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しかし、天正二年(一五七三)、信玄の死後、跡を継いだ武田勝頼が高天神城を包囲した。
五月三日、武田軍は二万5000兵で城を囲んだ。信玄の威光を越えたい勝頼は、堅城高天神を囲むとともに、家臣の穴山梅雪を使い、長忠に開城勧告を行い、武田方に寝返るように促した。
長忠は、またも迷った。
前は武田側に付こうとしたが、間際で徳川に変えた。この趨走は成功した。
その後、信玄は来襲したが、堅固な高天神城は(運良く)陥落を免れたからだ。
だが、今回はどうか。
長忠は、家臣の匂坂牛之助を家康のいる浜松に送り、援軍を求めた。
これを受けた家康は当然、了承した。
しかし、高天神を囲むのは二万5000兵の武田軍である。浜松にいる徳川の動員兵力はせいぜい8000兵前後であった。
家康は当然、同盟者の織田信長に援軍を頼んだ。
三方原に3000兵しか送らなかった信長は今回は大軍での来援を約束した。
信玄没後、衰退する武田家を潰滅せんと思ったのかもしれない。
だが、この時期、織田軍は越前の一向一揆と対峙しており、出兵の動きが鈍くなった。信長が本拠地の岐阜を経ったのは、六月半ばであり、勝頼からの開城勧告の返事を延ばしていた長忠は、城の曲輪が破られるまで耐えたが、何度援軍要請(後詰)しても来ないので、六月十七日に開城してしまった。
勝頼から長忠に「開城したなら、駿河に一万貫の知行を授ける」と勧誘があったのだ。
同日、三河吉田(豊橋)を発し、浜名湖の今切まで来ていた信長は高天神開城を聞いて撤退した。高天神城まで近い所まで進軍していたのだ。
家康は吉田城まで来ていた信長に篤く礼をした。
信長からしたら「…武田兵と戦せずに済んだわ」、そして「あの徳川の家臣でも主人を裏切る事が有り得るのか」、と内心で嗤っただろう。
(…ともかくこれで、三方原の“貸し”は一度返した)とも思っただろう。一兵も損なわず家康の怨言を避ける事に成功した。
もし、この時、小笠原長忠があと数日、籠城していたら、翌年(天正三年=一五七四年)の長篠の戦いはなかった可能性が高く、それはいろいろな人間に微妙な変化をもたらすことになる。
家康は、長忠の不忠を恨んだ。
「与八郎(長忠)め、知行に目が眩んだか…」
長忠からしたら、勝頼から与えられる封地に惹き付けられたのではなく、後詰に来ない家康に絶望したの気持ちが大きいのだが、当の家康はそうは見ない。
そこにあるのは、国衆(国人領主)の狡猾さである。
言志を左右にし、面従腹背を厭わない。風声鶴唳に怯え、安危を察し、臆面もなく大樹の陰にすり寄る…。
家康は、この国衆の姿勢こそがその強さと思う一方、その陰鬱さを感じずにはいられない。
この感情が家康にある以上、長忠の将来は明るくないのである。
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