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九
鳥のさえずりと闇を取り払った窓外の明るさで僕は目を覚ました。
「しまった、寝てた・・・・・・」
慌てて顔をベッドから上げると、目の前で驚いた様子の桃花がこちらを見ていた。
「桃花・・・・・・」
「悠久利。来てくれたんだ」
「当たり前だろ」
「ありがとう。本当に、ありがとう」
桃花は目を赤くしながら僕を抱きしめた。僕も、抱きしめ返した。
僕は桃花の背中に回した自分の腕にはめられた時計に視線を向けた。
「もう、六時か・・・・・・」
僕は随分と眠ってしまっていたらしい。
僕が呟くと、桃花はゆっくりと抱擁を解いて僕を見つめた。
「悠久利が来てくれたってことは、今日が私の命日なんだね。近いのは分かってたけど、そっか・・・・・・今日、かぁ」
桃花は少し視線を落としながら、一点を見つめた。僕は、桃花にどう声をかければいいのか分からなかった。
「私、何時に死んじゃうの?」
「・・・・・・言っても、いいの?」
「うん、大丈夫。私が死んじゃう前に、最後にお母さんに会いたいから」
「・・・・・・そっか」
僕は、余命宣告をしてしまうことで、桃花の身体がその死に身構えてしまうんじゃないかと懸念していた。よく、余命宣告をすることで生きる希望を見出すことができず、余計に死期が早まってしまうという話を耳にするからだ。だけど、桃花の死亡時刻が八時十五分であるという事実は、僕よりも先に桃花の死期を見届けに来た僕が干渉した結果であるはずだ。つまり、僕が死亡時刻を桃花に知らせても知らせなくても、この事実は変わらない。むしろ、時間と世界のいたずらによって、僕がどちらを選択するのかは、最初から決まっている。
「八時十五分だよ」
「・・・・・・あと二時間くらいかぁ」
桃花は微笑を浮かべながら窓の外を眺めた。
「お母さんに知らせなきゃ」
病院内での携帯電話の使用は禁止されている。桃花が病院に設置された公衆電話に赴こうとしたので、僕は慌てて止めた。代わりに僕がおばさんに電話をした。おばさんは僕がこの時間に病院から電話をかけてきたことに戸惑っている様子だった。桃花からおばさんに伝えるべきことを予め聞いていた。その言葉を、僕はおばさんに伝えた。
会いたい、と。
おばさんは電話越しで鼻をすすっていた。おばさんは静かに「分かった」とだけ言った。
おばさんとの電話を終えてから、僕は僕に電話をかけた。この時代にいる僕に桃花が危篤であることを知らせて駆け付けさせようと思った。桃花の最期に立ち会えない僕の代わりに、いや、本来桃花の最期に立ち会わなければならないはずの僕に、なんとかして桃花の側にいてほしい。けれど、高校生の僕は電話に出なかった。きっとまだ眠っている。この時点で気づいてくれなければ、他県にいる僕が桃花の最期に立ち会うのはもはや不可能だ。僕は未練がましく何度か電話をかけてみたけど、ずっとコールが鳴り響くだけだったのであきらめた。
僕は電話を切って桃花の病室へと戻った。
「さあ、あと二時間どうしようかなぁ」
桃花が明るく振舞っているのを見て、無理をしているんじゃないかと思った。
「身体は、大丈夫なの?」
「あはは。大丈夫じゃないから死ぬんだろうけど、今のところは異常なしだよ」
「でも、前に僕の家に来たときは」
「うん。そのときよりも、実はキツイ」
桃花はそう言って伸ばしていた背筋をベッドに預けた。
「こうやって元気に振舞ってるとさ、私は死が近い病人じゃないんじゃないかって思える、と思ったけどそんなこともなかった」
桃花は諦めたような笑みを浮かべた。
「けど、もういっか。だって、悠久利が来てくれたんだから」
桃花はそう言って微笑むと、僕に言った。
「私の体調が悪いからって、遠慮して喋らないのはやめてね。どうせ死んじゃうんだから、悠久利と話せる時間を大切にしたい」
桃花の言葉に、僕は頷いた。
そして、僕たちは本当に他愛のない話をした。その最中、僕は気にしていたことをこんな状況で言った。
「そういえば、僕と大学の話をしたのって嘘だったんでしょ。おばさんから僕の住所を訊き出したって」
「あ、お母さんから聞いた?」
「どうして嘘ついたの?」
「だって、お母さんと話したってことを言ったら、タイムパラドクスがどうたらって言われると思ったんだもん」
「いや、僕に会いに来てる時点でタイムパラドクスなんて気にしてないくせに。それに、昔二人で母さんとおばさんに会ってる時点ですでにタイムパラドクスなんていくらでも」
「もしかして怒ってる?」
「・・・・・・いや、別に」
「怒ってんじゃん」
「怒ってないよ」
「なんで怒って・・・・・・あ、もしかして、悠久利が曲げない男だって言ったこと、嘘だと思って怒ってる?」
桃花がニヤニヤとしながら僕の顔を覗き込んできた。僕は顔を逸らした。
「さあね」
「やっぱり図星だ」
桃花は可笑しそうに笑いながら、「嘘じゃないよ」と優しく言った。
「嘘じゃない。現に、悠久利はこうして約束を守ってくれたじゃん」
桃花は屈託のない笑みを僕に向けてきた。
気が付けば午前七時を回る頃になっていた。僕は、桃花の口にした「約束」という言葉で桃花に伝えなければならないことを思い出した。僕は、桃花の側に最後までいてやることができない。そのことを、伝えなければ。
「桃花、実は」
僕が口を開いた瞬間、病室のドアが開いた。そこには、看護婦さんと、おばさんがいた。
