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やがて、今川家の青年将校として成長した家康(元康)は、永禄三年(一五六◯)、義元の西上に従軍し、尾張まで来た。
この時、尾張の小勢力だった織田信長が奇襲により、義元の討ち果たすという史上稀に見る奇跡を演じ、家康(元康)は生まれ故郷の岡崎城に戻ることになった。
元康(家康)は微妙な立場になった。
気分は今川家家臣だったが、義元の跡を継いだ幼なじみの五郎殿(氏真)は、父の仇を討つ素振りを見せない。また互いに情報の齟齬があり、さらには松平家臣も今川からの離反を進めた。
彼は、迷っていた。
さらに、伯父である水野信元は、“甥”に「信長と手を組まんか?」と誘ってきたのだ。今川から離反の勧誘である。
この時の信元は織田家の従順な同盟者という立場に近い。“口利き”を買って出たのである。
そして、元康(家康)は織田信長と同盟を締結するに至った。
水野忠重が家康(元康)に仕えたのはこの頃(永禄四年=一五六一年)であると思われる。
忠重は、兄である信元のやり方、ひいては国衆としての節操の無い生き方を嫌い、水野家から離れ、年の近い甥である三河の家康(元康)に仕えようとしたのだ。忠重の気質は律儀であり、筋を通す武士として清廉さに貫かれていた。
家康(元康)はこの同年代(一歳違い)の叔父の士官を喜んだという。
それは、忠重の容貌が自分とよく似ていたからである。つまり、家康の“影武者”になれる素質があったからだ。こうして忠重は家康の家臣となり、のちには『徳川二十将』に数えられる事になる。
一方、忠重の兄であり、水野家の当主である信元は、その後も信長と“隸属的”な同盟関係を続け、織田家の主要な戦には必ず参戦した。
その信元が殺害された。
天正五年(一五七七)の事である。
理由は「敵対していた武田方の岩村城の秋山信友に密かに兵糧を送って助けた」という“利敵行為”である。ちなみに、この疑いを信長に讒言したのは、佐久間信盛であった。
この訴えは後に冤罪と分かるのだが、それまで向背してきた水野家の“噂”を信長は信じたようであった。
信長は甥である家康に、この伯父の“処分”を求めた。水野信元は織田家の家臣ではないが、それにほぼ近い。にも関わらず、信長は“同盟者”で織田家外の家康にそれを求めた。
信長は「殺せ」とは言わない。
「こうした風聞あり。よくよく吟味致すべく存ずる」と文を寄越したのみである。
だがこれは、遠回しに信元の殺害を示唆するものである。
そして、この伯父への処分は3つの意味がある。
一つ。
この時から遡る事、五年前(元亀三年=一五七二)、遠江に武田信玄が襲来した三方原の戦い。信長は僅か3,000兵余りの援軍しか送って来ず、その援軍の一人が水野信元(残りは佐久間信盛と平手凡秀)であった。
この尾張からの少ない援軍は、武田勢とろくに戦わず、家康敗戦後、速やかに本国へ戻ってしまった。家康本人は死を覚悟する程の大敗であった。
その原因が信元にあるわけではないが、こうして彼を誅罰することで、その時の“恨み”を晴らさせる意味がある。
二つ。
さらには、信元は家康の伯父である。
母の兄の殺害。
これは遠回しに『ワシを恨もうとも、裏切ったならば、血族だろうとどうなるか、分かるな?』という脅迫になる。
三つ。
さらに言えば、その殺害を家康本人と徳川家にさせる事も、言うなれば信長自身との托生である事を想起させる事になる。
つまり、「叔父を殺害しても、己(徳川)は、こちら(織田)と一緒よ…。分かっているな?」という因果を含ませる効果があるのだ。“共犯関係”を結ばせるのである。
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