448人が本棚に入れています
本棚に追加
I Love You
レストランから車でレンタカーの店舗まで行き、返却してから裕史の家に徒歩で向かった。最寄りの駅から五分圏内という好立地だ。その上新築。マンションのエントランスアプローチはホテルのようだった。柱は大理石が使用されている。通路の脇道には、整えられた観葉植物が並んでいる。
――なんか、高そうなマンション。裕史くん、まだ二十代なのに。
ガラスの玄関ドアは、近づくと自動で開いた。
「七階だから」
裕史に促されて、エレベーターに乗り込む。箱の中はだいぶ広かった。これならアップライトピアノも余裕で入るだろう。
――何でピアノ、処分しなかったんだろう。
裕史も弾くようになったのだろうか。それなら嬉しい。
エレベーターを出て右折し、廊下をまっすぐ歩いて突き当りに裕史の部屋はあった。
玄関のドアを開けると、右手に下足入があり、前方は廊下の先には広いリビングルームが見える。床も壁もドアも綺麗だ。新築だから当たり前なのだが、「うわー」と感嘆の声が出た。
スリッパを履いて、裕史のあとをついていく。とりあえず廊下を歩いてすぐ、右手にある洗面所に入り、手洗いうがいを済ませてから、リビングに向かう。と、十二畳ぐらいありそうなフローリングの真ん中には、木調縦格子の間仕切りが設置されていて、二部屋使いもできる仕様になっていた。
なんだか部屋の作りが新しい。自由度が高いデザインだ。
キッチンスペースも広い。二人同時に料理をしても、ストレスにならなさそうだ。
リビングの奥に掃き出し窓があり、その先にはこれまた広いバルコニーがある。
「裕史くん、すごい部屋買ったね」
インテリアも格好良い。ダイニングセットは木製でシンプルなデザインだ。反対側の壁側には大きな窓があって、その近くにはソファー使いができそうなベッドが置かれている。
バルコニーの手前に、壁に沿うようにしてアップライトピアノが置いてある。
「音が変なんだよね?」
大志は椅子に座り、ピアノの蓋を開けて適当に白鍵を押した。音がたわんでいる気がした。音階を弾いていくと、やっぱり音にズレがある。
「調律したほうが良いよ。調律師の友達がいるから、頼もうか?」
知り合い価格でやってくれるかもしれない。
背後を振り向くと、すぐ近くに裕史の姿があった。
「久しぶりに連弾しようよ」
二年ぶりの裕史のピアノだ。音は悪くても弾きたかった。裕史と。
「ああ」
裕史が隣に腰をおろした。やけに素直だ。
「弾きたい曲ある?」
「何でも良いよ。『別れの曲』以外なら」
――別れの曲。
タイトルを聞いただけで、大志の胸は引き絞られたように苦しくなった。だってあの曲を弾いて、裕史と別れたから。
泣きたくないから、この二年間、耳にしないようにした。それでも有名な曲だから、テレビで、ラジオで流れてくる。
そのたびに、大志は涙した。裕史との思い出が胸に溢れて。
あの曲だけは、だめだ。いつまでたっても。
自然と俯いてしまう。膝をぎゅっと掴む。その手に裕史の手が重なってきた。
「二年前の俺は弱かったし、狡かった。大志をたくさん傷つけた」
ごめん、と裕史が呟いた。声はひっそりとしていたが、本気で謝っていることはわかる。
大志は裕史の顔を見た。彼はまっすぐに大志の目を見つめてくる。
「お前が俺のもとに戻ってきたとき、俺は何が何でも話すべきだった。お前が耳を塞いでいても、八月七日のことを。でも俺は話せなかった。――お前と別れることになったらと思うと、怖くて言えなかった」
裕史は泣きそうな顔をしている。それでも言葉を連ねる。
「月日が経つうちに、お前が思い出さなければ良いのにって思うようになった。一緒にいると幸せで、絶対離したくないって思った」
「――俺も思い出したくなかったよ。裕史くんとずっと一緒にいたかった」
だけど思い出してしまった。思い出したら、もう、一緒にはいられなかった。酒に逃げるほど裕史を悩ませ、苦しめていたのが自分だったと知って、そばにいられるわけがなかった。
「二年離れていても、大志のことを忘れられなかった。そばにいてもいなくても、恋しいんだ」
――俺だって、ずっと好きだったよ。今も好きだ。