看護婦さんは、受付を通らずに病院に入っていた僕を怪訝そうに見ていたけど、桃花が自分の意思で僕をこの病院に呼び込んだと話すと、リスト表を渡されてそこに名前を書かされた。いつもお見舞いに来ている僕の名前を見た看護婦さんは、少しの注意だけで僕を桃花の側にいさせてくれることを許可してくれた。顔見知りの人ならばきっと僕の変貌具合に驚いていたことだろう。
そして、その変貌ぶりを目の当たりにしているはずのおばさんは、僕と看護師さんとのやり取りの間、終始無言だった。
看護師さんが病室を去ると、静寂が病室を包んだ。
時間軸的に、今のおばさんはタイムリープした小学生の僕たちとはまだ会っていないために事態の把握が難しい状況にあるのだろう。何度も僕に視線を寄越してきて、およそ高校生の僕とは違った容姿に困惑している様子だった。
「お母さん、悠久利も来てくれたんだよ」
この病室で最初に口を開いたのは桃花だった。
「・・・・・・本当に、悠久利くん? なんだか、雰囲気が違うというか、大人びてない?」
おばさんは困惑した様子の声で言った。
「信じられないかもしれないけど、今ここにいる悠久利は未来から来たんだよ」
桃花の言葉におばさんは眉を顰めた。
「未来から?」
桃花の言葉の意味が分からないといった当然の反応を示した。
「信じなくても構いません。近い将来、きっと信じてくれるような出来事が起こると思いますので」
僕がおばさんにそう言うと、おばさんは少し考え込んでから「悠久利くんは嘘つかないし、信じようかな」と笑顔を向けてきた。やっぱりおばさんには頭が上がらない。
僕たちは三人で思い出話に花を咲かせた。そして、おばさんは僕が未来から来た理由を聞いてとても落ち込んだ様子だったけど、「桃花の側にいようとしてくれてありがとう」と涙ぐみながら言ってくれた。
あっという間に七時五十分になり、元いた時代に帰還する時間が近づいた。
僕は、桃花に言わなければならないことを、握りこぶしを作ってから言った。
「桃花、聞いて。実は僕、最後までは桃花の側にいられないんだ」
「・・・・・・やっぱり、そうなんだ」
「え?」
「だって、今日って二月二十九日でしょ? 閏年だから、五年後から来た悠久利がこの日に来るには前日からタイムリープする必要があるでしょ?」
「・・・・・・気づいてたんだね」
「うん」
「ごめん」
「どうして悠久利が謝るの?」
桃花は困ったように僕の頬に手を当てた。
「約束、守れなくて。やっぱり僕は、こんなにも大切な約束一つさえ、守れない男なんだ」
「ううん、そんなことない。ちゃんとここに来てくれたじゃん」
「でも、肝心なときに」
僕が俯きながら自己卑下していると、桃花がベッドから身を乗り出して抱きしめてきた。
「本当に感謝してるの。ありがとう」
桃花は鼻をすすりながら僕に言った。
「ごめんね。本当のこと、高校生のときに言ってあげられなくて」
桃花はついに泣き出しながら僕に謝った。
「悠久利のこと、大好きだったから、言えなかった。言い訳になっちゃうけど、私は悠久利に、悲しんでほしくなかった」
「・・・・・・ごめん。一人で抱え込ませて」
僕も桃花の体温を感じながら涙を流した。おばさんも涙を流した。この病室では他の病室よりも温もりのある湿度に満たされていた。
それから五分が過ぎた。いよいよ僕が未来に帰る時間になった頃、桃花は「あっ!」と何かに気が付いたような声を上げた。それと同時に、苦しみだした。
突然のことに、僕とおばさんは一瞬唖然としたけど、すぐにナースコールで看護師さんや医師を呼び出した。
桃花は自分の胸を押さえながら咳を繰り返し、背中を丸めて苦しそうに顔を歪めた。
僕は突然訪れた脅威に戦慄した。桃花が命を落としてしまう予兆を目の当たりにして、ここまで来て怖気づいてしまった。おばさんの「八時頃に桃花の体調が急変した」という言葉を思い出した。
「桃花!」
おばさんは必死に桃花の背中を摩った。僕は声もかけることができないほど身体が硬直した。自分の不甲斐なさに呆れと怒りを覚えた。けれどすぐに、もう間もなく桃花がこの世界から消えてしまう事実を実感して、僕は桃花の手を握った。
「桃花、僕は、ずっと桃花のこと、好きだったんだ!」
「ごほっ、げほっ、うん・・・・・・」
桃花は苦しみながらも僕の顔を捉えて返事をした。
「幼稚園で一緒だった頃からずっと! 今だって、まだ桃花以外の人を好きになったことがないんだ!」
「はぁ、はぁ・・・・・・うんっ」
桃花は涙を流しながら、苦しむ表情の中に笑みを浮かべた。
「僕は、僕は・・・・・・」
自分の伝えたいことが分からなくて、もう時間がないのに何を言うべきなのか分からなくて、僕は涙を流しながら叫んだ。
「僕は絶対、また桃花に会いに行く!」
「・・・・・・うん、うんっ」
桃花は困ったような笑みを浮かべた。尚も苦しみながら、桃花は僕の手を両手で包み込んだ。
「待ってる、から・・・・・・」
桃花が途切れ途切れに言いながら、僕に微笑んだ。
そして、辺りは静寂に包まれた。
唐突に無音の病室に放り込まれた僕は、無人になったベッドの側で座り込んだ。爽やかな空を移す窓にかけられたカーテンが靡いている。
桃花の両手の温もりをまだ感じている手をベッドに置いてから、僕はそこに突っ伏した。
けれど、桃花の温もりはそこには残されていなかった。
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