宝の箱

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宝の箱

 穏やかな春風に包まれているかのようなこの村にも、泥棒というのが出るらしいと知ったのは、つい先ほどのことだった。  私と先生は国中を旅し、地質調査をしているのだけれど、それでもやはり行動の拠点というのは自ずと生まれるもので、現在はこの村の、古びた家屋を借りて暮らしている。調査場所から土を採ってきては、家にこもって研究。そんな調査漬けの毎日だが、不満はなかった。  太陽はとうに沈み、月が辺りを照らすころ、私と先生は煙で夜空を埋め尽くさんと目論むかのような機関車から降り、ボロ家へ帰る道すがら、いつもの八百屋に立ち寄った。  もちろんその時間には店は閉まっていたが、今や常連客となっていたこともあり、扉を叩けば店主のおばさんが出てきて野菜を売ってくれる。売れ残りをただ同然の値段で売ってくれることすらある。なので私のほうも、なるべく同じ時間帯に立ち寄ろうというせめてもの心遣いを見せたいところだったのだけれど、いかんせん、この村に帰ってくる時刻は調査場所までの距離に大きく左右されてしまうため、今日もその心遣いを見せることはかなわなかった。  私が遅い夕食の材料を選んでいると、店主のおばさんに、「最近この村にも泥棒が出るらしいよ。おたくも気をつけなさいよ」と言われ、私は「盗まれるような物もありませんからねぇ」と笑って応えた。地質調査に関する器具や資料など、盗まれて困る物はたくさんあっても、泥棒が盗んで得をしそうな物はなに一つ……いいや、一つだけ、あるかもしれない。  私の脳裏に思い浮かんだのは、少し前から部屋の片隅に陣取っている、大きな宝箱だ。年代物らしきその宝箱を開き、先生はいつもうっとりと中を眺める。今年は例年より遅い開花となりました……そう、待ちわびた花が咲いたというような、幸せそうな面持ちで。  あの宝箱には、なにが入っているのだろう。高価な物だろうか。宝石とか?  わざわざ宝箱に入れるくらいなのだから、よほど大切な物のはずだ。 「戸締まりに気をつけましょう、先生」 「そうだね」  先生は悠長に微笑んでいた。  まさか八百屋のおばさんから泥棒の話を聞いたそのすぐ後に、自分たちが被害に遭うとは思ってもいなかった。いや、話を聞いたときにはもう、すでに泥棒に入られていたのだろうけれど……。 「泥棒ですよ、先生」 「そうだね」  物がそこら中に散乱しているのを目の当たりにし、私は動揺する。しかし先生は、またも間延びした声で答えた。 「泥棒ですよ」  なので私はもう一度呟く。のどかな村の雰囲気と、眼前に広がる惨状との乖離。  底冷えがする。身体ががたがたと小刻みに震え、私は自分で自分を抱きしめた。  先生の足が、ゆっくりと部屋の隅に向かっていく。床に落ちたレポートや調査器具を踏まぬよう、慎重に宝箱に歩み寄る。私はその後に続いた。  先生は床に膝をつき、宝箱を開ける。私は先生の後ろから、その背中越しに宝箱の中を覗き込んだ。  中は、もぬけの殻だった。宝物の入っていない、宝箱。 「先生、この中には……なにが入っていたのですか?」 「……フィオの石の塊だ。あの透き通った緑色が、この宝箱の中でよく映えていた」  フィオの石。地質調査で深層の土を掘り上げると、ときどき出てくるやつだ。  もろくて、すぐ砕ける。だから塊は珍しいのだろうか。金銭的価値があると聞いたことはないけれど……。 「まあ、それは、また採ればいい。とにかく、この宝箱が無事でよかった。この宝箱は、セリアーヌ海で見つけられた、とても貴重な物だからね。海賊が栄えていたころの遺産なんだ。歴史的価値も計り知れない。だが、それよりぼくは、単純にこの木が素晴らしいと思うね。かなりの海水を吸っているはずなのに、全く色あせていない。ほれぼれするよ。先日、教え子からもらったのだ」  いつものうっとりした目で、先生は言う。  とりあえず、夕食を作ろう、と私は思った。空気は弛緩し、次第に私の頭の中は、避けがたい空腹感でいっぱいになる。
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