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六
キスされた頬をさすりながら帰路につくと、お母さんが家の前で待っていてくれていた。
「お帰り」
「ただいま」
「・・・・・・あんた、なんかあった? ちょっと男の子の顔になってる」
「えっ、そ、そう?」
鋭いお母さんに戦慄しながら、僕は誤魔化した。
一連の騒動でクタクタになった僕はそれからお風呂に入って、お母さんとリビングで思い出話をしてから、そろそろ寝ることになった。すでに夜の十一時を指していた。あと一時間で元の時代に戻ることになるはずだけど、それまで起きていることはできないだろう。
一刻も早く寝たい気持ちで二階に上がろうとしていると、お母さんが「ねえ」と呼び止めてきた。
「何?」
「悠久利は優しいから、遠慮とかしてくれるときあるけど、そんなの気にしなくていいからね。気持ちだけで十分だから」
僕はお母さんの言っている意味をうまく汲み取れなくて首を傾げた。
「あはは、やっぱりなんでもない。おやすみ」
笑顔でそう言うお母さんの顔が少し寂しそうに見えた。それが気掛かりだったけど、そのもやもやの正体の解像度が不鮮明なままだったから、僕は「おやすみ」を言ってから二階の自分の部屋に向かった。
ベッドで横になると、今日一日の疲労がどっと出たのか、布団を身体にかけた瞬間に意識がどこか遠くへ行った。
目が覚めると、朝日が窓から眩しく差しているのが視界に入った。目を覆う粘膜が歪められるような眩しさから顔を背けて、僕はすぐに昨日の出来事を思い出した。
急いでカレンダーを確認すると、日付は現代の暦に戻っていた。部屋の電波時計に記された日付を確認すると、昨日から、当たり前だけど一日が経っていた。
僕は昨日の出来事が夢ではなくて本物だったのかを確かめたかったから、早く桃花ちゃんに会いたかった。そして、同時に、今日が平日であることも思い出した。
慌ててベッドから降りようとすると、いつもこの時間には仕事に行ってるはずのお母さんが床の上で肩肘をついて眠っていた。びっくりしたけど、たまたまお休みをもらえたのだと思った僕は、お母さんを起こさないように一階に下りた。どうして僕の部屋で寝ているのか気になったけど、それは帰ってから聞けばいい。
僕は急いで支度をして家を出た。学校になんとか間に合った。そして、桃花ちゃんを見つけて声をかけた。
「おはよう、桃花ちゃん。昨日は」
僕が言うと、桃花ちゃんは人差し指を口に当てた。
「昨日のことは、自分の中に留めておこうね。約束」
桃花ちゃんはいつもとは違う、屈託のないというよりは何か悟ったような笑顔で言った。拍子抜けする僕を尻目に、桃花ちゃんは友達の「おはよう」に挨拶を返した。そして、僕とは違うクラスの教室に入って行った。
てっきり、興奮してお互いに話し合うのかと思ったけど、考えてみれば昨日の桃花ちゃんの様子を見るにあまりいい思い出ではなかったのかもしれない。空気的に訊き出してよさそうとも思えない。
僕は釈然としない思いのまま、その日の授業を受けた。なぜか教室で僕を見つけた先生が「大丈夫なの?」と心配してきた。けど、僕が平然としていることで納得したのか、普通に授業は行われた。クラスメイトからは、休み時間に「行方不明になったんじゃないの?」と心配されたけど、僕には何のことだかさっぱりだった。正直、時間が経つにつれてあれは夢だったんじゃないかと思うようになった。むしろ周りのみんなの僕に対する不可解な言動の方が気になった。
そしてその日、お母さんから学校に連絡があって、僕は途中早退することになった。
家に帰ってからお母さんから聞いたことだけど、やっぱりタイムリープしたのではと思われる内容があった。
僕と桃花ちゃんがタイムリープしたと思われる日、僕たちはおばさんに「行ってきます」を言ってから二人同時に姿を消し、警察まで出動したそうだ。それから学校にも連絡が行き大騒ぎになったらしい。おばさんや警察からの連絡に仕事が終わって夜遅くに気が付いたお母さんは慌てて家に帰ったけど、そこにはベッドで悠々と眠る僕がいたそうだ。警察にも連絡して、おばさんにも連絡したところ、桃花ちゃんもいつのまにか自分の部屋のベッドで眠っていたそうだ。
