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第1章
母からの返事は、呆気ないほどに淡白だった。
「珠子が行きたいのなら、行って来れば?」
包丁の音は止まらない。聞かれたから答えただけで、語尾に抑揚もない。
母の背中越しの声には、温もりが一切なかった。
「……分かった。じゃあ、行って来るね」
「……」
返事がないのは、承諾と同じ。
目と目の合わない会話は、もうウンザリだった。
そして私は今、電車に揺られている。新快速で片道1時間半。
それほど長い距離でもないのに、今まで一度も会いに行こうとは思わなかった。
遠距離の友達も恋人もいないので、近場で全て事足りる。その分自転車に乗るのは上手くなったけれど、電車やバスは苦手だった。
初めての長旅に少しだけ心躍るけれど、すぐに疲労がやって来る。
車内の独特の匂いに酔ってしまい、吐き気が襲ってくる。気を紛らわせようと車窓をみやり、外の景色に目を細めた。
どこまでも続く長閑な田園に、自然と呼吸が楽になる。隣に座っていたお婆さんに、「大丈夫?」と声を掛けられて、自分が情けなくなり苦笑いした。
「お母さん。私、百合子に会いに行きたい」
そうやって母に頼んだ時、もっと怒られるかと思っていた。
いや、怒ってくれるのではないかと期待していた。
百合子は私の双子の姉で、10年前に両親の離婚がきっかけに、ずっと離れて暮らしてきた。お互いが恋しくならないように、親に手紙などの連絡は禁止にされ、次第に百合子の顔を思い出せなくなってしまった。
小さい頃はいつも2人一緒で、とても仲が良かったらしく、一度も喧嘩をしなかったそうだ。唯一覚えているのは、百合子はとても泳ぎが上手だった事。私とは全然顔が似ていなかった事だけ。
両親が離婚して間もない頃は、百合子に会いたくて仕方がなかった。
けれど、私が想像していた以上に両親の仲は険悪で、電話で声を聞く事さえ嫌がっていた。声を荒げて喧嘩するというより、冷戦状態を保ちつつ、ピリピリした空気を作っていた。
母が家を出て行く時、どうして私だけを連れて行ったのか。
その理由も知らない。
血を分けた姉妹がいるのは、やはり興味が湧く。
今年で私は18歳になり、高校卒業を目前に控えていた。友達と卒業旅行をする計画も立てず、ずっと1人で家にいる時に、それはやって来た。
ポストの中に、1枚の白い封筒。
中を見て、私はすぐに百合子に会いに行こうと決めた。
女手一つで育ててくれた母には、もちろん感謝している。中学、高校と進学出来たのは自分の力だけではなく、お金の工面をしてくれた母のお陰だ。
でも、どうしても不安になる。もしかすると、私は母に愛されていないのではないのか。家を出る時に百合子ではなく私を選んだことを、後悔しているのではないか。そうやって心を蝕まれていた時に、この手紙を読んだ。
人魚の呪いを解いて欲しい。
人魚。その言葉と共に脳裏に浮かんだのは、ゆらゆらと揺れる少女の髪。暖かい小さな手。顔は思い出せないのに、それが百合子であるとすぐに分かった。底の見えない沼にはまった時に、彼女が助けてくれた。
これが、いつ頃の思い出なのかは覚えていない。もしかすると、思い出が歪んで捻じれてできた、単なる妄想に過ぎないのかもしれない。
しなやかで美しい体躯。息をするのも忘れるぐらい優雅な姿に私は目を見張った。水の中を泳ぐ百合子。人魚は彼女の事ではないかと、何故か漠然とした結論に至った。
百合子がもしも困っているのなら、助けてあげたい。
こうして私は約10年ぶりに、かつて住んでいた家へと戻ることを決意した。
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