だけど、やり直すのは――。
「俺たちは従兄弟で、男同士だよ」
自分たちには絶対に乗り越えられない壁がある。だから裕史を諦めたのだ。二年前。
「そうだ。親に俺たちの関係が知られれば、引き離そうとされるかもしれない。泣かれるかもしれない。お互い辛い状況に陥るかもしれない。それでも、俺はお前が良い」
裕史がはっきりと言い切った。
「じゃあ、なんでこの家を買ったの? 結婚するのかもって母さんが言ってたよ」
「親にこれ以上、結婚しろって言われるのが嫌だったからだ。結婚して子供を作って実家に住めって――ずっと言われてきた。うんざりだった。それでも俺しかいないから、仕方がないって思ってた」
不意に、ぎゅっと手を掴まれた。彼の手は熱かった。
「大志もそうだろ? 一人っ子で、いつかは自分も家庭を持たないとって思ったことはないか?」
「――あるよ」
でも、親や世間体に対する義務感よりも、裕史への気持ちの方がずっとずっと大きかったのだ。彼さえそばにいてくれれば、何もいらないと思っていた。
「この家で一人で生きていくのも、気楽で良い。一緒に住みたい人は一人だけだ」
裕史は大志から一度も目をそらさない。もう二度と逃げないと、その瞳は訴えていた。
――二年前とは違う。
裕史の強い覚悟が伝わってくる。
「俺を、許してほしい」
心から許しを乞うている声だった。彼の切実な言葉に、大志の胸は震えた。涙の膜で視界がにじむ。喉が詰まる。でも言わないと。ひしゃげた声になっても。
「とっくに許してるよ」
とっくにこの人を許している。
とっくにこの人を信じている。
とっくにこの人を愛している。
瞬きをすると、涙がポロポロと頬を伝った。
大志は、ずっとずっと大好きだった初恋の人を、力いっぱい抱きしめた。すぐに抱き返してくれる裕史の腕は、力強くて頼もしかった。
小学生の頃、大志は裕史のことを完璧な人間だと思っていた。格好良くて、頭が良くて、優しくて、面倒見が良くて、連弾すると楽しくて、彼が奏でるピアノの音も澄んでいて。本当に完璧なひとなのだと、憧れていた。
でも違った。彼は完璧じゃない。間違った行動だってする。浅はかさも狡さも備えていた。
でも、それでも愛おしい。どんな裕史だって愛おしい。
こんなに許容できて、欲しくてたまらない相手なんて、裕史以外にいないのだ。
目を瞑ると、自分と裕史の両親の顔が浮かんだ。彼らを悲しませることになるのかと思うと胸がいたんだ。辛いとも思った。
――でも、俺が良いって言ってくれたんだ。こんなすごいマンションを買って、俺としか住みたくないって言ってくれるんだ。
裕史の顔を見たくなって、大志は彼から体を離した。泣き笑いになりながら、裕史に告げる。
「ごめん、嬉しい――大好き」
「俺も好きだ。――愛してる」
最後の言葉は、小さい囁きだった。しかししっかりと、大志の耳に届いた。
顔を寄せ合って、ようやく二年ぶりの口づけを交わした。
胸がいっぱいで、一回だけで十分なのに、裕史が何度も唇を重ねてくる。しまいには、舌まで入れてこようとするので、大志は首を振って、キスを中断した。
「一応今日って、一回目のデートだよ」
上目遣いに、裕史を軽く睨んだ。もう少し丁寧に、やり直しを図りたい。裕史はいつも手が早い気がする。
「部屋までついてきた癖に」
裕史がピアノ椅子から立ち上がり、大志の腕を引っ張り上げた。けっこう強い力だ。
強引に、リビングにあるソファっぽいベッドに連れて行かれそうになって、大志は「待って」と小さく叫んだ。
「シャワーぐらいしようよ」
昼食は外のテラスで食べたから汗をかいたし、この部屋でも泣いたから顔がベタついている。
「なんだ、やる気満々だな」
裕史のその言い草に、大志はカチンときた。
「やっぱりしない。今日はしない」
彼の手を振り払い、プイッとピアノがある方向に逃げようとすると、また腕を掴まれた。
「ごめん、シャワーするから」
裕史に抱きすくめられ、あやすように額にキスされて、大志は折れた。
「終わったら、連弾しよう」
縦に抱き上げてくる裕史に提案すると、明日だな、と返事が返ってきた。
最初のコメントを投稿しよう!