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結局、家康は信元を斬った。十二月二十七日のことである。その養子の元茂(信政)も誅殺された。
ちなみに信元には一歳の隠し子がいて、この男児は死を免れ、徳川の家臣、土井正利の養子になる。後の大老、土井利勝てある。
この時、水野家は本拠地小河から近い刈屋城を領していたが、替わって得たのは、信元を訴えた佐久間信盛だった。
その信盛も同八年、信長から織田家を追放されていた。
三方原の戦いにきた三将の内、二人がこうして衰墜した。ちなみに残る一人の平手凡秀は三方原で討ち取られ死んでいる。
信長は、家康に三方原の戦いで働きの少なかった織田軍の将に誅罰を与え、家康の気持ちを収斂させたとも言えなくない。
この頃、家康は同盟者ながら、ほぼ信長の家臣のような存在になっている。信元と一緒である。
さらには、水野忠重が信長から刈屋城を授けらる天正七年(一五七九)、信長は家康に嫡男の信康を自害させた。
これも武田方への内通を疑われたからだ。
さらに遡れば、天正三年(一五七五)、信玄死後に長篠、設楽原の戦いで武田勝頼を破った。
この時、徳川はそこに全動員兵力の半分に近い8,000兵で参陣した。
三方原に3,000しか送って来なかった織田に対して、8,000で援軍に来た徳川。
織田の戦に大勢力を率いてきた家康 さらに嫡男まで自害させられた。
当然、家康の心内には「何故、我らだけがここまで“尽くさねば”ならぬ…」という鬱積した気持ちが沸き上がる。
それを想像できない信長ではない。
家康は織田から離心する情恨を抱くだろう。
家康になくても、信長にそうした疑念が浮かぶ。
武田信玄は死んで、後継の勝頼は設楽原で破ったが、まだ武田家の勢力は健在である。甲斐、信濃に加え、駿河も有したままだ。
もし、家康と徳川勢が武田方に寝返ったならば、三河が本拠地の家康が敵にならば、信長の勢力は本拠地、尾張の喉元に短刀を向けられたようなになる。
他者の動きと心情に敏感な信長は、家康の心境を慮り、考慮した。
それが、佐久間の処分と、叔父で家臣の水野忠重への“刈屋城授任”であった。
これば実に巧敏な降伏信長の策だった。
佐久間処分は『三方原合戦』での家康への薄い支援への“手当て”である。それを信盛に追わせて追放した。
そして、家康の叔父(忠重)への“加増”は、彼が“形式上は徳川家臣”とするなら、徳川家への加増と言える。(実際は両属だが…)
こうして、忠重は信長の家臣でありながら、家康の指揮下にいるという微妙な立場のまま、遠江に残る武田勢の城、高天神城攻めに加わった。
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