④ 犬と猿は戻るのか?

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 高天神城も奇妙な城である。  その城は小笠山の峰に東南に延びた屋根の端である鶴翁山に築かれ、その山頂の割れた狭間に曲輪を配置した奇妙な縄張りをしている。  東西の峰に挟まれた形で、しかも、この山全体が急勾配の断崖になって囲まれている。  見たことも無い奇城である。    遡ること十三年前、永禄十一年(一五六八)、家康が三河から遠江に侵入し、この高天神城に迫ると、今川家臣であった小笠原長忠(氏助)は、始めは武田信玄を頼ろうとしたが、徳川に降った。  当初、長忠と父の氏興は、駿河に武田勢が侵攻し、今川当主の氏真が逃亡したを見て、いち早く武田方に寝返ろうと画策していた。  この時、徳川家中に同族の小笠原新九郎安元がいて、家康からの内命を受け、小笠原父子の説得に来た。長忠は人質を連れて武田勢の秋山信友に向かう寸前だったという。  新九郎安元は家康の言葉を伝えて、小笠原父子を説いた。  「遠江は早晩、こちら(徳川)のものとなる。武田に出仕するのは止め、我に仕えよ」  この時、家康は信玄と『川切り』の密約を交わしていた。家康は、これを『徳川が遠江、武田は駿河』という約定だと思っていた。つまり、駿河を征した武田勢は遠江には来ない、という約束だと、家康は思った。  この時、信玄の家臣である秋山信友が遠江に侵攻していた。これを見て、小笠原父子は武田の麾下に入るべきと思ったのだ。  だが、この秋山の行軍は領内侵犯である。家康は後にこれを猛抗議している。  その事を踏まえて、新九郎には小笠原親子を説得した。  信玄と尾張の織田信長は同盟を結んでいる。その信長の同盟者は家康である。信玄は駿河より西には侵出してこない。  さらに東側からは北条が信玄を攻撃するだろう。懸川城に逃避した氏真の妻の実家である関東の北条は信玄に怒っていたからだ。  しかも氏真は信玄の好敵手である越後の上杉輝虎(謙信)に援助を要請しており、北の上杉も武田と抗争する気配が濃厚である。  今、武田に加わるのは、三方に敵を持つに等しく、しかも武田は遠江には侵攻しない。  これを鑑み、小笠原親子は安元の言を入れ、家康に従うことを約束した。  懸川城を囲む徳川軍に加わった長忠は、その年の瀬の十二月二十七日に元主君の籠る懸川城下に放火した。  高天神の小笠原氏もまた乱世を渡る国衆(国人領主)に他ならないのであった。  元亀二年(一五七一)、信玄は遠江に侵攻し、二万の大軍で高天神城を囲んだ。この大軍を迎えた長忠は二年前の自身の判断を疑っただろう。  信玄は遠州に来たのだ。  だが、天然の要害に囲まれた高天神城は容易に落ちなかった。  これは、進軍する信玄の眼が高天神より、西を見ていたことに幸いする。信玄は急いでいたのだ。この時、長忠は運が良かったのかもしれない。  その後、信玄は元亀三年(一五七二)に遠江三方原で家康を撃ち負かすが、翌年(天正元年=一五七三年)に陣中で没した。  小笠原長忠は生き残る事に成功したと言える。  
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