもしれないが、この時期、どこの国の国衆(国人領主)もこのような離合をして生き延びていたという事象を鑑みれば、“奇妙”ではないのかもしれない。
水野家との“同盟”を切られ、また三河領内での勢力を弱めた松平広忠は、東隣の今川家に頼ることになる。
駿河遠江を征していた今川家は、度々と三河に侵入していた。時の当主は今川義元である。広忠は今川に臣従の証として、嫡男の竹千代(後の家康)を送ろうとした。
だが、その途中で義理の祖父である田原の戸田憲光に謀られ、西隣の織田信秀に売られてしまった。やがて、竹千代は駿河今川家に戻されるのだが、これが家康の幼年期の苦労である。
その後、義元は度々と三河に出兵し、尾張に近い安生城を落とし、領有した。
三河と尾張の狭間にいた水野信元は、期せずして甥(家康、この頃は元康)と対決する事になる。
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