そんな大事件があったにも関わらず、僕は小学校を卒業する頃にはすっかりそのことを忘れていた。
というのも、桃花ちゃんは本当にあの日以来、タイムリープした話を一度たりとも持ち出すことがなかったからだ。
粗方記憶の底でほこりをかぶっていた思い出を想起して、僕は気が付いた。
「もしかして、あのときに自分が死ぬことを知ったの?」
僕が訊くと、桃花はゆっくりと頷いた。
「そう」
そうか。桃花は未来で自分が死ぬことを知ってしまったから様子が変だったんだ。それに、僕に変な質問をしたのも、自分が近い将来に死んでしまうことを知ったからなんだ。
何も気が付けず、役に立てなかった自分が情けなくなって僕は桃花に謝った。
「ごめん」
「どうして悠久利が謝るの?」
桃花の困ったような笑顔を見て、僕は泣きそうになった。
僕たちはそれから、また他愛のない話をした。もうやるべきことは分かっていたから、僕たちは残された時間を噛み締めながら笑い合った。
桃花の命日は二月二十九日。あと三週間で二月は終わる。つまり、僕は三週間後に桃花に会いにタイムリープすればいい。そして、それは一回限りのチャンスだ。僕と桃花の二人で未来に行った時点でオルゴールを使える回数はあと二回だった。そして、桃花は今回のためにそのうちの一回を使った。残された回数はあと一回。僕も桃花もお互いにそのことは分かっていたけど、それを確認することはなかった。
時計が午後十一時を指した頃、桃花はゆっくりと立ち上がって僕にさよならを言った。
「じゃあ、またね。よろしく」
「うん・・・・・・」
桃花は僕の部屋から出ようと玄関に向かった。その瞬間に桃花はふらついて倒れそうになった。僕は咄嗟に桃花を抱きとめた。
「大丈夫? 桃花」
「あはは、ごめんね」
大丈夫大丈夫と笑う桃花の額には汗がかいてあった。冬のこの時期に汗をかくなんて、と一瞬不思議に思ったけど、すぐに気が付いた。桃花の呼吸が少し荒く、立っているのがやっとの様子だった。
「桃花、まさか、ずっと辛いの我慢してたんじゃ」
「・・・・・・ずっとじゃないけど、ちょっと今日ははしゃぎすぎちゃったみたい」
「・・・・・・ごめん、本当にごめん。また、何も気づいてあげられなくて」
僕は全く変わらずに情けないままの自分に失望した。そんな僕を不安げに見つめる桃花は首を横に振った。
「ううん、これは私が悪いの。もっと早くに悠久利に会いにくればよかったのに。病気になってからも勇気が出なくて、そろそろ未来の悠久利に会いに行かなきゃって思ってたのに、できなかった。だから、こんな状態になるまで悠久利に会いに来なかった私のせい」
「そんなこと・・・・・・」
全てを抱え込んでしまっている桃花を見てひどく辛くなった。
病気になって自分の死期が近いことを悟った桃花は、急ぐように僕に会いに来た。きっと、すごく不安で、もしかすると僕に会えなかったかもしれないのに。
僕は桃花をなんとか安心させたいと思って、桃花を軽く抱きしめた。
「悠久利?」
「絶対、側にいるから」
「・・・・・・うん、待ってるね」
僕が言うと、桃花も僕の背中に手を回した。
僕は安心させたいのとふらつく桃花を支えたい気持ちからしばらく抱擁を続けた。しばらくして桃花は「もう大丈夫」と言って僕から離れた。
そして、玄関のドア前まで行きドアを開きかけた桃花は、こちらを振り返った。
「そういえば、その時計、まだつけてくれてるんだ」
「え?」
桃花の視線をたどると、僕の手首に巻かれてある腕時計に目がいった。
「あぁ、まあね」
「ありがとね」
桃花はそう言って微笑んでから、今度こそ僕の部屋から立ち去って行った。
僕は急に静かになった自分の部屋の中で、腕時計をじっと見つめた。この時計は、確か桃花が亡くなる数週間前にくれた腕時計だ。形見ではないけど、何かお守りのように毎日つけているこの時計が僕と桃花を引き合わせてくれたように思えて、僕は思わず笑ってしまった。
いや、僕と桃花を引き合わせてくれたのは時間を司るオルゴールか。
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