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冷房の行き届いた空間。青々と茂った自然の木漏れ日が、少女の肌にまだら模様を作る。
外の世界とは隔離され、森閑と静まり返っている。心拍数を表示するモニターだけが、定期的に鳴り響いており、時の流れをつかさどっているように思えた。横たわる彼女からは、正直まったく生気が感じられない。
汗一つかいていない白い肌。
細い腕に刺された針が、何とも痛々しい。
言葉が出なかったが、震える唇を動かす。
「眠って…いるんですか?」
「…そうですね」
どうしてだろう。看護師の声が単調で、機械の音みたいだ。業務報告を聞く上司のような気分だった。
「どれくらい、眠っているんですか?」
「…もうすぐ、1年になります」
1年。そんなにも長い間、ずっとこの状態のままなのか。
まずはじめに頭に浮かんだのは、母の背中だった。母は百合子がこん睡状態である事を知っているのだろうか。すぐに電話して一緒に来て貰った方が良いのではないか。
しかし、母が血相を変えてやって来る姿が、どうしても想像出来なかった。
どちらにしても、百合子の元へ来ようとはしない気がする。
薄情とは別に、父と同様に、母は百合子の事も嫌っていた。
どうして私ではなく、百合子だけを突き放したのか、ずっと疑問だった。けれどようやく今、その理由を知った。
百合子の顔は、父譲りの美しい顔をしていた。記憶の中にある父の姿は、何故か今でも鮮明に覚えている。他の子から羨ましいと言われ、どうしてみんな父親がいるのにそう思うのか分からず、いつも不思議だった。
でも、今なら分かる。残酷すぎるほどに。
私は父には似なかった。
百合子は目を閉じていても、神秘的で美しい。艶っぽく、透き通るような肌。それと対照的に、花弁を一枚くわえたように赤い唇は、不自然に色が濃くて作り物にも見える。
肩まで白い布団が掛けられていたので、首から下は見えない。触れる事さえ恐れ多く、見たいとは思わなかった。
一瞬にして彼女の虜になってしまう。そして戦慄めいた衝撃と共にやって来たのは、とてつもない劣等感だった。
私は、お世辞にも美人とは言えない。母譲りの丸い団子鼻と、薄い唇。特に何か欠落しているわけではないが、いたって平凡な顔立ちをしていた。この顔で苦労をした事はない。でも、百合子と並ぶと話は別だ。
比べるのも惨めになるくらい、優劣は明らかだった。
血の繋がりがあり、れっきとした姉妹。しかも私たちは顔以外全て同じだったはずなのに。
双子なのに全く似ていない。顔も苗字も違う。血の繋がりが、恨めしくなった。
喉から手が出るほど会いたいと思ったのに、今は後悔の念に襲われている。元々好きでは無かった自分の価値が、どんどんと下がって行く。
今の私と百合子の間に、共通点なんてない。念願の再会は、理想とはまったくかけ離れていた。空虚な心だけが残り、扱い方が分からず黙り込む。
そこへ看護士の女性が、何の前置きもなくぽつりと言った。
「百合子さんは、1年ほど前に…」
声は一定で、相変わらず血が通っているのかも分からない。
「川の近くでお友達と遊んでいる最中に、誤って転倒してしまい、溺れていた所を近隣住民によって助け出されたそうです」
「溺れた?」
思わず、聞き返してしまう。耳を疑う言葉だった。
百合子は確か、魚のように泳ぎが得意だった筈だ。そんな彼女が溺れるのだろうか。私の考えを見抜いたように、さらに続く。
「いくら泳ぎの得意な人であっても、何が起こるのか分かりませんから」
それはまるで、起きた事を後から上乗せして、揺るがない事実として埋め込むような口調だった。
「…事故から、百合子はずっと眠ったままなんですか?」
「そうです」
その瞬間、背中にゾワッと寒気が走る。つまり百合子は一度も目を覚ましていない。
では、一体誰が百合子の名前を使い、私に手紙を送ったのだろうか。
どうして住所も私の名前も知っているのだ。
まず一番可能性があるのは父だけれど、百合子の名前をわざわざ使う必要はない筈だ。それに、百合子がこんな状態なのに、私に嘘を吐くのはあまりに酷い。
もしもまったく知らない人に呼び寄せられたのだとしたら、何の目的があったのだ。私はどうして、この町に招かれたのだろう。
隣で棒のように立つ看護士に、恐る恐る尋ねた。
「1つ、尋ねたい事があるんですけれど」
「なんでしょう」
「人魚の呪いについて、何か知りませんか」
すると、ずっと機械のようにしか話さなかった彼女が、その一言で急に表情が変わった。目尻が吊り上がって、まるで鬼のような形相になる。
その恐ろしい顔に、思わず身震いした。
突然の変貌を目の前に、「ありがとうございました、もういいです」と急いで病室を後にし、逃げるように病院を出た。脳裏に残ったのは、百合子の美しい寝顔と、看護師の不気味な表情だけだった。
この町はおかしい。一体、人魚の呪いと何なのだ。
私はまだ、呪いに込められた悲しい秘密を、まだ知らずにいた。
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